「中国の三大釜」といわれる三つの都市の共通点は?
中国には「三大釜」という言葉がある。 夏の気温が40°Cを超え、釜の中にいるほど暑い都市の総称で、具体的には南京、武漢、重慶の三都市を指す。
三大釜のうち、南京は古くから長江流域の中心地として栄えてきた都市。中国南部の亜熱帯湿潤気候に属し、6月から7月中旬にかけては梅雨があり、それが明けると、気温がグングンと上昇していく。晴れた日には40℃を超え、おまけにムシムシして、不快指数も急上昇する。
かといって、冬場が暖かいわけではなく、冬の最低温度は零度以下。夏は暑く、冬は寒いという、中国でも過酷な気候の都市として知られている。
コロナ禍によって、よくその名を耳にするようになった武漢も、長江流域の大都市で、夏の暑さで知られている。7、 8月は40℃を超える日も少なくない。おまけに湿度が高く、座っているだけで汗が噴出してくる。
三大釜のもう一つ、重慶の人たちが酷暑の中、食べるのが、四川料理である。 麻婆豆腐や唐辛子入りの火鍋、鶏の唐辛子炒めなどに舌鼓を打ち、汗を思いっきりかくというのが、重慶の人たちの夏対策となっている。
秦の始皇帝陵について、司馬遷は内部をどう“推理"した?
中国陝西省西安市の郊外に、小高い丘 がある。いっけん自然の地形のようだが、じつは人工的に築かれた陵墓、秦の始皇帝陵だ。
紀元前3世紀、戦乱の時代を統一し、中国史上最初の皇帝となった秦の始皇帝は、当時の慣習にならって、即位後すぐに陵墓の建造に着手した。建造には、常時70万人の人が駆り出され、始皇帝が50歳で死去するまでの37年間、工事が続けられた。そうしてできあがったのが、高さ訳80メートル、東西約475メートル、南北約440メートルにおよぶ巨大な陵墓だ。
陵墓といえば、その内部がどうなっているのか、気になるところ。だが、発掘調査が行われていないので、その様子は 正確にはわかっていない。建造に携わった人たちは、その秘密を守るために生き埋めにされたというくらいだから、その内部については文献もほとんど伝えていないのだ。
唯一に近い史料は、司馬遷の『史記』 司馬遷は、次のように記している。
地下水の層に三度達するほど掘り下げたところに、地下宮殿がある。そこには、地上から運び込んだ無数の宝物が収められている。周囲にはからくりで流動する水銀の河川や大海、天井には空を模した装飾。そして永遠に消えることのない人魚の脂の灯りが灯されている。
この“地下宮殿説”、果たして事実なのか、それとも司馬遷の空想にすぎないのか?
近年の電波調査やボーリング調査によって、始皇帝陵の地下に大量の水銀が流し込まれていたこと、地下宮殿らしき遺跡が存在することはわかっている。全貌はまだわかっていないが、どうやら、陵の地下には、司馬遷が描いたような空間が実際に広がっていそうなのだ。 地下宮殿は、東西170メートル、南北145メートルの規模で、その中央に石灰岩でつくった墓室があるという。いずれ発掘調査が行われたときには、その全貌が明らかになるだろう。
コモド島のコモドオオトカゲは 何頭くらい生き残った?
“爬虫類好き”なら、一度は行ってみた い島がある。インドネシアのコモド島だ。 周囲の潮流が激しいため、他島との生物の行き来が少なく、独自の生態系が残されている。
知られているのは、現地球上で最大の爬虫類といわれるコモドオオトカゲ。大きいものになると、体長3メートル、体重100キロを超える。
この巨大な生物が発見されたのは、1911年のことだった。コモド島に小型飛行士が不時着、乗っていたオランダ人パイロットが「恐竜の生き残りを見た」と報告したのが最初だ。 性格はそれほど獰猛ではない。肉食で、シカ、サル、水牛など、ほ乳類・鳥類を何でも食べるが、あくまで襲うのは食糧確保のため。人間が近づいても、よほど腹が減っているか、こちらから危害を加えようとしなければ、襲われることはない。
現在、コモドオオトカゲは、コモド島以外にも、近隣のリンチャ島、フロレス島の一部に、合わせて約3000頭が生息している。
ヒマラヤにミニSLを走らせた理由とは?
インドには世界最古の山岳鉄道であるダージリン・ヒマラヤ鉄道が走っている。
紅茶で有名なインド北東部・ダージリン地方、ニュー・ジャルパイグリから、ダージリンまでの約88キロを結ぶダージリン・ヒマラヤ鉄道である。1880年、当時インドを植民地としていたイギリス人たちを避暑地ダージリンに運ぶために開通した鉄道だ。その後、有名な紅茶・ダージリンの輸送にも使われるようになった。
現在、一部はディーゼル化されているが、世界中から訪れる鉄道ファンのために、蒸気機関車も、現役でがんばっている。
がんばっているといっても、なにぶん旧式。全長8キロを7~8時間かけてコトコトと登っていく。ほとんどの行程は道路と併走していて、そちらを走る乗り合いバスなら3~4時間で目的地につく。それでも、このミニ鉄道がいまでも地元 の人の立派な“足"となっているのは、あまりに遅いため、飛び乗り・飛び降りが可能なためだ。
途中、クーセオングの町のあたりでは、列車は街中にはいってくる。高さ約2メートルの小振りな機関車が、まるで路面電車のように、駅前商店街のような繁華街を通っていく光景は、鉄道ファンにはたまらないだろう。
ちなみに、ループやスイッチバックといった、その後、山岳鉄道の代名詞となった技術が世界で初めて利用された鉄道であることも、鉄道ファンならすでにご存じのことだろう。
ハロン湾の「海の桂林」はどうやってできたのか?
ベトナムの首都ハノイから、ほど近い ハロン湾。約1500平方キロメートルの湾内には、大小3000もの奇岩が吃立している。
その奇岩が林立する風景は、中国の桂林とよく似ていて、「海の桂林」とも呼ばれるが、両者が似ているのはけっして偶然ではない。じつは、桂林とハロン湾は、同じ石灰岩台地に属し、その石灰岩台地は、北は桂林から、南はベトナム北部のニンビンまで、広範囲におよんでいるのだ。
かつて10万年以上前の氷河期に、この石灰岩台地は海に沈んでいた。その後、海流が長い年月をかけて石灰岩を浸食、再び隆起する過程で、このような奇景が現れたというわけだ。
この海の奇景をめぐっては、こんな伝説も伝わっている。
昔、この土地で人々が平和に暮らしていたところ、侵略者が襲撃してきた。戦術を知らない人々は、すぐに海岸線まで追いつめられてしまう。すると、突然、海が割れ、巨大な龍が現れた。
あわてふためいた侵略者たちは、船に乗って逃げようとするが、龍は彼らを蹴散らし、全滅させてしまった。そのとき、龍の尾が岩を砕いていったため、このようなたくさんの奇岩ができあがった、というのだ。
「ハロン」という地名は、現地の言葉で「龍が舞い降りるところ」を意味している。
「地理」の楽しみを知りつくしたメンバーのみによって構成されている研究グループ。日本各地、世界各国を歩き、地図をひろげ、文献にあたり…といった作業を通じて、「地理」に関する様々な謎と秘密を掘り起こすことを無上の喜びとしている。