実は信長より六つ年上!? 明智光秀にまつわる出自のミステリー

明智光秀といえば戦国末期の武将で、主君である織田信長を自害に追い込んだご存じ「天下の謀叛人」。主君に刃を向けた本能寺の変の動機は戦国期最大のミステリーだが、実は家系や年齢についても謎の部分が非常に多い。本能寺の変の後、明智一族はどのような顛末をたどったのか。

通説では「明智城主の子」となっているが……

織田信長に仕えるまでの光秀の前半生だが、世間一般に流布している通説は次のようなものである。

光秀は清和源氏・土岐氏の一門であった東美濃の明智城主・明智光綱の子として生まれる。光綱は父・光継とともに斎藤道三に仕えていた。道三の正室・小見の方は光継の娘であり、のちに信長の正室となる濃姫(帰蝶とも)を生んだ。つまり光秀と濃姫はいとこ同士ということになる。

やがて、道三が息子・斎藤義龍との争いに敗れると、明智城も義龍に攻められて落城。若い光秀は命からがら城を抜け出す。その後、光秀は明智家再興を模索しながら浪人として諸国を遍歴し、どうにか越前の朝倉義景に仕えることが適う。

ほどなくして三好三人衆に追われた足利義昭(のちの室町幕府十五代将軍)が義景を頼って越前にやってくると、光秀はその義昭に仕えるようになる。そのうち日の出の勢いの織田信長との仲をとりもつようになり、それが縁で信長にも仕えるようになった。つまり光秀は、二人の主君を持つ両属の家臣となったわけである。

これが通説にある光秀の前半生だが、この説は江戸中期の元禄年間(一六八八〜一七〇四年)に編纂された『明智軍記』が基になっており、司馬遼太郎が小説『国盗り物語』の中でこの『明智軍記』に依拠して光秀の前半生を描いたことから、いよいよこの通説が「真実」として広まってしまった。

ルイス・フロイスも光秀の身分について書き残す

ところが、『明智軍記』は光秀が亡くなって百年もたってから書かれており、著者も不明だ。これはあくまで「軍記物語」であるため客観性に乏しく、あきらかな間違いが数多く指摘されていて史料的な価値は低い。

光秀が明智城主の子だったとするこうした『明智軍記』や「明智系図」に基づく通説に対し、真っ向から疑問を投げかけるのが、『光源院殿御代当参衆并ならびに足軽以下の衆覚』と題された史料である。

これは室町幕府末期の十三代将軍・足利義輝とその弟で十五代将軍・義昭に仕えていた直臣ではない身分の低い家来たちの名簿で、その中に記しるされた「明智」という人物が、光秀のことだと考える史家が多いのだ。

そうなると、光秀が代々室町幕府に仕えて奉公衆も務めたほどの名族の出身であったなら、こうした名簿に載ることは不自然である。当時の幕府に対して、光秀自身が名族の出身だと主張した形跡もどこにもみられない。

それはつまり、光秀が土岐明智氏とは関係が無い、まったく別の明智氏の出身であったからか、あるいは勝手に明智氏を詐称したからではないだろうか。百歩譲って、土岐明智氏の庶流につながっていたかもしれないが、少なくても直系ではなかったために、「足軽」として名簿に登録されたのだ。

信長に気に入られ、日本で布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスは光秀について、「高貴の出ではなく、足利将軍家に仕える細川藤孝(近世細川氏の祖)の家来だった人。その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けるようになった」といった意味のことを書き記していた。

このフロイスの証言からも、光秀が土岐明智氏の直系だったという説はやはり正鵠を得ていないように思われる。

足利義昭を奉じて上洛を果たす

吹けば飛ぶような足軽衆でしかなかった光秀が、羽柴秀吉の出世物語さながらに、その才能を細川氏や幕府内で認められて栄達を遂げ、やがて足利義昭と信長との仲立ちをするまでになった、というのが真相ではないだろうか。

いずれにせよ、光秀という人物のルーツに関しては同時代の史料が乏しく、ほとんどわかっていないのが実情だ。光秀の父親に関しても、通説にある光綱以外に光隆、光国など十人以上もの候補者があがっており、特定には至っていない。

実は年齢さえも不明だ。出生年に関して有力なのは、次の三説である。

①永正十三年(一五一六年)説──享年六十七
②享禄元年(一五二八年)説──享年五十五
③天文九年(一五四〇年)説──享年四十三

本能寺の変(天正十年=一五八二年=六月二日)を起こした年齢として妥当と思われるのはやはり②の享禄元年説で、これは『明智軍記』が基になっている。そうなると光秀は、四十九で非業の最期を遂げた信長より六つ年上だったことになる。

光秀が最初に信長に出会ったのは永禄十一年(一五六八年)ごろとみられている。このころ光秀は足利義昭に仕えていて、義昭と信長との間を行き来する連絡係のような役目を担っていたらしい。同年九月、信長は義昭を奉じて上洛したが、その際、光秀も義昭に同行している。

戦の指揮を執らせても一流

このころには、光秀はその才を見込まれ、信長にも仕えるようになっていた。こうして光秀は、いよいよ表舞台に登場するようになっていく。

光秀が足利義昭を見限り、信長の家来一本に決めた時期については、はっきりしないものの、元亀二年(一五七一年)九月の「比叡山焼き討ち」の直後に、元は比叡山領だった近江国志賀郡五万石を信長から頂戴し、延暦寺の門前町であった坂本を拠点としたあたりではないかとみられている。『明智軍記』を信じれば、このとき光秀は四十四歳という年齢になる。

光秀という人物は、実務能力や交渉術に長たけた官僚型であっただけでなく、戦(いくさ)の指揮を執らせても非凡だった。この「比叡山焼き討ち」では、光秀が率いた一隊は中心実行部隊として、五百余棟とも言われた寺社堂塔を残らず焼き払い、数千もの僧侶の首を刎ねるという情け容赦のない集団殺害を繰り広げている。

また、その前年の信長自らが出陣した越前攻めでは、越前の朝倉氏と近江の浅井氏との連携による挟み撃ちに遭い、信長は生涯最大の窮地に陥ったが(「金ヶ崎の戦い」)、このときの撤退戦を見事にやり遂げたのは、ひとえに殿軍(しんがり)をつとめた光秀隊の獅子奮迅の働きによるものだった。

後年、秀吉は自分が殿軍をつとめたからこそ、信長公を無事に逃がすことができたのだと周囲の者によく自慢したそうだが、これこそ死人に口無しというものだ。最近の研究では、このときの撤退戦は秀吉隊よりも光秀隊のほうがはるかに奮戦していたことがわかったという。

丹波一国をわずか四年で平定

信長にこうした戦での活躍も認められ、光秀は志賀郡五万石を与えられた。昨日今日仕えたばかりの新参者であっても、家柄がどうであれ、自分が有能と認めたなら、それ相応に報いるのがいかにも信長らしい。

その後の光秀だが、伊勢長島攻めなどで功を重ねた結果、天正三年(一五七五年)七月、信長の推挙によって朝廷から「惟任(これとう)」の賜姓と、従五位下日向の守に任官を受け、惟任日向守となった。このあたりから信長に丹波国攻略を任されるようになり、それを光秀は、なんと四年という短期間で成し遂げてしまうのである。

あまり家臣を褒めたことがない信長でさえ、このときの光秀の抜群の功績に対し、「丹波での光秀の働きは天下の面目を施した」と賞賛を惜しまなかったほどである。こうして光秀は、織田家中では宿老という重臣の仲間入りを果たすのである。

その後の光秀だが、丹波に入って福知山城を改修し、城下町の整備にもつとめるなど領民の慰撫に熱心に取り組んだ。

家屋敷にかかる地子銭(税金)を免除したり、暴れ川として恐れられていた由良川の治水工事を行ったりしたのも光秀の功績だ。結局、光秀がこの丹波国の領主であったのはわずか三年余りだが、こうした功績によって領民に感謝され、今日でも光秀は地元の人々からは名君として慕われている。

悲劇的だった光秀一族のその後

ここまで見てきたように、信長という合理主義の権化のような人物と出会わなければ、おそらく光秀は歴史の片隅に埋もれていただろう。しかし、どちらが光秀にとって幸せだったのかはわからない。

光秀一族のその後は悲劇的だった。まず子供たちについて。『明智軍記』によると、光秀には長男光慶以下三男四女があったそうだが、三人の男子の事績はほとんどわかっていない。「山崎の戦い」で勝利した秀吉軍は、余勢をかって光秀の居城である坂本城を攻めたが、その際、光秀の男子たちは燃え落ちた城と運命を共にしたものと思われている。

三女の玉(洗礼名・細川ガラシャ)は生き残ったが、こちらも悲劇的な最期を迎えている。玉は天正六年(一五七八年)に細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いでいた。その四年後に本能寺の変が起こったことで彼女の運命は一変する。

「逆臣の娘」であるとして丹後半島に一時幽閉され、その後秀吉から赦されるが、細川家では四六時中監視される息の詰まる日々を過ごすことになる。そうした辛い境遇のなか、一筋の光明を見いだしたのが、キリスト教への帰依だった。

洗礼も受け、ようやく穏やかな暮らしが戻ったと喜んだのもつかの間、秀吉が没し、徳川家康と石田三成の対立が表面化すると、そのあおりを受けて玉は、事実上の自害を遂げてしまうのであった。

玉は、三成方の人質になることを拒み、家康方についた夫・忠興が心おきなく戦えるよう、自ら死を選んだのである。まさに、武士の妻の鑑といえよう。

細川忠興、ガラシャ(玉)夫妻が新婚時代を過ごした京都府長岡京市には「ガラシャ通り」があり、毎年11月には「ガラシャまつり」が行われている

最後に、光秀の妻煕子(ひろこ)はどうだっただろう。土岐郡妻木城(岐阜県土岐市)を本拠とした武将・妻木氏の出身とされている。賢夫人で、生活に困窮したときは自分の黒髪を売って夫を支えた。光秀はそんな煕子を慈つくしみ、生涯、側室は置かなかったという。相手が人妻であっても平気で手を出した秀吉とはたいへんな違いである。

本能寺の変の六年前に病死したらしいが、このときの煕子には夫の末路を知るよしもなく、最愛の夫に看取られながら逝くことができた。そういう意味では、早世ながらも幸せな最期だったと言えるのかもしれない。

 

 

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