秀吉になりきって巡る「中国大返しの旅」~②備中高松城から山崎へ【旅する日本史】

豊臣秀吉

歴史は人々の営みによって作られるもの。人々の営みは人々の行動によって作られるもの。一つの史実に沿って、歴史上の人物が歩んだ足跡を巡る旅のプランを提案する新連載『旅する日本史』。史実の英雄になったつもりで、あるいは参謀役になったつもりで時系列に沿って史跡を辿ることで、より深く歴史に思いを馳せることができます。今回は、羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀を討つべく畿内に舞い戻った「中国大返し」の旅の後半。それでは今から、歴史上の人物とともにタイムスリップに出かけましょう!

中国大返しの始まり

前回は、羽柴(豊臣)秀吉が毛利氏攻略のため備中に入り、水攻めで見事に備中高松城を陥落させるところまでを巡りました。

ただし、私たちはこの備中高松城でのんびりしているわけにはいきません。急いで京に帰り明智光秀を討たなければならないのです。2万の軍勢を抱える秀吉の足跡を追いながら、中国大返しの旅を続けていきましょう。

秀吉が備中高松城を出たのは、毛利氏と和睦を果たした翌日の6月5日ではなく、翌々日の6月6日だという説があります。そうだとすれば、毛利氏が信長の横死を知っているか知らないのか、出方をうかがっていたのでしょう。

それによって情勢は大きく変わります。戦国時代の戦では、武器による戦い以上に、こういった情報戦が重要になってくるのです。

6月6日 沼城へ出発

午後2時ごろ、 秀吉は水攻めに用いた備中高松城周辺の堤防を切り、包囲を解いて出発する。

なぜ堤防を切ったのかといえば、もし毛利氏が信長が討たれたという情報を入手して秀吉の軍勢を追っかけてきても、堤防を切って周囲が沼地になっていれば毛利氏の動きを鈍らせられるという算段。

秀吉は備中高松城からおよそ20キロメートルほど離れた沼城へと向かい、ここで宇喜多秀家の軍と別れて姫路に向かったと言われている。

沼城へは、まずJR吉備線の備中高松駅に戻り、そこから岡山駅へ進みます。山陽本線に乗り換えて5駅目の上道駅で下車。そこから車で4分、歩いて20分くらいのところに沼城はあります。

ただし、現在は石碑が残るのみですし、JR山陽新幹線、JR山陽本線の車窓沿いにある場所なので、そのまま電車で通りすぎて姫路に向かってもいいでしょう。

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沼城跡は山陽新幹線と山陽本線から見える場所にある

Ⓒ2021 Google

6月7日[船坂峠] 70キロの行軍

沼城から姫路城まではおよそ70キロメートルの道のり。6月6日に出発して、翌6月7日夕方に姫路城に帰還したというのが有力な説。ただ、この70キロの行軍というのは現実的ではないとして、異論を唱える者も多い。

それでは、はたしてこの行軍が可能かどうかを検証する意味も込めて、一番の難所を訪れてみましょう。それは、備前国と播磨国の境にある船坂峠。秀吉もこの峠を超えたと言われているため、ぜひとも実際に歩いてみたいところです。

 沼城からはまずはJR山陽本線の上道駅まで戻り、そこから相生方面の電車に乗り6駅で三石駅。船坂峠は、ここから国道2号線沿いに歩いて30分ほどのところにあります。ただ、現在は船坂峠の下にトンネルが開通。船坂峠にたどり着くには国道2号線から旧道に入る必要がありますが、この旧道は歩く価値があります。

船坂峠は、南北朝時代の軍記物語『太平記』にも「山陽道一の難所」と記されています。実際に歩いてみると、言葉通りの難所。谷が深く道幅も非常に狭いため、兵は縦列を組まなければ進むことができなかったでしょう。

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現在の船坂峠。右側にあるのは岡山と兵庫の県境石碑

出典:Wikimedia Commons

現在は舗装されているものの、道が苔むしているため非常に滑りやすく、当時はさらに歩きにくかっただろうと想像がふくらみます。秀吉が行軍した当日は暴風雨だったという記録もあるため、いかにこの行軍が困難であったかがわかります。

しかも、毛利の軍勢が背後から攻めてくるかもしれないと警戒しつつ動かなければいけません。それでこういった道を70キロも進軍したとは、戦国時代の兵たちには頭の下がる思いです。

私たちはJR山陽本線を使ってショートカットをしたうえに、旧道に入るまでは綺麗に舗装された道を歩いていたため、当時の人の苦労はこの比ではありません。実際に歩いてみなければ、こうしたことはわからないものです。

実際には、すべての軍勢が6月7日の夕方までに姫路城に到着したのではなく、その時間に到着したのは先鋒だけだったのではないかと考えます。

ただし、実際のところは当時の資料が残っていないため謎のまま。行軍を体験してみると、当時の人の声があなたに聞こえてくるかもしれませんよ。

本来なら船坂峠からそのまま姫路に向かいたいところですが、JR山陽本線の次の駅である上郡駅までは徒歩で約2時間。ですからここは、そのまま三石駅まで戻って姫路へ向かうといたしましょう。

[ここも行っトク!] 船坂山義挙の碑

船坂峠に到着すると岡山県と兵庫県の県境の石碑があります。その石碑の近くには「船坂山義挙の碑」が。ここは今からおよそ700年前の鎌倉時代末期、鎌倉幕府を倒すことを計画した後醍醐天皇が計画に失敗し、隠岐に流される途中、後醍醐天皇の奪還を目指した児島高徳が決起した場所。その様子が先述した『太平記』に詳しく書かれています。戦前の日本では児島高徳は天皇に忠義を尽くした人物ということで称えられ、ここに児島高徳を顕彰する石碑が建てられたのです。

石垣から当時の姫路城を偲ぶ

6月8日[姫路城] 退路を断つ秀吉

姫路城に戻った秀吉は一日の休暇をとったと言われる。もちろんこれは兵士に対する休暇であり、秀吉自身は休む間もなかった。姫路城内の金銀と米穀の量を調べさせ、これを家臣にことごとく与えたという。

これは家臣に対して、姫路城に籠城する意思のないことを示すもの。また、気前よく褒美を分け与えることで、明智光秀に勝利した暁には大きな褒美を出すことを家臣に約束するという意味合いもあった。

目的は明智光秀を倒すことただ一つ。退路を断った秀吉は翌日動き出す。

船坂峠のあった三石駅から姫路駅まではJR山陽本線で1時間ほど。姫路城は駅から6分ほど歩いたところにあります。姫路城の蔵は現存しておりませんが、姫路城を見ながら明智光秀を倒す意思を固めた秀吉に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

姫路城は1604年に池田輝政が作ったもの。しかしこの姫路城にも秀吉時代の石垣は残っています。 本丸や二の丸、備前丸には石をそのまま積み上げた野面石垣と呼ばれる石垣が残されています。こここそ秀吉時代の石垣。実際に秀吉が見たものと同じ石である可能性があるわけです。

姫路城の石垣

姫路の地も美味しいものが多い場所でもあります。船坂峠の行軍でお疲れでしたら、秀吉に従軍する兵士の気持ちになって一日ゆっくり姫路で骨休めをするのも一興かと思います。

6月9日[洲本城] 狙うは明智光秀の首

朝、姫路を出発した秀吉は部隊を二つに分ける。秀吉は明石に、別働隊は明石海峡を越えて淡路島の東に上陸し、洲本城を攻撃した。

当時の洲本城主である菅達長かんみちながが明智方に通じている可能性があり、このまま進軍すると、菅達長の軍勢が背後から秀吉の軍を狙う可能性があったためだ。秀吉の軍勢に攻められ、菅達長はその日のうちに城を明け渡した。

洲本城へは、 姫路駅からJR山陽本線で舞子駅、もしくは山陽電鉄本線で舞子公園駅へ。途中で秀吉の逗留地である明石を通るので、そこで車窓から秀吉に向かって「洲本城の攻略はお任せください」と心の中で一言呟くと、気分が盛り上がること必然(明石駅での駅弁については後述)

舞子からは高速バスに乗り換えて洲本バスセンターへ。洲本バスセンターからはタクシーで15分程度、歩いても40分ほどで到着することができます。

現在残っている洲本城は1928年に作られた模擬天守で、石垣なども秀吉が洲本城を攻めた当時のものではなく、最も古くて秀吉から城主に任命された仙石秀久の時代のもの。当時を偲ぶものは残っていませんが、それでも行く価値は十分にあります。

現在の天守は1928年につくられたもの

おすすめは馬屋郭から紀淡海峡を望む景色と、天守からの眺望。島に作られた城ならではの絶景を楽しむことができます。

6月11日[尼ケ崎城] 光秀討伐の決意を固める

10日に明石を出立した秀吉は10日夜、兵庫に到着。兵庫で休息してから翌11日、尼崎に向けて出発し、夕方ごろには尼崎に到着して現在の尼崎城のあたりに着陣。

ここで秀吉は摂津国の禅院十刹である栖賢寺で自らのもとどりを切り、光秀と戦う決意を新たにしたと言われる。

洲本城を攻略した私たちは、明石海峡大橋を渡って三の宮まで戻り、秀吉と合流しましょう。神戸で一泊してもいいですが、電車ですぐなのでそのまま尼崎まで向かいます。

元町駅からは阪神本線に乗り換えて7駅ほど行くと尼崎駅。尼崎駅からは、6分ほど歩くと尼崎城があります。実はこの尼崎城は江戸時代になってから築城されたもので、秀吉が着陣した当時、このような城はありませんでした。

また秀吉が髻を切って明智光秀と戦う意思を固めた栖賢寺も、現在は京都にあります。ただ、その栖賢寺のあった寺町は尼崎城から歩いて10分程度のところにあるので、秀吉の足跡をそのまま追うことも可能です。

この栖賢寺は、この後の明智光秀との山崎の合戦に勝利した後に家臣たちを饗応した場所。江戸時代の観光案内にあたる『摂津名所図会』には、この寺に秀吉が腰掛けて山崎の合戦の軍議をした松もあったと記されております。

ここで皆さん疑問に思うことはないでしょうか。姫路城まではあれほどのスピードで行軍したのに、姫路以降はそれこそ各駅停車に乗っても数時間で済むスピードしか進んでいないのです。

これは、当時の明智光秀方と羽柴秀吉方で情報戦略が交錯しており、明智光秀の出方を慎重に見極めながら行軍していたから、ということになります。戦国時代は、武力と情報力の両輪によって戦いを進めていくことが重要だったわけです。

いざ合戦の地、山崎へ

6月12日[富田] 軍議を開き、明日の決戦へ

秀吉は尼崎から西国街道を進み、富田の本照寺に着陣して軍議を開く。情報戦の中で、秀吉は「今回の戦いは、逆賊明智光秀を討つ義戦である」と書状を通じて諸大名に印象づけることに成功。

そのため、信長の三男である織田信孝を筆頭に、池田恒興、丹羽長秀、高山右近、中川清秀といった名だたる武将が秀吉側に参陣する結果となり、山崎の戦いは秀吉の勝利に導かれていった。

それでは、これから富田を訪れることにいたしましょう。まずは尼崎城から阪神本線尼崎駅に向かい、尼崎駅から阪神梅田駅へ。梅田駅で阪急線に乗り換え、阪急梅田駅から阪急富田駅に向かいます。

本照寺は阪急富田駅から徒歩10分程度。浄土真宗本願寺派の寺院で、非常に落ち着いたたたずまいです。ここで戦勝祈願のお祈りをするのもよろしいかと思います。

この地に秀吉が陣を張った理由は、横に西国街道が走っていること、横に淀川も流れており淀川の水運が利用できたこと、さらには周囲と比べて少しだけ高くなっており、見晴らしがよく攻めやすい場所であるためです。その辺りの町をぶらぶら歩いてみて、実際に地の利を確かめるのも旅の楽しさといったところでしょう。

右上の小高い山が天王山。右下の大山崎ジャンクション付近に山崎合戦古戦場跡がある
6月13日 山崎の戦い

軍議を終えた秀吉は、自らの本陣を宝積寺におく。宝積寺の眼前には標高270メートルの天王山。天王山には黒田官兵衛、羽柴秀長らが旧西国街道沿いに陣取り、円明寺川(現、小泉川)を挟んで明智光秀の軍勢と向かい合う形に。

当時、山崎は広大な沼地であったため、秀吉の軍勢が通れる場所は限られており、地の利は明智に味方する格好。そのため、戦いは長引きそうな様相を呈していた。

ところが、戦いは急転直下、池田恒興の軍勢が淀川を北上して円明寺川を渡り明智軍を急襲。これに乗じて織田信孝、丹羽長秀の軍勢も天王山から明智光秀の軍勢に襲いかかり、挟み撃ちに。

にわか仕立ての明智軍は雑兵が多く、逃げ惑う者が続出。明智軍は混乱に陥り、明智光秀も後方に陣取っていた勝龍寺城を脱出、居城である坂本城に向かう途中、または逃げている途中に小栗須の藪で農民に殺されたとも、自害したとも言われている。

秀吉は勝龍寺城に入り、翌日には明智光秀の首を受け取ったと伝えられる。

まずは秀吉とともに富田から宝積寺に向かいましょう。摂津富田駅に戻ってそこからJRで3駅の山崎駅に。山崎駅からは歩いて10分程で宝積寺に到着いたします。

宝積寺からは歩いて12分程で天王山の登山口に到着。ここからは3時間ほどのハイキングコースです。3時間というと大変に感じるかもしれませんが、天王山は標高280メートルという低山で、初心者向けの楽しいハイキングコースとなっております。

途中には、山崎の戦いを描いた陶板が飾られ、円明寺川(現・小泉川)と山崎の戦いの地を見下ろす展望台もあり飽きさせません。

そしてハイキングコースの最後を締めくくるのは明智光秀が秀吉に明け渡した勝龍寺城。 現在は勝龍寺城公園となっており、明智光秀ゆかりの地ということで資料館もあります。 城を明け渡された秀吉になった気持ちになって、ここを訪れてみるのも一興かと存じます。

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明智光秀終焉の地である京都市伏見区小栗栖には、石碑が残されている
[ここも行っトク!] サントリー山崎蒸溜所

山崎という言葉を聞くと、辛党の諸兄はむしろ日本が世界に誇るウイスキーであるサントリーの「山崎」を連想されるかと思います。こちらのサントリー山崎蒸溜所は、関東大震災が起こった1923(大正12)年にできた、日本最初の本格的な蒸留所。天王山の登山口から徒歩15分でこのように歴史ある場所を訪れることができるので、お時間がございましたらぜひどうぞ。こちらの蒸留所は事前予約をすれば工場内見学が可能。また見学後はウイスキーの試飲もできるので、ここで秀吉と共に祝杯をあげてみるのも乙なものかもしれません。(現在は新型コロナウイルスの影響で見学を中止しています。今は新型コロナウイルスの撲滅を祈願するに留め、次回の来訪に望みを託すといたしましょう)

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工場ではさまざまなウイスキーの試飲ができる。(現在は一時中止)

[ここでこの味!]「ひっぱりだこ飯」(明石駅・駅弁)

こちらの駅弁は1998(平成10)年に明石海峡大橋が開通したことを記念してできました。明石海峡大橋のおかげで今回のような旅が実現するわけですから、その恩恵に感謝しつつ、また明智光秀を引っ張り出して首をとるという戦勝祈願の意味を込めつつ、こちらの駅弁を食することといたしましょう。ふっくらしたタコに、もちもちしたもち米、そして細かく刻まれた穴子が絶妙なバランスです。ちなみに私のオススメの食べ方は、上に乗ったタコをちびちびとかじりながらお酒を楽しみ、タコがなくなったらもち米のあなごめしを堪能するというもの。もち米にはタコのエキスがしっかり染み込んでいて、普通のあなごめしとは一味違います。容器は陶器製で持ち帰ることもできるので、のちのち旅の思い出にもなるかと思います。

ひっぱりだこ飯

今回のルート

備中高松城→沼城→船坂峠→姫路城→明石→洲本城→尼ケ崎城→栖賢寺→本照寺→宝積寺→天王山→勝龍寺城

PROFILE
金谷俊一郎

歴史コメンテーター、歴史作家。日本史講師として、30年間東進ハイスクールで数々の衛星放送講座を担当。テレビ・ラジオ番組や各地講演会でも、歴史を楽しくわかりやすく伝える活動を行っている。「試験に出るコント」(NHK)では、放送界の最高栄誉「ギャラクシー賞」選奨を受賞。ハーブセラピスト、駅弁王子の肩書きも持ち、著書は60冊以上。累計300万部を突破。歌舞伎の脚本なども手がけ、自らも舞台に立つ側面も。