瀬戸内寂聴さんが五十路のときに語った「出逢いの本質」とは

出逢いの本質とは?

「恋を得たことのない人は不幸である。それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である」。こう語るのは僧侶、小説家である瀬戸内寂聴さん。様々な愛に生きた彼女が、多くの恋の途上で傷つけ、傷つけられて見つけた出逢いの本質とは? 初版1973年刊『ひとりでも生きられる』の新装版から抜粋します。

人生を深く誠実に生きようとする人ほど”出逢い”を望む

「この世の中で、人はいたるところで出逢う。重要なのは、この日常茶飯の出逢いから生ずることである」

というのは、マルグリット・デュラスのことばであるが、あらゆる出逢いというものは、ほとんどまったく偶然に、予期せぬ時に、降って湧いたように人に訪れる。それはまったく日常茶飯のこととしてあらゆる場所にさりげなくあらわれる。

人はほとんど無意識に無防禦(むぼうぎょ)にその出逢いを受けいれてしまう。 同じバスや、電車に乗りあわす。同じ軒下に雨をさけあった。人ごみで押されて思わず、肩と肩をぶっつけあってしまう。町角で道をたずねられる。郵便局のあり場所を訊く。辻公園のベンチに隣あわせて坐る。喫茶店で否応なく向いあってしまう…。etc、etc……そのどれをとってみてもごく平凡で日常的な出逢いなのである。しかしある人々にとっては、その何気ない出逢いが決定的な運命となって生涯を変えてしまうような核になってくることがある。

人は人生の途上であらゆる物と様々な出逢いをするが、最も重くて神秘なものは男と女の一瞬の出逢いであろう。

有縁(うえん)、無縁(むえん)ということばがある。仏教ではすべての有縁の糸は前世からの約束ごとだという。何が有縁でどれが無縁か、出逢いに目じるしなどありはしない。しかし人は逢った瞬間、それを感じとってしまう。有縁を感じる時、相手の職業や経歴をつぶさに知ってからではない。俗に一目惚れという状態にいきなり投げこまれてしまうのだ。それが一方に起こり、他方に起こらない場合だってある。しかし、一方に有縁の糸が結びつけられたということは、他方にもその糸の端がいつ結びつけられるかわからないという期待と願望が、一方に生じたことになるのだ。

あの時、あの場所に行きさえしなければ、あの人と逢うことはなかったのに――

あの日、あのパーティに出るのを断われば、あの人と逢うことはなかったのに――

後になってよく人は自分を運命的に変えた一瞬の出逢いを追想し、後悔したり、なつかしがったりする。しかしそこにその時間に行くことが、その人の約束された運命であり、そこにひとつの出逢いが待ちぶせていることがまた運命なのである。逢ってはならない人に逢ったと後悔してもはじまらない。人生に逢ってはならない人などはじめからいないのであって、人は地球上のあらゆる人々と生きているかぎり逢う可能性があるのだ。未知の出逢いに対する漠(ばく)とした期待と不安を抱かない人間があるだろうか。生きるということは、明日への、いや今日の午後への、いや、やがてくる一時間後への期待と願望と不安のないまじった鎖をたぐりよせていくことではないだろうか。

あらゆる人は現状に満足してはいない。現実の人生は人の内的世界の夢の豊富さや期待や願望に対して、あまりにも貧しく、いやしく、醜くすぎる。まして現在の世界や社会は、どっちを見廻しても、牢獄(ろうごく)であり、でなければ血みどろの殺戮(さつりく)の戦場である。家庭もまた賑やかな家具のつめこまれたまま、不毛の砂漠に似ている。

人は信じあったふりをして生きているが、真のコミュニケーションがあるとは信じてはいない。自分が人を信用していないと同様、自分が理解されていないという苛(いら)だちと不満のため、多かれ少なかれ、誰もがヒステリー症状に投げこまれている。

こんなものではない別の生き方、もうひとつのあり得た自分の人生を、深夜ふと目覚めた時に、あるいは倦(う)んだ午後のふとしたひとときに、秘かに思い描いてみない人間があるだろうか。この苛だたしい、あるいはたるみきった現実を変えてくれるもの、それは未知の出逢いがもたらす未知の「愛」か、もしくは「恋」以外にはないことを、人は漠然としかも確実に信じている。

人生を深く誠実に生きようとし、自分の生命に強い愛着を抱いている人ほど、未知の明日への期待が激しい。言いかえれば「愛」をもたらしてくれるもうひとつの出逢いを待ち望んでいるのである。

こうして充分に蓄電された電池を抱いた人々に、出逢いの神秘はたちまち感応する。

人はいたるところで出逢う。重要なのは・・・

自分が数々の出逢いによって得た想い出の豊富さを思いかえす時、出逢いの相手の中に、自分がどういう形でつなぎとめられているかを自然に考えずにはいられない。

人がこの世に生きていく弾みになるもろもろの感情の中には、ひとりでも多くの人に自分を何らかの形で記憶されたいという願望がひそんでいはしないだろうか。旅先の樹や壁に自分の名を彫りつけたがる人の習性を、小児性とばかりは笑えない。人が仕事に打ちこむのも、人が子供を産むのも、人が物を創り出そうとするのも、他者に自分の生きていたしるしを刻みつけたいと希うからではないだろうか。

数々の出逢いに怖れず直面し、出逢いの重さと神秘に勇気を持って当った人間には、少なくともその相手にだけは自分の生きていたしるしを刻みつけることが出来るといえよう。

所詮、恋は愛のかわりにはならない。人は永遠の愛を需めて性こりなく恋に憧れる。おそらく死の瞬間まで、人はもっとちがったもうひとつのあり得た自分の生を夢に呼びながら死んでいくのかもしれない。

その時、彼女を慰めてくれるものは、死の床で手をとってくれている肉親や友人の手ではなく、生きてきたすべての日々にめぐりあった無数の出逢いの想い出ではないだろうか。

若いくせに冒険を怖れて、お手盛りの出逢いを期待するなどというのは、青春放棄の若年寄である。

中年になって、出逢いの魔力を怖れて尻ごみし、楯(たて)ばかりかまえるのは、育ちぞこないのひからびひねくれた花である。

老年になって、出逢いの有難さを感じないほど、想い出の出逢いを持たないのは、明らかに貧しいひもじい精神生活しか送らなかった失敗の人生といっていいだろう。

男と女の出逢いの重さといっても、つまりは、人間と人間の出逢いの重さである。

人はいたるところで出逢う。重要なのはこの日常茶飯の出逢いをどのように自分の実人生に繰り込み、深い有縁のものと消化し、血と肉にして、自分と同時に他者の人生を肥えふとらせていくかという心構えと、生活技術ではないだろうか。

最初の出逢いを人は記憶することが出来るが、最後の出逢いは死の瞬間まで人には残されている。最後に出逢うものが、人であるか、思想であるか、慰めか、悔いか、はたまた神であるか、誰が知ろう。それだからこそ、人は今日の午後の……明日の、出逢いを心震わせ待ち望むのである。

 

PROFILE
瀬戸内寂聴

1922年徳島県生まれ。東京女子大学国語専攻部卒業。1957年新潮社同人雑誌賞受賞。1961年『田村俊子』で田村俊子賞受賞、1963年『夏の終り』で女流文学賞受賞。1973年、中尊寺で得度受戒、法名寂聴となる。1992年『花に問え』で谷崎潤一郎賞、1996年『白道』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。2006年に文化勲章受章。2011年『風景』で泉鏡花文学賞を受賞。2018年『ひとり』で星野立子賞受賞。『源氏物語』(現代語訳)など著書多数。

ひとりでも生きられる

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  • 作者:瀬戸内 寂聴
  • 発売日: 2020/05/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)