行動と情熱の吉田松陰に足りなかった福沢諭吉の「計画性」

計画性の大切さ

情熱で突っ走るタイプとじっくり計画を練り上げるタイプがいる。どちらも一長一短あるように感じるかもしれない。しかし、混迷の時代においてどちらのタイプがその野心を達成できるか、これは歴史から紐解いてみると答えは明らかだ。文明開化目前、西洋で勉強がしたいという同じ志を持ちながら、正反対の人生を歩んだ福沢諭吉と吉田松陰。二人の運命を分けたものとは?

鎖国の時代に「海外渡航」を実現した福沢諭吉

つい先日まで鎖国していて海外渡航など「夢のまた夢」どころか「不可能」だった時代に、福沢は幕末の七年間に渡米、渡欧、渡米と三度も海を渡っている。

【一回目】渡米(二十七歳) 一八六〇(万延元)年一月十九日~五月五日

【二回目】渡欧(二十八~二十九歳) 一八六一(文久元)年十二月~翌六二(同二)年十二月十一日

【三回目】渡米(三十四歳) 一八六七(慶應三)年正月二十三日~六月二十七日

福沢には体力にものをいわせる「行動力」があり、「ここぞ」という場面では果敢に動いた。幕府が二万五千両(今日の貨幣価値で二十億~二十五億円見当)もの大金を投じてオランダから購入した軍艦「咸臨丸」をアメリカへ派遣するという話を耳にしたときも、自分から志願した。

艦長に命じられた軍艦奉行木村摂津守(せっつのかみ)の従者になって渡米したいと考えたものの、木村とは面識がない。大坂から江戸へ出てきた翌年のことで、これといった縁故もない。

福沢はどうしたか。頭に浮かんだのは、適塾で学んだ経歴を活かし、蘭方医(らんぽうい[蘭学医])に推薦してもらうという手だった。

江戸には代々幕府の奥医師を務めてきた桂川家(かつらがわけ)という名家があった。蘭方医の〝総元締め〟で、蘭方医修行をしている地方在住者が江戸に来たら、イの一番に挨拶に伺わなければならない家門である。

杉田玄白げんぱく、前野良沢りょうたく、中川淳庵じゅんあんらとともに日本初の西洋解剖医学書『解体新書』(一七七四[安永三]年刊/原典はドイツの医学書『ターヘル・アナトミア』で、そのオランダ語訳本)を翻訳した桂川甫周ほしゅうも同家の人である。

福沢も例に漏れず、桂川家には何度か出入りしていた。幸いなことに、その桂川家と木村家はごく近い親戚という。そのツテを頼らない手はないと福沢は考えた。思い立ったが吉日と福沢は桂川家を訪ね、紹介状を書いてもらうことに成功。その書状を持参して木村に直談判すると、その場で渡航要員にしてもらえた。いってみれば、押しかけ志願。そういう経緯があった。

海外への情熱が空回りしてしまった吉田松陰

吉田松陰と金子重輔

吉田松陰と金子重輔

福沢が乗り込んだ「咸臨丸」はオランダで建造された百馬力の蒸気船だが、蒸気を使うのは入出港のときだけで、あとは風力を使う帆船だった。幕府がなぜ咸臨丸をアメリカへ向かわせたかといえば、同国の海底測量船が奄美大島沖で難破した事件が関係していた。

乗組員は助かって横浜へ移送され、幕府の庇護を受けていた。彼らは迎えにきた蒸気外輪フリゲート艦「ポーハタン号」に乗って帰国することになり、同船をサンフランシスコまで護衛する随伴船(ずいはんせん)の役割を帯びたのが咸臨丸だったのである。

ポーハタン号は、ペリーが初来航した翌年(一八五四[嘉永七]年)三月に「日米和親条約」を結ぶために再来航した船隊の旗艦で、二十五歳の吉田松陰が国禁を犯して密航しようとして乗り込み、交渉したが拒否された船である。

艦上で松陰は、日本語を流暢に話す通訳ウィリアムズと話をした。

「何のためにアメリカへ行きたいのか」

「学問をするためだ」

学問と聞いてウィリアムズは、「このことは私とペリー提督だけが知ることだ」と前置きして、こういった。

「アメリカへ行きたいという君の希望を提督も私も心中では大変喜んでいるが、幕府との条約を取り決めた以上、君の願いを聞き入れるわけにはいかない。もう少し待てば、日米両国の往来は自由になる。そのときこそ来てほしい」

松陰は食い下がった。

「海岸に戻れば、死刑になる。どうしても乗せてほしい」

押し問答を続けたが、松陰の願いは聞き入れられなかった。下田沖に停泊するポーハタン号まで漕ぎ寄るのに使った小舟が流され、そこに刀、日記、象山から贈られた漢詩も入れておいたために事が露見するのは時間の問題と考え、松陰は翌日自首、江戸伝馬町の牢獄へ送られたのである。

「下田踏海(とうかい)」と呼ばれるこの密航未遂事件に対し、評定所(ひょうじょうしょ[現在の最高裁判所に相当])が下した判決は「遠島(えんとう)」だったが、大老井伊直弼は納得せず、「死刑」と書き改めさせた。

結局、松陰は安政の大獄に連座し一八五九(安政六)年十月二十七日に処刑場の露と消えた。福沢が咸臨丸で日本を出航したのは、それから三カ月もたっていない翌年(万延元年)一月十九日のことだったから、「不運」というしかない。

だが、読者が次の事実を知れば、「不運では片づけられない何か」を感じるに違いない。実は松陰は、咸臨丸の乗船候補の一人だったのだ。そういったのは、松陰の師の佐久間象山である。象山は、勝海舟、坂本龍馬らの師でもある。

象山は、松陰にこういったのだ。

「幕府がオランダから軍艦を購入し、その船に俊才を乗せて海外に送り出して海外事情を調査させてはどうかと勘定奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)に話したところ、賛成し、その計画を進めることになり、門人のなかに適材の若者はいないかと尋ねられたので、数名が浮かんだ。その候補者のなかに君の名前も入っている」(拙著『吉田松陰「留魂録」』より流用)

福沢と松陰を比べてみると、松陰は辞世の「かくすればかくなるものと知りながら已(や)むに已(や)まれぬ大和魂」から推測できるように、情熱だけで渡航に賭け、失敗したのに対し、福沢は計画を練り、縁故を有効に活かすなど綿密さで勝り、成功したという大きな違いがある。

もし松陰が朗報が届くのをじっと待っていたら、咸臨丸の船上で福沢諭吉と出会い、「学問」という共通のテーマで意気投合し、日本の歴史が変わっていた可能性が高い。

 

PROFILE
城島明彦

作家。1946年三重県生まれ。70年早稲田大学政治経済学部卒業。東宝、ソニーを経て、「けさらんぱさらん」で第62回オール讀物新人賞を受賞し、作家デビュー。以降、幅広いテーマでノンフィクション、小説を執筆。おもな著書に『武士の家訓』『ソニー燃ゆ』『世界の名家と大富豪』、現代語訳に『五輪書』『吉田松陰「留魂録」』『石田梅岩「都鄙問答」』『中江藤樹「翁問答」』などがある。

福沢諭吉と渋沢栄一 (青春新書インテリジェンス)

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  • 作者:城島 明彦
  • 発売日: 2020/08/04
  • メディア: 新書