明治の英傑、西郷隆盛と渋沢栄一、福沢諭吉をつなぐ意外な縁

西郷隆盛

福沢諭吉と渋沢栄一。その立場も、拠って立つ思想もまったく違う両雄が、ときに交わり、ときに離れたところから新時代を切り拓いていった。そんな二人が共通して尊敬していた人物が「西郷隆盛」である。このことはあまり知られていないが、彼らの絆には新時代を切り拓くヒントが隠されている。

福沢諭吉の本を激賞した西郷隆盛

西郷は福沢を尊敬し、福沢もまた西郷を尊敬していた。考え方に共通する部分、共鳴し合うところがあったからだろう。その例として、鹿児島に引っ込んでいた西郷が東京にいる大山弥助(やすけ)に送った手紙の一部を紹介しよう。

「福沢著述の書有難(ありがた)く御礼申し上げ候。篤(とく)と拝読仕(つかまつ)り候処(ところ)、実に目を覚まし申し候。先年より諸賢の海防策過分(かぶん)に御座候え共(ども)、福沢の右に出(い)で候ものこれある間敷(まじく)と存じ奉り候」

 西郷は、福沢が書いた本を送ってもらった礼を述べ、「海防策がかまびすしいが、福沢の右に出るものはない」と激賞したのである。弥助は、のちの陸軍大将大山巌(いわお)で、西郷の従弟だ。手紙の日付は明治七(一八七四)年十二月十一日。西郷が征韓論争で下野したのが前年十月なので、一年以上が経過している。だが、その年の二月には不平士族の反乱の先陣となる「佐賀の乱」が勃発し、「西南戦争」(一八七七〈明治十〉年二月)まであと二年二カ月という時期だ。

気になるのは書名が記されていないことだ。

調べてみると、どうやら『学問のすゝめ』らしかった。佐賀の乱が始まる一カ月前に発売された同書の五編で、そこにはこんな一節があったのである。現代語訳すると、こうなる。

「たまたま外国の事情を知る機会に恵まれた者であっても、もっと突っ込んで詳しく知ろうとはせず、ただ恐れるだけ。相手に恐怖心をいだいてしまうと、多少なりとも自分に得るものがあっても、それを相手に教え広めるところまではいかない。要するに、国民が独立の気概を持たない限り、文明の外観もやがては無用の長物と化してしまうのだ」

これは日本について書かれているのだが、西郷は、前文の「自分」を「朝鮮」に、「相手」を「日本」に置き換え、鎖国をして日本に胸襟(きょうきん)を開かない朝鮮へ遣韓大使として丸腰で出かけていって平和裏に話し合い、修好条約を結ぼうとした自分の姿を重ねたのではなかったか。

いささか牽強付会(けんきょうふかい=こじつけ)の観なきにしもあらずだが、ほかに見当たらないのだ。

一方、福沢は、西南戦争で賊徒呼ばわりされた西郷を擁護する論文「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」を書く。

十月に脱稿し、発表しようとしたが、周囲の者から止められて断念し、行李(こうり)にしまい込んだ。その原稿が日の目を見るのは、二十年後(一八九七〈明治三十〉年)、福沢が六十四歳のときだ。『福沢全集』を出すことになり、関係者が行李のなかにあった“幻の原稿”を発見し、世間に広く知られるようになったのである。

「自分は西郷とは一面識もないし、庇護したいのでもないが」といいながら、四十四歳の福沢は、田原坂(たばるざか)で自決し五十一歳で逝った西郷への熱い思いを文章に込めるのである。

「余輩(よはい)はにわかにこれを信じること能(あた)わず、西郷は少年の時より幾多の艱難(かんなん)を嘗(な)めたる者なり。学識が乏しいといえども老練の術あり、武人なりといえども風彩(ふうさい)あり、訥朴(ぼくとつ) なりといえども粗野ならず。平生の言行温和なるのみならず、いかなる大事変に際するもその挙動綽々然(しゃくしゃくぜん)として余裕あるは、人のあまねく知るところならずや」

その『福沢全集』が編まれる際、十二月に刊行される第一巻に代表的な著作の「緒言」を入れることになり、福沢は『文明論之概略』の四百字程度の短い解説文を書いた。

その解説文に次のようなエピソードが記された。

「有名な故西郷卿なども通読したることゝ見え少年子弟に此(この)著書は読むが宜(よろ)しと語りしことありと云ふ」

少年子弟のなかには、京都市長を務め、市電を走らせた西郷の息子菊次郎も含まれ、後年、父が何巻かある福沢の本を褒めていたと語るが、その本は『西洋事情』らしい。

さらには、「慶應義塾入社帳」という資料がある。そこにも西郷隆盛の名がある。鹿児島から慶應義塾に入った学生二人の保証人として署名したのだ。これも、福沢と西郷の信頼関係を示す一例である。日付は明治六年四月十八日。征韓論で西郷が下野する半年前の話だ。

西南戦争と渋沢栄一の悲しみ

一方、渋沢と西郷も関係が深い。

渋沢が、初めて西郷と会ったのは、一八六五(元治二/慶應元)年に京都の一橋家に奉職してからだ。「奥口(おくぐち)の詰番(つめばん)」から始まった武士としての務めが評価されて、渋沢は「御用談役(ごようだんやく)」の下役(したやく)になって外部との折衝役に昇進し、徳川慶喜を訪ねてきた西郷と話をしたのが最初だった。

顔見知りになってからは渋沢の方で訪ねて行ったりすることもあり、誘われて時々鹿児島名物の豚鍋をごちそうになったという。

西郷は、体裁を取り繕ったりしない〝自然体の人〟だった。自分の知らないことは平気で誰にでも聞いた。あるときなど、二宮尊徳が相馬藩に招聘(しょうへい)されたときに案出した「興国安民法(こうこくあんみんほう)」がよくわからないから教えてほしいと、わざわざ渋沢の家まで訪ねてきた。

西郷は、徳川慶喜を評して、「あれほどの人物は諸侯中にいないが、惜しむらくは決断力を欠いておられる。おぬしから上の者に話をして、慶喜公の決断力がつくようにするとよい。そうすれば、幕府を倒さなくても、慶喜公を頭として大藩の諸侯を集めて統率すれば、幕府を今のままにしておいても政治は行える」と渋沢に語ったというエピソードが残っている。

渋沢が三十八歳のときに「西南戦争」が勃発し、西郷隆盛が自刃した。一八七七(明治十)年である。それ以前から不平士族が各地にあふれ、江藤新平の「佐賀の乱」(一八七四〈明治七〉年二月)、熊本の「神風連の乱」(一八七六〈明治九〉年十月)、福岡の「秋月の乱」(同)、前原一誠の「萩の乱」(同)と反乱が続き、その最後が、西郷がつくった私学校の生徒らが暴発して陸軍省の火薬庫を襲撃した事件に端を発した「西南戦争」だった。

「西郷翁は、他人への仁愛が過ぎて、過失に陥る傾向があらせられた御仁だった。一身を同志の仲間に犠牲として与えられた結果、明治十年の乱(西南戦争)となった」

渋沢は、尊敬していた西郷の死を悼(いた)んだ。

 

seishun.jp

PROFILE
城島明彦

作家。1946年三重県生まれ。70年早稲田大学政治経済学部卒業。東宝、ソニーを経て、「けさらんぱさらん」で第62回オール讀物新人賞を受賞し、作家デビュー。以降、幅広いテーマでノンフィクション、小説を執筆。おもな著書に『武士の家訓』『ソニー燃ゆ』『世界の名家と大富豪』、現代語訳に『五輪書』『吉田松陰「留魂録」』『石田梅岩「都鄙問答」』『中江藤樹「翁問答」』などがある。

福沢諭吉と渋沢栄一 (青春新書インテリジェンス)

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  • 作者:城島 明彦
  • 発売日: 2020/08/04
  • メディア: 新書