戦国時代を終わらせた陰の立役者、伊賀忍者と甲賀忍者の行く末

忍者というと、黒ずくめの装束で手裏剣や忍術を使う謎の集団……というイメージを持つ人が多いが、実際は敵の城や屋敷に潜入し情報を盗み取ってくることが主たる役割だったという。したがって、忍者は体術や剣術は言うに及ばず、土地土地の方言や変装術、薬学、天文学、心理学など様々な知識に通じている必要があった。特に有名なのは伊賀忍者と甲賀忍者だが、この二つの忍者集団はいかにして誕生し、日本の歴史にどのような足跡をしるしてきたのか――。

山ひとつ挟んで隣接する伊賀と甲賀

その昔、日本各地には、諜報活動に必要とされる特殊な能力を身につけ、権力者の耳目(じもく)となって活躍した闇の一族がいた。東北地方で早道之者(はやみちのもの)、間盗役(かんとうやく)、黒脛巾(くろはばき)組、関東で草、物見(ものみ)、乱破(らっぱ)、北陸・中部で軒猿(のきざる)、間士(かんし)、聞者役(ききものやく)、透破(すっぱ)、透波(すっぱ)、三ツの者、畿内で水破(すっぱ)、透波、伺見(うかみ)、奪口(だっこう)……などと呼ばれた、そう、忍者である。

忍者の役割とは、言うまでもなく敵地に深く潜入し、味方にとって有益な情報を盗み取ってくることにある。したがって忍者は、体術や剣術は言うに及ばず、様々な知識(土地土地の方言や変装術、薬学、天文学、心理学などなど)に通じていなければならなかった。

忍者が特に活躍したのは、やはり群雄が割拠した戦国時代である。戦国の三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)に代表される多くの権力者たちは例外なく忍者を使いこなしていた。そうした忍者集団のなかで特に有名なのが、ご存じ、伊賀忍者と甲賀(こうか)忍者である。

現在の三重県北部の伊賀国を拠点としたのが伊賀忍者で、滋賀県南部の近江国甲賀郡を発祥とするのが甲賀忍者である。両地は三重県と滋賀県の県境にあり、高旗山(標高七百十メートル余)という名の山ひとつ挟んで隣接しているところが興味深い。一体、この二つの忍者集団はいかにして誕生し、日本の歴史にどのような足跡をしるしてきたのであろうか。

伊賀と甲賀の位置関係

伊賀と甲賀は三重県と滋賀県の県境にあり、高旗山を挟んで隣接している。政治の中心である京都に近く、山間地でもあった両地域には古来、小豪族がひしめいており、小競り合いが絶えなかった。そうした環境から自然、諜報活動や工作活動、奇襲戦などのわざが代々受け継がれ、戦国期には周辺の権力者たちから敵の内情を探る間者として重宝がられた

傭兵として周辺の大名に従軍

忍者の起源だが、一説には聖徳太子に仕えた志能便(しのび)または志能備と呼ばれた大伴細人(おおとものさびと)にまで遡るという。この志能便という言葉については、忍術研究家の奥平兵七郎氏は「主人によき便り、諜報をもたらすべく志す者」と解釈し、のちの忍びの者、忍者の語源になったと述べている。しかし、この大伴細人なる人物が公式記録に登場することはなく、あくまで伝承にすぎない。

伊賀や甲賀の忍者が表立って活躍するようになったのは、鎌倉時代から室町時代にかけてであった。政治の中心である京都に近く、山間地でもあった両地域には古来、小豪族がひしめいており、小競り合いが絶えなかった。そうした環境から自然、諜報活動や工作活動、奇襲戦などのわざが代々受け継がれ、磨かれていった。戦国時代に入ると、そうした伊賀や甲賀の人々が持つ特殊能力は周辺諸国の大名の目にとまり、傭兵という形で従軍を要請されるようになった。

しかし、伊賀と甲賀、どちらも金で雇われて従軍したことは確かだが、依頼主との付き合い方に大きな差があった。甲賀の場合、特定の大名に絞って加担したという。これは、もともと甲賀の人々は近江国の佐々木六角氏傘下の地侍だったことと無縁ではない。一方、伊賀の場合、そのへんはドライなもので、たとえ敵対関係にある両者から同時に依頼が入ったとしても双方に配下の者を派遣したという。

信長の次男が伊賀に侵攻

戦国時代、伊賀と甲賀のどちらにも存亡をかけた合戦があったことをご存じだろうか。その合戦を乗り越えたからこそ、伊賀および甲賀の歴史は後世に伝わったのである。

まず伊賀忍者が皆殺しにされかけた「天正伊賀の乱」は、伊賀国の領国化をもくろんだ織田信長と伊賀衆の戦いである。合戦は天正七年(一五七九年)九月の第一次と同九年九月の第二次の二度に及んだ。

第一次では、信長の次男信雄が、父に相談もせず独断で領国の伊勢から八千の軍勢を率いて伊賀国に三方から侵攻した。信雄は戦前、相手を甘く見ていたのだが、いざ蓋を開けてみれば織田軍の惨敗だった。

百地丹波(ももちたんば)らが率いる伊賀の地侍たちは、織田軍を山中に釘づけにし、軍勢を展開できないよう仕向けたのである。そうなると織田軍にとって大軍であったことがかえって災いした。身動きがとれなくなったところを、伊賀衆から火器を駆使した奇襲攻撃を仕掛けられ、織田の将兵は尻に帆をかけ伊勢へと敗走したのだった。

それから二年がたち、石山本願寺との抗争に決着をつけた信長は、満を持して伊賀に再侵攻した。このとき信長は信雄に対し今度こそはと汚名返上を厳命して五万もの大軍と歴戦の重臣をつけて送り出している。

伊賀越えで家康を救った功績

この第二次伊賀侵攻では、兵の数では圧倒的に劣るものの伊賀衆は今度も地の利を生かして果敢に奇襲戦で挑んだという。ところが衆寡敵せず、八日間で伊賀はすっかり焦土と化し、非戦闘員を含む三万人もの伊賀衆が虐殺された。これは伊賀全体の人口九万人のうち三分の一に当たる人数だった。

こうして一時は存続が危ぶまれた伊賀衆であったが、本能寺の変の直後、運命が好転する。このとき徳川家康は信長から招待され、家来三十数人を引き連れのんびりと堺見物を楽しんでいたのだが、そこへ急使が飛び込んできて、信長が明智光秀によって討たれ、家康自身の命も光秀によって狙われていることを知らされる。

もはや袋の鼠も同然だったが、たまたま一行に伊賀者(服部半蔵正成)が付き随っていたことが幸いし、家康主従は伊賀国経由で三河まで無事に帰還することができたのである。これこそ家康の人生で最大の危難の一つに数えられる通称「神君伊賀越え」である。このときの功により伊賀衆は徳川家に仕えることになった。

その後、信長に替わって天下の覇権をつかんだ秀吉は、家康の動静を監視するため、伊賀忍者とは対立関係にあった甲賀忍者を雇い入れたと伝えられる。

煙幕の中から現れる甲賀忍者

今度は甲賀衆の戦いぶりをみることにしよう。甲賀忍者が関与した最大の戦といえば、やはり「鈎(まがり)の陣」である。応仁元年(一四六七年)から足かけ十一年間も続いた全国的な争乱「応仁の乱」の終息後に起こった合戦である。

応仁の乱によって室町幕府の権威が地に堕おちると、諸国の国人や地侍たちは勝手な振る舞いに及ぶようになり、幕府や公家、寺社が所有する荘園を押領するようになった。近江国でも同様で、そうした国人や地侍たちを盛んにけしかけたのが、守護大名の六角高頼であった。

そこで幕府の第九代将軍足利義尚は高頼の裏切りを見過ごすわけにもいかず、六角氏討伐の兵を挙げた。長享元年(一四八七年)九月十二日、義尚は自ら二万の大軍を率いて京を進発、高頼の居城観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)を目指した。すると高頼は大軍と戦うことの愚を避け、支配下にあった甲賀へと逃げ込んだ。このとき高頼に加勢したのが、甲賀忍者たちである。

六角高頼を追って甲賀口の鈎(滋賀県栗東市)と呼ばれるところまでやって来た幕府軍はそこで本陣を構えたのだが、すぐに甲賀忍者たちが仕掛けてくるかく乱戦法に悩まされることになる。忍者たちは火器による朦々たる煙幕の中から魔物のように現れ、本陣の建物に火をつけて回った。こうした奇襲が昼夜を分かたず繰り返されたことで幕府軍は動くに動けず、撤退もままならなくなった。

伏見城の戦いで壮絶なる玉砕

鈎に陣を構えてから一年半後、足利義尚は陣中で無念のうちに没した。まだ二十五歳の若さだった。これを機に幕府軍は撤収。こうして幕府の大軍を向こうに回して一年半もの間、本陣に釘付けにし、最後には自国から追い払うことに成功した甲賀忍者の活躍ぶりは大小の尾ひれが付けられ一気に周辺諸国に広がったのである。

その後の甲賀衆だが、織田信長の配下となり、信長が倒れると替わって天下人となった豊臣秀吉に仕えた。秀吉の下での主な任務は、徳川家康の動静を逐一監視することだった。家康には伊賀忍者が味方していたため、秀吉は伊賀衆と対立する甲賀衆をあえてその任務に当たらせたのである。

秀吉が亡くなると甲賀衆は家康に接近した。慶長五年(一六〇〇年)七月、「関ヶ原の戦い」の前哨戦となった「伏見城の戦い」では、西軍が伏見城を攻めた際、甲賀衆三百人ほどが伏見城に駆け付け、籠城軍に加わった。しかし、奮戦むなしくほとんどが討ち死にしたという。

のちに家康はこのときの甲賀衆の働きを称え、子孫を召し抱えて与力十騎、同心百人からなる「甲賀組」を編成させ、現在の東京・千駄ヶ谷にある国立競技場のあたりに組屋敷を与えた。この甲賀組は代々、江戸城大手門、下乗門、中之門の大手三門の警備のほか、城内の警備にもあたったという。

四代目半蔵は浪人の憂き目に

甲賀衆同様、徳川家康に仕えることになったその後の伊賀衆についてだが、彼らもまた江戸城の警備などを担当した。その伊賀衆二百人(「伊賀同心」と呼ばれた)の束ねを家康から命じられた人物こそ、神君伊賀越えで活躍した二代目服部半蔵こと服部正成である。伊賀同心たちは主に江戸城西側の門を警備したことから、のちにその門は半蔵門と呼ばれた。

半蔵門

皇居に残る半蔵門の名は、服部家がこの門外に組屋敷を構えていたことに由来するという説が有力だ

服部正成が亡くなると、長男正就(まさなり)が伊賀同心の支配役を引き継いだ。ところが、正就は伊賀同心らを自分の家来同然にこき使ったことから同心たちが反発、それがもとで正就は支配役を解かれ、蟄居を命じられてしまう。その後、四代目服部半蔵を襲名したのは、正就の弟正重である。

この服部正重の代から服部半蔵家は伊賀同心の支配役に返り咲くことはなかった。正重は舅の大久保長安と共に佐渡金山などの管理に当たったが、長安が家康によって粛清されると正重も連座し、所領三千石を没収され浪人の憂き目に遭う。ところが、捨てる神あれば拾う神ありで、正重は兄嫁の実家である桑名藩に家老として二千石で召し抱えられることがかなう。

この服部正重の家系が桑名で代々続き、十二代目服部半蔵正義の代で明治維新を迎えている。正義という人は温厚篤実な性格で、維新後は生活に困窮する旧桑名藩士の救済につとめたという。

 

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。