近所の目を気にして仕方なく始めた勉強
福沢諭吉という人は『学問のすゝめ』を書くくらいだから、子どもの頃から勉強好きだったに違いないと思われがちだが、十四、五歳までは勉強嫌いだったという。
勉強を始めた動機も「近所の子らは誰も彼も本を読んでいるのに自分だけが読まないというのは外聞が悪く、恥ずかしいと思ったから」というから親しみがわく。
学問と言えば漢学の時代に福沢諭吉は……
江戸時代は、学問といえば「漢学」だった。早くに父を亡くした福沢の父親代わりをしていた兄三之助は、福沢の言葉を借りると「純粋の漢学者」で「死ぬまで孝悌忠信(こうていちゅうしん)」と言い放つような武士だったが、「鉄砲と算盤」という考え方をし、数学を学んでいた。
福沢によれば、「鉄砲と算盤は士流の重んずべきものである、その算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せておくのは大間違い」とする漢学者帆足万里(ほあしばんり)の説が中津藩で当時流行し、武士のなかにも数学に関心を寄せ、算盤に励む者がいたのだという。
帆足万里は、儒学による人格形成と算数・医学・経済などの「実学を習得せよ」と説き、医学では「漢蘭折衷(かんらんせっちゅう)」を啓蒙した先進の人として今日も高く評価されている。
福沢がのちに兄の勧めで蘭学を学びに長崎へ遊学したり、続いて大坂に来て蘭方医(らんぽうい)緒方洪庵の「適塾」で学んだりした背景には、こういう事柄も関係している。
医者の元で学んだにもかかわらず「血」が苦手
適塾は大塩平八郎の乱があった翌年の一八三八(天保九)年に設立され、蘭語(オランダ語)の講義だけでなく、人体解剖なども行われたが、福沢は血を見ると気持ちが悪くなる体質だったことから医者の道には進まなかった。
「私は少年の時から至極元気の宜(い)い男で、時として大言壮語したことも多いが、天稟気(ウマレツキ)の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い。例えば緒方の塾に居るときは刺胳(しらく、体のツボを鍼灸で刺激する治療法)流行の時代で、同窓生は勿論(もちろん)、私も腕の脈に針を刺して血を取ったことがある。ところが私は、自分でも他人でもその血の出るのを見て心持が善くないから、刺胳といえばチャント眼を閉じて見ないようにしている。腫物(しゅもつ)が出来ても針をすることはまず見合わせたいと言い、一寸した怪我でも血が出ると顔色(がんしょく)が青くなる。毎度都会の地にある行き倒れ、首くくり、変死人などは何としても見ることができない。見物どころか、死人の話を聞いても逃げてまわるというような臆病者である」
日本を代表する大偉人にもこんな弱点があったとは、何とも微笑ましい限りだ。
ざっくりわかる『学問のすゝめ』
『学問のすゝめ』を読んだことがない人は、書名からの連想で「一冊(全十七編)丸々学問論」と早合点しがちだが、そうではない。
「学問」は主要テーマの一つではあるが、「自由平等」「独立自尊」「官尊民卑の打破」といったテーマも熱く論じており、分量としてはむしろそちらの方が多いことを知っておきたい。各編のダイジェストを紹介すると煩雑になるので、ここでは、ごく簡単な説明だけにする。
「初編」は、いきなり「天は人の上に人を造らず」という例の「天賦人権論」から入っており、最後の「端書(はしがき)」(あとがき)のところで、書いた理由を数行で解説している。
要するに、福沢の郷里の大分の中津が公立学校を開校することになり、頼まれて「学問の趣意」を書いたところ大好評で、世間一般にも公表せよと勧められてそうしたというのだ。当初はこれで終わりのはずが、大人気となったために、二編以降を書き継いだのである。
「二編」は「端書」から始まり、「学問」に関することが述べられるが、続いて「人は同等なる事」という見出しの本論が展開される。
「三編」のテーマは「独立自尊」で、具体的な見出しは「国は同等なる事」「一身独立して一国独立する事」となっており、国家の独立自尊と個人の独立自尊が説かれている。
「四編」は「官尊民卑」という旧弊を打破するための「学者の職分を論ず」と題された論で、当時の学者の結社「明六社(めいろくしゃ)」の集まりで福沢が話した内容なので、質問に対する返答を記した「附録」がついている。
「五編」は「明治七年一月一日の詞」とのみ書かれている。年頭に慶応義塾で塾生らを激励した言葉が綴られ、冒頭で『学問のすゝめ』を書いた意図などを述べている。
「六編」は「国法の貴きを論ず」、「七編」は「国民の職分を論ず」で、フランシス・ウェーランド(Francis Wayland /アメリカのバプテスト派の牧師)の『修身論』(Elements of MoralScience)を翻訳して、国の役割、国民の役割について言及。学問とは直接関係はない。
「八編」は「我心(がしん、自我にとらわれた)をもって他人の身を制すべからず」で、これもウェーランドの『修身論』に拠った「個人の自由論」となっている。
「九編」と「十編」は「学問」がテーマで、「学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文」「前編の続、中津の旧友に贈る」という見出しからわかるように地方学生へのエールだ。
「十一編」は、外国への依存心を戒めた「名分をもって偽君子を生ずるの論」で、八編の続編的内容である。男尊女卑と家父長制度の弊害を批判している。
「十二編」は「演説の法を勧むるの説」。演説を「スピーチ」と名づけたのは福沢である。それまで日本には演説という習慣はなく、自由民権運動の演説会へと発展していく。本編では、さらに「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」という見出しも続いている。
「十三編」は「怨望の人間に害あるを論ず」で、「自由論」である。
「十四編」は「心事の棚卸」と「世話の字の義」。世話には「保護」と「命令」という二つの意味があると論じている。
「十五編」は「事物を疑いて取捨を断ずる事」。先進の西洋文明だが、取り入れる際には、是非を判断して取捨選択せよと説いている。初編から四年目(明治九年)に刊行され、洋風化にも変化が生じてきたことが感じ取れる。
「十六編」は「手近く独立を守る事」と「心事と働きと相当すべきの論」で構成。 最終編の「十七編」は「人望論」で締めくくった。
福沢は、教育者にとどまらず、ジャーナリスト、著述家、演説の名手といった複数の顏をもち、文明開化の旗振り役として封建制度に洗脳された人々の啓蒙に全身全霊で尽力した。その主義主張をわかりやすい言葉でまとめたのが『学問のすゝめ』だったのだ。
作家。1946年三重県生まれ。70年早稲田大学政治経済学部卒業。東宝、ソニーを経て、「けさらんぱさらん」で第62回オール讀物新人賞を受賞し、作家デビュー。以降、幅広いテーマでノンフィクション、小説を執筆。おもな著書に『武士の家訓』『ソニー燃ゆ』『世界の名家と大富豪』、現代語訳に『五輪書』『吉田松陰「留魂録」』『石田梅岩「都鄙問答」』『中江藤樹「翁問答」』などがある。

- 作者:城島 明彦
- 発売日: 2020/08/04
- メディア: 新書