切腹が“滅びの美学”に昇華したのは備中高松城の水攻めが契機だった

忍城(埼玉県行田市)

備中高松城と同じく豊臣秀吉から水攻めを受けた忍城(埼玉県行田市)
江戸時代、切腹は武士の精神性や潔さを体現する高貴な行為だったが、それ以前は相手に対するいわば“はらいせ行為”だったという。その認識を変化させるきっかけとなった人物が、豊臣秀吉の水攻めで滅ぼされた備中高松城の城主、清水宗治である。そこにはどんな歴史のいきさつがあったのだろうか。

滅びの美学を体現した戦国武将

日本の歴史のなかで切腹という自殺方法がたびたび登場する。江戸以前は、自分はいかに怨みを残して死んでいくかということを第三者に見せつけるための、いわばはらいせ行為とみなされていたが、江戸時代に入るとその認識が変化した。

日本人の心にそうした変化を起こさせるきっかけとなった人物がいる。戦国時代、羽柴(豊臣)秀吉の中国攻めによって滅ぼされた、備中国(岡山県西部)高松城の城主清水宗治である。

織田信長の命を受け、中国方面総司令官となった秀吉が西国各地を転戦し、その総仕上げとして臨んだ毛利方の高松城を攻めた際に戦った相手である。この戦いで秀吉は、日本の戦史上にも前例がない奇策「水攻め」によって宗治を降参させたのだが、このとき宗治は数万という敵味方が見守るなか、湖水に浮かべた小舟の上で、ひとさし舞った後、従容(しょうよう)として自刃を遂げた。

このときの宗治のふるまいについてのちに秀吉は「あっぱれ、武士の鑑である」と称賛したことから、以来、切腹とは武士にとって名誉な行為であるという認識が日本人の心のなかに浸透していったのだという。

もしも、「滅びの美学」というものがあるとしたら、まさに清水宗治こそはそれを見事に体現した戦国武将であった。そんな宗治と秀吉の間で繰り広げられた合戦の様子と、幕末維新期になり、宗治の子孫が再度主家の危難を救ったという話を語ってみよう。

全長四キロの堤防を十二日で完成させる

秀吉による中国攻めは天正五年(一五七七年)ごろに始まった。毛利勢力圏の東方における事実上の最前線となっていた尼子勝久の西播磨上月城(兵庫県佐用町)、この上月城攻めのさなかに織田を裏切った別所長治の東播磨三木城(同三木市)、さらに毛利氏の重臣の吉川経家が守る鳥取城──などを次々に陥落させ、最後に残った備中高松城攻略に乗り出したのは天正十年(一五八二年)春のことだった。

この年の三月中旬、秀吉は二万の織田軍を率いて姫路城を進発した。途中、備前国(岡山県南東部)の亀山城で宇喜多勢一万を加え、目指す高松城に着いたときは三万の大軍に膨れ上がっていた。

高松城は当時としては珍しい平城で、周囲は湿地帯(泥田)、さらにその向こうには屏風を立て回したように山々が取り囲んでいた。唯一残った城の正面側には川(足守川)が横たわり、敵の侵入を阻はばんでいた。

秀吉は最初、城に籠る清水宗治に使者を送り、「すみやかに降参すれば、備中国を与えよう」と懐柔策に出たのだが、宗治はこれを一言のもとに撥ね付けたという。そこで秀吉は方針転換し、強硬策に打って出た。

高松城は地形から見て水攻めにうってつけと判断し、足守川の水を城に引き込むための堤防工事を命じたのである。こうして出来上がった堤防は、全長約四キロメートル(異説あり)、高さ八メートルもあった。これほどの大工事を、五月八日の着工からなんと十二日目に完成させたというから驚く。

城兵の命と引き替えに

天も秀吉に味方した。その年は特に雨が多く、工事中に降り出した雨と、堰き止めた足守川の水とがあいまって、城の周辺をみるみる湖水に変えていった。高松城の敷地は地上三・五メートルほどで、普段の足守川の水位とそう変わらなかったことも、城方には不運だった。こうして城を中心に巨大な人造湖が短期間に出現したのである。

 五月二十一日になり、小早川隆景や吉川元春ら毛利本隊が救援に駆け付けたが、広々とした湖面にポツンと浮かぶ高松城を見て愕然とする。秀吉という男が持つ途方も無さと、その後ろに見え隠れする信長が持つ権力の大きさを初めて思い知り、為す術も無く立ち尽くすのだった。

しばらくはこう着状態が続くなか、最初に動いたのは毛利方だった。毛利の外交僧で、秀吉とも面識があった安国寺恵瓊を秀吉の陣所へ派遣し、和睦を持ちかけたのである。さらに、清水宗治のところにも使者を出し、「ここは降伏するべき」と説得させた。しかし、宗治はこれを拒否する。「あくまでも城と運命をともにしたい」という申し出だった。

そこで、今度は恵瓊本人が宗治のもとに赴き、これまでの交渉経過を包み隠さず述べた。宗治はそれを黙って聞き終えると、重い口を開いた。

「こんなときに一命を擲(なげう)つことは武士の名誉。自分の命と引き替えに城の者たちが助かるなら、なんで命を惜しみましょう」そう言って和睦を承諾したという。

切腹の前日に髭を剃る

清水宗治は、備中清水城(岡山県総社市)城主清水宗則の二男として誕生した。その後、経緯ははっきりしないが、同じ備中の戦国大名である三村氏の重臣となる。三村氏と毛利氏が争った通称「備中兵乱」(天正二年)の際、主君の三村元親を見限って毛利方に寝返る。このとき高松城主の地位を得たらしい。

武士として人一倍の矜恃を持ち合わせており、たとえばこんな話が伝わっている。高松城内で切腹をあしたに控えた宗治が、近侍の者に髭を剃ってくれるよう命じた。けげんそうな顔つきのその家来に向かって、宗治が言った。

「あした死ぬと決まっていて、容貌を整えることが不思議か? この首が信長に献じられ、髭が茫々だったというのでは、信長に嘲られるのは明白。わしにとってそれは大いなる恥辱なのだ」

自分の命よりも武士としての名誉を守ることに心を砕いた宗治らしい逸話といえるだろう。そんな宗治が、秀吉方から提供された小舟に乗り、毛利と織田、両軍の兵士が見守るなか自害を遂げたのは六月四日朝のことだった。享年四十六。

実はその前夜、明智光秀が毛利方に送った、自分の謀叛によって本能寺で信長が落命したことを報しらせる使者を秀吉は偶然捕えており、この瞬間の秀吉の心中はけっして穏やかでなかった。しかしながら秀吉は、そんな不安はおくびにも出さず、一軍の大将然とした悠揚迫らぬ態度で宗治の自害を見届けたのであった。

毛利方が信長の死を知るのは、秀吉の軍勢が撤退した翌日、七日のことである。

岡山市北区にある高松城址公園に「備中高松城本丸跡」が遺されている

岡山市北区にある高松城址公園には「備中高松城本丸跡」がある

父親として息子に贈る最後の人生訓

宗治には景治という息子がいた。秀吉は天下を取ったのち、この景治に一万石を与えて家来にしようとしたが、景治はそれを断り、毛利氏に残った。その後景治は、毛利氏が関ヶ原の戦いで徳川家康から領地の大半を没収され長州の萩に転封となった際、財政再建に尽力し、能吏として名を成した。

この景治が、父から遺言をもらっていたという話がある。宗治の辞世といえば、
「浮き世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」
がよく知られているが、それ以外に景治にのみ遺言が伝わっていたのだ。「身持ちの事」と題された次の三カ条から成るものがそれである。このとき景治は十二歳の少年(当時は源三郎)だった。

 一、恩を知り慈悲正直にねがいなく 辛労気尽くし天にまかせよ
 一、朝起きや上意算用武具 人を遣ひてことをつつしめ
 一、談合や公事と書状と意義法度と 酒と女房に心乱すな

この三カ状はまさに城主の跡継ぎとして生まれたわが子への応援歌であり、父親として息子に贈る最後の人生訓でもあった。宗治が直筆でしたためたこの遺言状を景治は生涯にわたって肌身離さず持ち歩いていたという。

二十二歳で長州藩の家老職に

最後に、宗治・景治の子孫が幕末になって再び主家の毛利氏を救ったという話を以下で述べてみたい。

萩に移ってからの毛利氏は長州藩と呼ばれることになり、宗治の子孫は代々、藩の重臣として仕えた。幕末となり、討幕運動の中心的存在となった長州藩では、藩士たちは討幕派の「正義派」と佐幕派の「俗論派」とに分かれ、連日激しい議論をぶつけあった。

それを知った幕府から、今にも鎮圧部隊(のちの長州征討軍)が送られるのではないかという不穏な空気が漂うなか、新たに家老職に抜擢された人物がいた。清水宗治から数えて十二代目の子孫、清水親知(ちかとも)である。よほど優秀だったのだろう、まだ二十二歳の若者だった。

親知はたちまち「正義派」の代表格となり、もしも幕府軍が攻め込んで来た場合、敢然とこれに立ち向かうべきであると主張した。ところが、藩主毛利敬親の判断で藩論は俗論派に傾いたため、親知は罷免されてしまう。

やがて高杉晋作が挙兵すると、謹慎中にもかかわらず親知はその責任を取らされ、元治元年十二月二十五日(一八六五年一月二十二日)、切腹によって若い命を散らした。家老になってわずか二年目のことであった。

明治になり男爵を授けられる

その一カ月後、高杉晋作らの活躍で藩論を正義派が掌握すると、親知の養父であり清水宗治十一代の親春(ちかはる)が再家督を許される。息子の遺志を継ぎたいという、やむにやまれぬ行動だった。このとき四十八歳。親春は第二奇兵隊総督となって第二次長州征討(慶応二年=一八六六年)で幕府軍と戦い、これを長州から追い払うことに貢献している。

戦国時代の宗治・景治父子同様、幕末に現れた親春・親知父子もまた主家の危難を救ったのである。明治になり、親春・親知父子の功績を認めた政府は、親春の娘と結婚して清水家の入り婿となった資治(すけはる)に男爵を授けて、その功に報いた。

 

PROFILE
歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。