江戸時代だったら「藤井名人」は不可能!? 知られざる将棋の歴史

将棋次の一手

2020年7月、藤井聡太七段が渡辺明棋聖を破って棋聖となり、史上最年少でタイトルを奪取したことが大きな話題になりました。これから最高の名誉である「名人位」を目指して戦い続けるわけですが、もし江戸時代に生まれていたら、いくら将棋が強くても名人にはなれなかったかもしれません。現代まで受け継がれてきた将棋の伝統と歴史を読み解きます。

「名人位」は家元の世襲制だった

今日、プロ棋士が覇を競う将棋界には「八大タイトル」と呼ばれる棋戦が存在する。竜王、名人、王位、王座、棋王、王将、棋聖、叡王(えいおう)戦がそれである。

このうち、もっとも歴史と格式をあわせ持つとされているのが名人位である。昭和十二年(一九三七年)に木村義雄が初代実力制名人となって以来、令和元年(二〇一九年)に実施された第七十七期名人戦で勝利した豊島(とよしま)将之まで、のべ十四人の名人が誕生している。

実は、将棋界で名人という称号は江戸時代からあった。当時の名人は、一度その座につくと終生名乗ることが許される終身制であった。しかも、茶の湯や舞踊のように家元制が採用されていて、家元の中でのみ名人位は受け継がれた。

つまり親族間での世襲制だ。特定の家元でなければ、どんなに実力があっても名人を名乗ることはできなかったのである。

江戸時代には、「将棋三家」と呼ばれた将棋の家元が存在した。大橋家、本家から分かれた大橋分家、伊藤家の三家である。江戸幕府から俸禄を頂戴し、将棋界の権威として君臨した。

この将棋家元の大橋家の歴史や将棋とのかかわり、大橋家が江戸時代に果たした役割、さらに家元三家の中での熾烈な主導権争いなどについて見ていこう。

戦国の三英傑も愛好者だった

将棋は今から二千五百年ほど前にインドで始まったものが起源だという。それが欧州に伝わってチェスになり、東へは中国に伝わって象棋(シャンチー)、日本で将棋となった。

日本に伝わった時期ははっきりしないが、平成四年(一九九二年)に奈良の興福寺旧境内から出土した駒が最古で、これが一〇五八年のものと特定されている。つまり、平安末期までに大陸からわが国に将棋が伝わっていたことになる。

当時の将棋は駒数が百枚を超えていた。その後、駒数を減らしたり、相手から取った駒を自分の駒として使えるようにしたりと日本独自のルールを加え、現行の将棋に近いものになったのは戦国時代とみられている。

それ以前は一部の公家や僧侶、商人などの間で普及していたが、戦国期になると盤上のかけひきは戦のかけひきに通じるものがあるというので、武士階級にも愛好者が広がっていった。

戦国武将の中では三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)のほか、越前の守護大名・朝倉氏が特に将棋を好んだことがわかっている。

将棋が盛んだった土地は、やはり公家が多い関係で京都だった。戦国末期、そんな京都に登場したのが、将棋家元・大橋家の祖であり初代名人の大橋宗桂である。宗桂は能楽関係の家に生まれたとされているが、史料が少なく裏づけはとれていない。

中国では象棋(シャンチー)として今も多くの人に愛好されている

幕府から五十石五人扶持の俸禄を得る

幕末期に登場した大橋本家十一代宗桂(本家では十二人中八人の当主が「宗桂」を名乗った)が、初代宗桂の二百回忌にあわせて作成した一族の系図が今に伝わっている。それによると、宇多天皇を祖とする近江の豪族佐々木氏の系譜を引くとされているが、専門家によるとそこには明らかな間違いが散見され、信用できないという。

初代宗桂の出自について触れた史料には近世初期の能楽関連のものがあり、それによると、趣味で能楽をたしなんだ裕福な町衆であったという。この能楽を通じて公家や武家などの上流階級と接近し、将棋の魅力にひかれていったのであろう。

初代宗桂は織田信長にかわいがられ、「桂」の使い方が巧みだったことから、宗桂と名乗るようにすすめられたという。

徳川の世となると、碁将棋を好んだ家康の鶴の一声により、碁打ちと将棋指しの家元に幕府からそれぞれ五十石五人扶持の俸禄が与えられる。こうして将棋と囲碁は晴れて幕府公認の遊戯・技芸となった。

その後、寛文年間(一六六一年~)となり、大橋一族は京都から江戸に移住を命じられ、寺社奉行の管轄下におかれて「御用達町人」の身分を与えられる。

幕府に仕えたといっても、一年のうち大半は在宅勤務が許されており、毎年十一月中旬に登城し、将軍家(実際は老中あたりが代わりに観戦した)の面前で手並みのほどを披露するだけでよかった。これを「御城(おしろ)将棋」という。

江戸の庶民には一八世紀後半から普及

一八世紀に入ると天下が泰平になったこともあり、碁将棋の愛好者が急増した。それに大きく貢献したのが、段位制度の導入だった。例えば、享保二年(一七一七年)刊行の将棋師の名簿『将棋図彙考鑑(ずいこうかん)』には、全部で百六十七人の有段者が記録されている。

内訳は七段三人、六段一人、五段四人、四段十七人、三段二十二人、二段三十人、初段九十人──とある。こうした段位制度の導入が、将棋家元の重要な収入源となったことは言うまでもない。

一八世紀も後半になると、それまで将棋愛好者には圧倒的に武士が多かったものが、庶民階級にも急速に広がった。当時、江戸市中には銭湯(湯屋)と髪結い床が町内に一軒はあったものだが、それらの休憩所には必ずと言ってよいほど将棋盤が置かれ、さながら将棋サロンと化していたという。

このころの江戸川柳にも、将棋を題材にしたものが多く残されている。

江戸っ子の気性に合うが飛車の利き
ヘボ将棋王より飛車をかわいがり
飛車角がみんな成り込む一ノ谷

それだけ将棋が庶民の間に普及していた証拠だろう。

大橋本家と伊藤家が威信をかけて対局

将棋家元の大橋家が三家に分かれたのは、初代宗桂が寛永十一年(一六三四年)に亡くなり、長子の宗古が家督と二世名人を継いだときだった。宗古の弟宗与が大橋分家を興し、さらに宗古の娘婿の宗看が伊藤家を興して独立、こうして大橋一族による家元三家体制が成立する。

これは、徳川家が将軍制度を維持するため、紀伊・尾張・水戸の「御三家」を創設した例にならい、本家の血筋が絶えかかったときのためのいわば保険だった。

以後、この三家の中でもっとも棋力に秀でたものが名人位を受け継ぐという取り決めがなされたという。そのため三家のなかでは、たとえ実子であっても将棋の才能がなければ廃嫡され、身分を問わず将棋の強い子供を他家から養子に取るということが頻繁にあったらしい。

三家の中で次の名人位は話し合いで決められたが、つねに平和裏に決まったわけではなかった。互いに主張を譲らなかった場合、そこは将棋をなりわいとする家同士だけに、将棋で決着をつけようということになった。

その最たる対局が、宝永六年(一七〇九年)十月から同八年二月の約一年半の間に行われた、将棋史に残る長期戦「印達・宗銀五十七番勝負」である。

伊藤印達は伊藤家の二代目・宗印の嫡男で、対局が始まったときはまだ十二歳の少年だった。一方の大橋本家を背負った大橋宗銀は五代宗桂の養子(出自は武家とも)だった人物。宗銀もまた対局が始まったときは十六歳の若者だった。

二人の若き天才が共倒れ

ともに年少とはいえ棋力は抜群で、大橋本家と伊藤家はそれぞれの威信をかけ、自分たちの未来をこの若い俊英に託したのである。

結果、年下の印達の「三十六勝二十一敗」で幕を閉じる。この勝負は、勝てば勝つほど相手にハンデを与えていく「指し込み制」であったため、最後の対局では印達は「角落ち」で宗銀と戦っている。自分より四つも下の少年と角落ちで戦うはめに陥ったこのときの宗銀の屈辱感というものは察するに余りある。

勝負の決着はついたが、この長期にわたった激戦で二人の若者は精根尽き果ててしまった。印達はわずか十五歳で夭折し、その翌年には大橋本家を継いだばかりの宗銀もまた、印達の跡を追うように二十歳の若さで死去した。まさに共倒れだった。こうして将棋界は二人の若き天才をほぼ同時期に失ってしまった。

将棋家元・大橋一族が見舞われた危機はまだある。剣術のように技芸をなりわいとする一族だけに、在野の強豪から勝負を挑まれることも珍しくなかった。そうした他流試合で歴史に名を残すのが、江戸末期の嘉永五年(一八五二年)に行われた、天野宗歩対大橋宗珉の通称「吐血の対局」である。

のちに「棋聖」と称されることになる天野宗歩は、五歳で大橋本家十一代宗桂に弟子入りするとすぐに頭角を現し、わずか十一歳で初段、十四歳で二段、十五歳で三段になった天才である。

御城将棋の場で世紀の一戦

現代将棋界の巨人、羽生善治十九世永世名人はかつて「歴史上、もっとも強い棋士は誰か?」と問われ、大山康晴の好敵手で鬼才をうたわれた升田幸三の名前とともに、この天野宗歩の名をあげている。

「当時の将棋界で宗歩のスピード感は抜きんでており、現代に現れてもすごい結果を残したに違いない」と羽生永世名人は語っている。

それほどの天才・宗歩だったが、やがて家元しか名人になれないなど当時の将棋界の古いしきたりに嫌気がさし、将棋三家を離れ、在野の棋士として独自の道を歩み始める。

そんな宗歩の強さにあこがれる将棋愛好家が続々と弟子入りを志願し、そのうち宗歩一門は将棋三家をしのぐほどの活況を呈するようになった。

宗歩一門の隆盛に危機感を抱いた将棋三家では、このまま看過するわけにもいかず、ついに宗歩との対決を決断する。こうして全棋士にとっては最高の晴れ舞台である御城将棋の場で、どちらが強いか決着をつけようということになった。

宗歩の相手として将棋三家が選んだ棋士は、大橋分家から出た俊才・大橋宗珉その人であった。この世紀の大一番が行われたとき、宗珉は宗歩の一つ年下の三十六歳。まさに、指し盛りの二人だった。

二人の対局は一進一退の死闘となり、最後は宗珉がどうにかこうにか勝利をもぎ取った。宗珉は将棋家元の面目を守ったのである。

明治期に三家が相次いで途絶える

こうして宗珉の活躍で将棋家元としての矜持を守った将棋三家だったが、まもなく幕府が瓦解すると運命は一変する。俸禄が打ち切りになったことに加え、世の中の大きな変革期に将棋を習おうという趣味人も激減し、三家は一気に衰退への道をたどり始める。

まず、明治十四年に大橋分家が断絶した。九代大橋宗与が罪を得て(詳細は不明)、投獄されたことが原因だった。ついで明治二十六年、伊藤家の八代目にして十一世名人の伊藤宗印が没し、伊藤家も消滅した。

最後に残った大橋本家だが、こちらも明治四十三年に十二代目宗金が亡くなり、将棋家元本家としての家系は事実上途絶えた。大橋本家では一時、草鞋作りで糊口をしのいでいたこともあったらしい。

日本の歴史において、家元制度の是非(特にマイナス点)がいろいろ取り沙汰されるが、この将棋三家に限っては、それまで曖昧だったルールを整備して将棋を老若男女誰でも親しめるゲームにし、今日の将棋界隆盛の礎を築いた功績は大いに評価されてよいだろう。

 

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。