絶滅の危機を3度乗り越えた太平洋の孤島、イースター島の不思議

イースター島のモアイ像

独自の文字を持つなど高度な文明を誇っていたイースター島。モアイ像で有名だが、そこには他文明の影響にさらされながらも生き残ってきた、数奇な歴史があった。

絶海の孤島に出現した独自文明

「南米チリの海岸線まで三千六百キロメートル、最も近い有人島まで二千八十キロメートル。この南太平洋に浮かぶ島は何という?」 こんなクイズを出されても、地理に詳しい人ならすぐピンとくるはず。そう、モアイの石像で知られるイースター島である。

イースター島の地図

日本列島の北海道最北端の宗谷岬から九州本島最南端の佐多岬まで、直線距離にして二千キロメートルもない。それを考えると、このイースター島がいかに「絶海の孤島」であるかおわかりいただけよう。ちなみに日本から飛行機で行くには、タヒチを経由して島に直接向かうルートと、北米ロサンゼルスを経由してチリ・サンティアゴから島に入るルートがある。

イースター島にはその昔、ポリネシア系先住民によって独自の文明──イースター文明が栄えていたことをご存じだろうか。それを象徴するのが、島に九百体ほど現存するモアイ像であり、今日では誰も読めなくなったロンゴロンゴと呼ばれる絵文字である。

石版に描かれた絵文字(ロンゴロンゴ)はいまだ未解読

石版に描かれた絵文字(ロンゴロンゴ)はいまだ未解読

そんな数百年間存続したイースター文明も、二一世紀の今日に至るまで都合三回も滅びかけたことがわかっている。原因としては森林伐採による環境破壊、あるいは部落間の対立による殺し合い……など様々な説があがっているが、いまもはっきりしたことは不明だ。本稿では最新の学説をもとにそのあたりの埋もれた真相を掘り起こしてみたい。

現在では四千人が暮らすまでに回復

イースター島はチリ領の南太平洋上に浮かぶ三角形をした火山島で、北海道の利尻島よりひと回り小さい面積(百六十四キロ平方メートル、全周六十キロメートル)を有する。

一七二二年の復活祭(イースター)の夜、オランダ海軍提督、ヤコブ・ロッヘフェーンによって発見されたことからこの名が一般化したが、正式名称は現地語でラパ・ヌイ、スペイン語でパスクア島とも呼ばれる。一九九五年には世界遺産に登録されている。

一体いつごろからこの島に人々が住むようになったのか、よくわかっていない。四〜五世紀ごろとも、あるいは九〜一三世紀ごろとも言われるが、確証はない。いずれにしろ周辺(といってもかなり遠いが)のポリネシアの島々から勇敢な海洋民族が万里の波涛を越えてカヌーで渡ってきたことは間違いないだろう。

一九世紀後半に島は最大のピンチを迎え、住民がいったん途絶えかけたが、その後島外からの移住が進み、現在では四千人ほどが暮らすまでに回復している。

島内にはチリ海軍が駐留し、空港や道路、港湾なども整備され、学校や病院、郵便局、テレビとラジオの放送局、さらにホテルやレストラン、ディスコ、レンタカー店まである。もはや、絶海の孤島といえないほどの近代化ぶりである。

わずか半世紀で人口が五分の一に

近年の発掘調査によって、最盛期と思われる一七世紀ごろにはこの島に六千〜一万人を超えるポリネシア系住民が暮らしていたと推定されている。

ところが、先述したように一七二二年にロッヘフェーン提督が西洋人として初めて足を踏み入れた際、提督は島の人口を三千人ほどと記録している。つまりこの時点で最盛期と比べ、島の人口は二分の一から三分の一にまで減少したことになる。これがイースター島にとっての「第一の悲劇」である。

このとき島は一面草原に覆われ、高さ三メートルを超える樹木は一本も見当たらなかったという。島民は粗末な草葺小屋や洞窟で原始的な暮らしをしており、とても巨大なモアイ像を造る民族には思えなかったと提督は本国に報告している。

それから五十年ほどたった一七七四年、今度はイギリス人の著名な探検家でもあったジェームズ・クック船長が上陸した。このとき彼は島の人口について約六百人と記録している。ということは、ロッヘフェーン提督とクック船長の記録が正しいとするなら、その半世紀ほどの間に何かが起こり、島の人口が五分の一にまで激減したことになる。これが「第二の悲劇」だ。

さらに、一九世紀に入ってもイースター島は決定的な災厄に見舞われていた。ただし、この「第三の悲劇」については原因がよくわかっている。不幸なことに奴隷狩りに遭ってしまったのだ。

一〇世紀ごろに始まったモアイ建造

一八世紀後半からの約百年間というもの、アイルランドやフランス、ペルーの奴隷商人がたびたびやって来て、武力にものを言わせて島の住人を次々に連れ去った。こうして一八七二年当時で島の人口は年寄りや子供を中心としたわずか百十人ほどにまで減ってしまったという。

このように、人口減少の原因がはっきりしているのは第三の悲劇のみで、それ以外の原因はよくわかっていない。それでも、最新の学説を参考に仮説を立てることは可能だ。

まず第一の悲劇について考察してみよう。一七世紀ごろ、最大一万人いたと思われる人口が百年足らずでなぜ二分の一から三分の一に減ってしまったのか。そこには環境破壊が大きくかかわっていた。しかも、そのきっかけは島の文化を象徴するモアイ像にあった。

祖先を祀り、自分たちを様々な災厄から守ってもらう目的で一〇世紀ごろから始まったとされるモアイの建造だが、人口が増えるにつれて部落間の対抗意識が高まり、いつしか部落の威信を誇示しようとする意味合いが強くなっていく。

こうして部落同士、よその部落より少しでも大型のものをより多く造ろうと張り合うようになる。他の文明から隔絶された世界では往々にして宗教的祭祀が生活の大部分を占めるようになるため、彼らはきっと一日の大半をこのモアイ造りに費やしたのではないだろうか。

究極の奪い合いが始まる

そうなると、モアイを建造したり運搬したりするのにどうしても大量の木材が必要になるため、島にあった樹木がどんどん伐採されていった。森林がなくなると養分を含んだ土壌が海へと流れだし、芋類などの栽培が難しくなった。こうして島は食糧難に陥ってしまったのである。

近年の植物学者の研究では、イースター島にはその昔、ほかのポリネシアの島々同様、多様な植物からなる森林が存在したことが、花粉の分析によって明らかになっている。特に、椰子の花粉が大量に発見されている。こうした森林がなくなることで島全体の保水力が落ち、水不足に陥ったに違いない。

食べ物にも飲み水にも困るようになると、当然人々はその争奪戦を始めるようになる。食べ物や水の奪い合いをしている間はまだよかったが、そのうち「究極の奪い合い」が始まってしまう。第三者を殺してその肉を食らう、いわゆるカニバリズムである。

この忌いまわしい出来事を裏付けるのが、島にあったごみの集積場だ。そこには明らかに骨髄を取り出すために砕かれたと思われる人骨が少なからずみつかっているという。

こうした殺し合いに嫌気がさした人たちが、わずかに残った木材でカヌーを造り、島外へ逃れたため、島の人口はますます減ってしまった。これが第一の悲劇の真相ではないかと推測される。

犯人は西洋からもたらされた感染症?

クック船長が上陸した際に確認された「第二の悲劇」に話を移そう。ロッヘフェーン提督の時代から、わずか半世紀で三千人が五分の一の六百人に減ってしまったのはなぜだろうか。

このとき島にあったモアイ像のほとんどが引き倒され、力が宿るとされる目の部分が潰されていたのをクック船長は目撃していた。しかも、島中に骸骨が散乱し、この数十年間に何らかの原因で大勢の人々が亡くなったことを物語っていた。

研究者によると、これは西洋からもたらされた感染症(天然痘やペスト、梅毒など)によるものではないかという。その疫病はロッヘフェーン提督の船がもたらしたものか、それとも提督の後に来ていたスペインの船がもたらしたものかは判然としないが、骸骨には武器による傷が見当たらないところから、部落間の争いなどではなく感染症によって短期間に大量死したと考えられる。

モアイ像が倒されたのも、このときのことではないだろうか。従来は部落間の争いによってそうなったと考えられてきたが、自分たちを様々な災厄から守ってくれるはずのモアイが、疫病に対しては全くの無力だったため、それに怒った島の人たちが腹いせにモアイを引き倒したり目を潰したりした。そう考えることもできる。

このように、一度目は環境破壊、二度目は感染症、三度目は奴隷狩り……と、そのつど存続が危ぶまれる悲劇を乗り越えて、今のイースター島があるのである。

 

PROFILE
歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。