世界中に感染症を蔓延させた「コロンブスの交換」とは

15世紀半ばから17世紀半ばまでの大航海時代は、現在のグローバリズムの先駆けとも呼べるものである。この時代にはさまざまなモノが“発見”され、海をまたいで移動することになるが、それによって思わぬ副産物も一緒に世界を駆け巡ることになった……。

ヨーロッパがジャガイモの代わりに手に入れたものとは

1492年、コロンブスはスペイン王の支援を得てインドに向けて出発した。一行が西インド諸島からヨーロッパに持ち帰ったものは、世界を大きく変えた。アメリカ大陸原産のジャガイモやトウモロコシは飢餓からの解放と人口爆発をもたらし、トマトやトウガラシは食生活を変え、ココアやタバコは余暇の楽しみ方を増やすなど、ヨーロッパ人の生活を様変わりさせたのだ。

コロンブスの航海土が持ち帰ったのは作物だけではない。どの作物より早くヨーロッパに蔓延し、その後世界を一周したのが性感染症の「梅毒」だった。ここで生じた新作物と梅毒の交換を、アメリカの歴史家アルフレッド・クロスビーは「コロンブスの交換」と命名している。

コロンブスが第一回の航海で訪れたキスケヤ(エスパニョーラ島=現在のハイチとドミニカ共和国)で船団員の誰かが現地女性から感染し、スペイン本国に持ち帰ったものと考えられる。

梅毒で驚くべきは、何といってもその伝播の速さである。1498年にはヴァスコ・ダ・ガマの船団によりインド南西部の港湾都市カリカット(現在のコジコード)にもたらされ、そこからさらに東へ。1500年頃には中国の広東(現在の広東省広州市)、1510年頃には北京、1512年には西日本、その翌年には東日本にまで波及した。

ときの中国大陸を支配していた大明帝国(明王朝)は建国以来の海禁政策を維持していた。海外貿易を朝貢形式のものしか認めず、貿易港も限定していたのだ。日本の鎖国に似た体制を取っていたのなら、感染症の拡大も最低限に抑えられそうに思えるが、これには抜け道があった。

違法であるはずの私貿易が密かに横行しており、その担い手は「倭寇(わこう)」と総称される海賊にも早変わりしていた。倭寇は前期と後期に分けられ、前期が西日本の武士によるものだったのに対して、後期倭寇は中国東南部沿岸の商人を中心とする雑多な構成で、なかにはポルトガル人の姿さえあった。日本に梅毒をもたらしたのは彼ら後期倭寇だと思われる。

厳密な感染経路を特定できないが、当時の日本で「唐瘡(とうそう)」または「琉球瘡(りゅうきゅうそう)」と呼ばれていたことから、中国か沖縄からの伝来と信じられていたことがうかがえる。

未知の感染症がアステカ王国を滅ぼす

先に触れた「コロンブスの交換」はアメリカ大陸の先住民にも未知なる感染症をもたらし、人口を激減させた。

コロンブス一行がキスケヤに上陸したのは1492年12月6日のこと。当時20〜30万人の先住民がいたと推測されるが、12年後の1514年には1万4000人、1548年には500人にまで人口が激減した。

同島の東に位置するプエルトリコ島でも、スペイン人に征服された1508年には60万人いた先住民が20年後にはゼロを記録。中米大陸のメキシコ中央高原では、1519年に推定2500万人いた人口が1665年には107万5000人にまで減少している。

スペイン人の手で殺害された先住民の数も多かったに違いないが、それ以上に多くの命を奪ったのは、スペイン人が意図せず持ち込んだ感染症だったのだ。スペイン人が持ち込んだ感染症は、天然痘や流行性感冒(インフルエンザ)、麻疹、百日咳など非常に多岐にわたったが、最も甚大な被害を及ぼしたのは天然痘だった。

ユカタン半島ではアステカ王国がヘルナン・コルテス率いるわずか数百人のスペイン人によって滅ぼされた。数万人の兵を動員できるはずのアステカがあっけなく終わったのは、天然痘の流行により国力が著しく衰えていたからだった。

その後も感染症は先住民を襲い、メキシコ中央高原では1545年から4年間の大流行で住民の3分の1が死亡。ユカタン半島でも1648年から3年間、天然痘と黄熱病の大流行に飢饉が重なったせいで人口の半数を喪失した。

インカ帝国の先住民も1000万人→6万人に減少

中米大陸より少し遅れて、南米大陸のアンデスでもスペイン人と感染症の災禍を被った。インカでは首長の死に伴い、1525年に内戦が勃発。これに天然痘の流行が重なって人口が激減した。「征服者」フランシスコ・ピサロがわずか185人の兵と37頭の馬でインカを滅ぼすことができたのも、天然痘によって国力が削がれていたという要因が大きいと言われている。

その後も感染症の流行はたびたび起こり、ピサロによる征服の前に1000万人以上いたと推測されるアンデス地域の先住民は1570年代に130万人、1630年代には6万人にまで減少した。

コロンブスが第一次の航海から帰還して間もなく、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲立ちのもと、スペインとポルトガル間で世界分割についての話し合いがもたれ、1494年6月7日にはトルデシリャス条約を締結。西アフリカのベルデ岬諸島の西約1850キロメートルの子午線が境界となり、中南米では現在のブラジルのみがポルトガルの取り分とされた。

スペインによる教皇の利用はこれにとどまらず、1508年には教皇ユリウスから大勅書を引き出し、征服地における教会管轄権を獲得。先住民に福音を伝え、文明の光をもたらすという大義名分のもと、征服活動が正当化されたのだった。

 

 

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PROFILE
島崎晋

1963年東京生まれ。立教大学文学部史学科卒業。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て、現在、歴史作家として幅広く活躍中。主な著書に、『ウラもオモテもわかる哲学と宗教』(徳間書店)、『眠れなくなるほど面白い 図解 孫子の兵法』(日本文芸社)、『古事記で読みとく地名の謎』(廣済堂新書)、『ホモ・サピエンスが日本人になるまでの5つの選択』(青春新書プレイブックス)、『仕事に効く! 繰り返す世界史』(総合法令出版)、『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『覇権の歴史を見れば、世界がわかる』(ウェッジ)などがある。