政治記者

安倍首相の辞任、菅官房長官の総裁選出馬――。ゆくえを見守っている人の中には、そもそも「官房長官って何をするの?」という人が多いかもしれない。40年以上に及ぶ橋本五郎氏の政治記者生活から見えてきた、知られざる役割と権力の源泉を語る。
天皇陛下からのご質問
ここに象徴的なエピソードがある。
菅が現れるまで、私は中曽根康弘内閣時の後藤田正晴が戦後最強の官房長官だと思っていた。その後藤田がこんなエピソードを残している。
あるとき宮中にお伺いして、昭和天皇にある認証官(国務大臣など、天皇による認証が必要な官職)の経歴をご説明にあがった。お役目が済んだ後で、陛下からお声がかかった。
「なかなか忙しいようだね」と。後藤田が「はっ」と答えたら、「時にどうなの? 官房長官というのはどういうことをやるの?」と陛下に聞かれたという。後藤田としては突然のご質問で、何の用意もしていなかったので慌てたようだ。結局15分ほどかけてご説明申し上げた、という。これは後藤田の著書『内閣官房長官』(講談社)の「はじめに」に出てくるエピソードである。
このエピソードが象徴しているように、天皇陛下ですら、官房長官は何をやっているんだろうと思っていたということだ。ましてや一般の国民なら、なおさらよく分かっていないに違いない。
なぜそんなことになるのか。官房長官は毎日のように記者会見をやっていてその存在は誰もが知ってはいる。しかし、いったいこの人の仕事は何なのかということについては、多くの人が明確に答えられないということなのだろう。それが官房長官の仕事なのだ。
歴代官房長官の中で、内閣全体の掌握度から考えても、また官房長官として尊敬されたという意味でも、恐らく群を抜いていると思われる後藤田がこんなエピソードを残しているくらいだから、一般の国民がなかなか仕事の全容を理解できないのも無理はない。
いくつもの顔を持つ官房長官
では、官房長官というのはどういうポストなのか。官房長官のいろいろな側面を簡潔に表現すると、まず「内閣のスポークスマン」という役割が挙げられる。かつては一日3回の記者会見をやっていたが、いまは通常、午前と午後の一日2回の記者会見をしている。
これが諸外国ではどうなっているか。例えばアメリカや中国では誰がスポークスマンを務めているかというと、多くの国では日本のように閣僚(大臣)が務めているわけではない。
アメリカではホワイトハウスの報道官だ。中国でも外交部の報道官がやっている。女性報道官の華春瑩や、最近よく見る趙立堅が有名だ。
このように専門の報道官がやっている国が多いが、日本の場合は伝統的に内閣のナンバー2である官房長官がやっている。ナンバー2というのは必ずしも序列の意味ではなく、要するに首相の一番近くにいる閣僚がやっているということで、その意味では諸外国より会見をはるかに重視している。
しかも一日2回も会見をやるということで、内閣のスポークスマンというのは、非常に大きな役割があると考えられているということだ。
また総理大臣の女房役、というと語弊があるかもしれないが、要するに総理大臣といわば一心同体の、もっとも近い閣僚である。
単に距離が近いというだけでなく、「内閣の大番頭」という役割もある。第4次安倍改造内閣では、閣僚は総理大臣も含めて20人いるが、その閣僚を束ねる大事な役割担っている、とも言える。
さらに、もう一つ非常に大事なのは、行政機関である各省庁を束ねるという役割だ。各省庁に睨みを利かせ、コントロールし、マネジメントしている。
与野党の調整という役割もある。また、行政府である政府と立法府である国会との調整も、官房長官の重要な仕事の一つと言える。
こうして見ていくと、官房長官というのは、いくつもの顔を持っていることが分かる。 さまざまな顔があるからこそ、官房長官とは何をする役職なんだろうという疑問が出てくるわけだ。
その役割は「けんかの仲裁役」?
そもそも法律(国家行政組織法)では、各省庁の指揮監督をするのは担当大臣ということになっている。総理大臣は直接的には各省庁を指揮しないというのが日本の建前だ。そこが縦割りといわれるゆえんでもある。
ただし、総理大臣には閣僚の任免権があるので、閣僚を任命、あるいは罷免することを通じてその省を掌握するというかたちになる。その意味では、間接的な指揮監督システムなのである。
だから、かつてロッキード事件で当時の総理大臣・田中角栄が賄賂をもらい、その職務権限を利用して、運輸大臣を通さずにロッキード社の航空機購入を指示したということで有罪になったが、あれは国家行政組織法からすると問題のある判決でもある。建前として総理大臣に指揮監督権はないことになっているからだ。
いずれにせよ、総理大臣は、それぞれの担当大臣を通じてしかその省庁を指揮できないことになっている。各担当大臣は、それぞれの省の指揮監督権を持っている、つまり、それだけ権力を持っているということなのだ。
では、ひるがえって官房長官はどの省庁の指揮監督権を持っているか。それは、かつては内閣官房、現在は2001年の省庁再編で内閣府という大きな組織も加わったが、それらの長である総理大臣を補佐するのが官房長官の職務である。
つまり、各省庁にまたがる事柄、あるいは、どこの省の管轄なのか判然としない問題などに対して調整したり、担当したりする必要が出てきたときが官房長官の出番なのである。
それからもう一つ、各省大臣が担当する役所同士がぶつかって、収拾がつかなくなるようなときにも官房長官が調整役となる。
後藤田はこれを称して、官房長官の仕事とは、いわゆる「まとめ役」と「けんかの仲裁」だけが権限だと、端的に言っていた。
三原山噴火で見せた後藤田官房長官の見事な危機管理対応
そのことを象徴する話がある。1986年11月、伊豆大島の中心にそびえる三原山が噴火した。溶岩が島じゅうに流れ出して、大変な状況だった。当時は中曽根内閣で後藤田が官房長官のときだった。
大島の島民・観光客は1万226人いたのだが、溶岩が住宅地にまで流れ出してきており、どうやって島民を救出するかが喫緊の最重要問題だった。
ところが、当時、災害担当を担っていたのは国土庁。いまは省庁再編で国土交通省になっているが、当時は国土庁を軸にして関係各省庁が集まって、災害対策本部ができた。
ところが、各省庁との調整に手間取り、一向に対策が出てこない。縦割り行政の弊害で省庁同士がああだこうだと押しつけ合い、できない理由を言うばかりで、時間だけが過ぎていった。
業を煮やした後藤田はどうしたか。各省庁の連携がうまくいかないときは、官房長官が調整をするという本来なら消極的な内閣法の規定を逆用して、内閣官房に権限を集中させたのだ。このときの初代内閣安全保障室長が佐々淳行。警察官僚時代からの後藤田の腹心の部下だ。
すでに溶岩が流れ出してきていて一刻の猶予も許されない状況で、いま一番大切なことは何か。それは島民を救うことである。いかに島民をすばやく救出させるか。救出させるにしても、島だから周りは海。走って逃げるわけにもいかない。船で脱出するしかない。しかし、いま島にすぐに行ける船はあるか、と調べてみたが、どうにもこうにも数が足りない。
後藤田はどうしたか。南極観測に向かう「しらせ」という船が大島の近くを航行していることがわかった。「しらせ」の管轄は当時の文部省(現・文部科学省)。文部省を通じて、「しらせ」に南極に向かうのは後にして救出に行けと命令する。
「しらせ」は南極に行くのが任務だから、断ろうと思えば断れる。ところが、断ろうものなら、「それで死者が出たらおまえたちのせいだぞ」と脅したのだ。
また東海汽船という大きな民間の船会社があり、まだ航海に出ていない未就航船を所有していた。これもまた運輸大臣を通じて、運輸省から救援に向かえと東海汽船に命じた。東海汽船は民間の会社だから、そんな命令に従う義務はどこにもないのだが、当然のことながら救出に向かわざるを得なかった。
こういう具合に船という船を集合させて大島に向かわせた。それによって全島民・観光客1万226人が無事脱出することができた。佐々淳行は後に振り返って、「暁の大脱出」と西部劇みたいな命名をしたが、後藤田官房長官を中心とする見事な危機管理対応だったと言える。
政治家の個性、力量でこんなに変わる
内閣官房長官というのは、他省庁がまとまらないときの調整役という、ともすれば消極的な権限しかない存在とも言えるのだが、三原山噴火のときはむしろ積極的にそれを利用したということである。これは官房長官が後藤田だったからできたとも言える。
逆に言うと、官房長官というのは、何をやるかよく分からない役職だけに、やる人によってその存在価値がまったく違ってくるのである。ここが国民の命にもかかわる、ものすごく大きいことなのだ。
それに比べると、阪神大震災のときはどうだったのか。
当時は村山富市内閣で、官房長官は五十嵐広三。あのときの政府の対応はとにかくひどかった。首相の村山自体がどうしていいかまったく分からないという感じで、オロオロしてNHKの中継を見ているだけ。初動対応のまずさを指摘されても「なにぶん、初めてのことでございますし……」と弁明する始末だった(後に発言を撤回)。
そういう具合に官房長官は法律的にそれほど権限が明確であるというわけではない。であるだけに、やろうと思えば、総理大臣の名において何でもできるのが官房長官でもあるということだ。
だから、法律上の限界はあるものの、そのときの官房長官の個性、力量によっていろいろなことが可能になるということでもある。そして、それがまたそのときの内閣、政権の強さに直結すると言えるわけだ。
PROFILE
橋本五郎
1946年秋田県生まれ。70年慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、読売新聞社に入社。論説委員、政治部長、編集局次長を歴任。2006年より特別編集委員。読売新聞紙上で「五郎ワールド」を連載し、書評委員も担当。日本テレビ「スッキリ」、読売テレビ「ウェークアップ!ぷらす」、「情報ライブ ミヤネ屋」にレギュラー出演。2014年度日本記者クラブ賞受賞。