神風が敗因ではなかった!? 元軍が怖れた九州武士の強さの秘密

蒙古襲来

鎌倉時代中期、モンゴル帝国による二度にわたる襲来を撃退できたのは、台風によるところが大きいとされてきた。しかし、実際には一度目の「文永の役」で台風があったことを証明する史料はどこにも存在しないという。だとすれば、元軍はどんな理由で敗退したのだろうか? 

「神風」では解けない謎

一三世紀、チンギス・ハンに始まるモンゴル帝国はまたたく間にユーラシア大陸の大部分を征服する。一二六〇年にモンゴル帝国の皇帝となったクビライ・ハン(チンギス・ハンの孫)は、南宋を攻め滅ぼして大都(北京)に都城を置くと、一二七一年、国号を元と定める。クビライはその数年前から朝鮮半島の高麗王朝や海の向こうの日本に関心を示し、両国に対し服属を迫る使者をたびたび遣わせていた。

しかし、両国ともクビライの要求を蹴ったことから、まず高麗王朝が元軍の侵略を受ける。高麗王朝は元の大軍を足かけ四年にわたりよく防いだが、最後は押し切られ、元の軍門に降ってしまう。一二七三年四月のことである。この足かけ四年にわたり、高麗王朝が頑張ってくれたことが、日本に幸いした。その間、ときの鎌倉幕府(執権は北条時宗)は、元軍の襲来を想定して防衛態勢を整えることができたからである。

その後、日本と元との間で二度の合戦が行われ、二度とも日本側が元軍を撃退したのはご存じのとおり。この元寇(蒙古襲来)における日本側の勝因は、従来の通説では二度とも「神風」が吹いたことで元の兵士たちが軍船もろとも海中に沈んだから、と言われてきたが、近年はそれと違う説が浮上してきている。それは鎌倉武士の奮戦がなによりも勝因につながったとする説である。この説の真偽を追ってみた。

集団戦法に手を焼く鎌倉武士

文永十一年(一二七四年)十月三日、元と高麗の連合軍約四万を乗せた大小九百艘余の軍船が朝鮮半島の合浦を出航した。目指すのは日本の北九州。「文永の役」の幕開けであった。

元軍はまず対馬に、ついで壱岐に上陸し、それぞれの守護代とその家来、島民たちを思う様に血祭りにあげた。元軍はその勢いのまま十九日夜には博多湾に侵入し、翌二十日朝から上陸作戦を開始した。

迎え撃つ日本軍は主に九州全域からかき集められた御家人中心で、少弐景資を指揮官とするおよそ一万。湾の沿岸一帯で彼らは勇敢に立ち向かった。しかし、すぐに押され始める。一騎打ちが戦の基本である鎌倉武士にとって、元軍の、銅鑼や太鼓をやかましく打ち鳴らして仕掛けてくる集団戦法は初めて経験するものだった。また、日本軍が「てつはう」と呼んで恐れた現代の手榴弾のような火器も初めて目にするものだった。

ところが、優勢に進めていたはずの元軍がなぜか突然総退却してしまう。通説では上陸したその日の夜に台風に遭い、それが原因で元軍の船が難破し姿を消したことになっているが、台風があったことを証明する史料はどこにも存在しない(ただし帰路で暴風雨に見舞われ、大勢が溺死したという説も)。元軍はもっと別の理由で撤退したのだ。

しかも実際には上陸してから七日間ばかり博多沿岸を荒らしまわったのち退却しているという。

福岡市博多区の東公園には、元寇の際に「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国降伏を折願された亀山上皇の銅像がある

鉄壁の備えで迎え撃った日本軍

文永の役から七年後、元軍は再度北九州に襲来する。「弘安の役」である。弘安四年(一二八一年)の五月末から六月にかけて、元軍は朝鮮からの東路軍四万(軍船九百艘)と、本隊である中国江南からの江南軍十万(同三千五百艘)の二手から大船団で北九州に押し寄せた。

しかし、二度目の襲来を予見していた日本側の迎撃態勢は万全だった。幕府は主力の九州の御家人に加えて、長門と周防(いずれも山口県)、安芸と備後(いずれも広島県)の四カ国の御家人に命じて防備を固めさせる一方、敵の上陸を防ぐため海岸線に堅固な石塁を築かせた。

博多湾からの上陸を試みる元軍と、それを阻止しようとする日本軍との間で一進一退の小競り合いが続くなか、元軍は防備が堅い博多湾からの上陸を断念し、長崎の平戸方面へ回ることにする。そして、主力部隊が平戸に集結しかけたところに、北九州沿岸部を台風が直撃したのである。それは七月三十日(新暦では八月下旬)の夜半から早朝にかけてのことだった。

このときの台風で元軍十四万のうち、約四分の三にあたる十万もの将兵が溺死したという。『高麗史』には、元軍兵士の屍が浦々を埋め尽くし、その上を歩いて渡れるほどであったと記されている。

文永の役と弘安の役

文永の役と弘安の役

死ぬことを怖れない鎌倉武士

元軍がこれほどの溺死者を出したのは、軍船がいずれも急拵えだったからにほかならない。モンゴル人たちは征服した南宋や高麗の人々の尻を叩き、短期間で大量に造らせたため強度の点で著しく問題があった。そんなやわな船が、台風を避けるため目についた湾の中に一斉に逃げ込んだからたまらない。狭い湾の中で強風に翻弄されて岸壁にぶつかったり軍船同士が押し合いへし合いしたりした結果、またたく間に壊れ、将兵らは海にほうり出されてしまったのである。

歴史家によると、前回の文永の役と違ってこの弘安の役では台風が原因で元軍が滅んだことは史料によって明らかという。そうなると、先の文永の役では台風に見舞われてもいないのに元軍はなぜ撤退したのだろうか。

その答えは、鎌倉武士の勇猛さにあった。元軍の記録では「日本兵は誰一人として死を怖れてはいない」と記録され、一隊の将が首でも取られようものなら、家来が命がけでその首を奪い返しにきたという。また、鎧を着用したまま平然と海を泳いで船に迫ってくる無尽蔵の体力にも驚かされたと記録にある。元軍の兵士たちはそうした鎌倉武士の勇猛さ剽悍さにすっかり恐怖心を覚えたのである。

元軍の副総司令官・劉復亨が、乱戦のなか少弐景資が放った弓矢に体を射抜かれ、馬から転げ落ちてしまったときも、副総司令官ともあろうものが矢傷を負ったことで元軍に動揺が広がったという。

 

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歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。