栄華を誇った平氏一門が滅亡した「本当のきっかけ」

宮島桟橋前にある平清盛像
ライバルの源義朝を討ち破り、武家政権を自らの手で樹立した平清盛。その一門は「平氏にあらざれば人にあらず」とうそぶくほど他を寄せつけない栄華を誇っていた。だが、その権勢も清盛の死後あっけなく瓦解してしまう。その理由とは、どんなものだったのだろうか。

警察権と軍事権を掌握する

平清盛が謎の熱病で亡くなったのは、治承五年(一一八一年)閏二月四日のことであった。享年六十四。命旦夕に迫った枕元で、「葬儀などは無用。それよりも(源)頼朝の首をわが墓前に供えよ。そのことが何よりの供養である」と周囲の者に遺言したことはあまりにも有名だ。頼朝に対する恨みがいかに根深いものだったのか、この遺言でわかろうというものだ。

清盛こそは、日本史上を代表する傑物の一人である。貴族の用心棒でしかなかった武士階級の出身だったが、数多の政争に乗じて次第に朝廷の中で発言力を強めていき、やがて警察権と軍事権を掌握。最終的には貴族の最高位である太政大臣にまでのぼりつめ、娘(建礼門院徳子)を入内させて天皇家と姻戚関係を結ぶまでに至る。

清盛は武家政権の礎を築いた人物としても知られ、のちの鎌倉幕府の仕組みはすべて清盛の模倣であった。また、海外にも目を向け、隣国・宋(中国)と積極的に貿易を推し進める一方、銅銭を大量に輸入して日本に貨幣経済を根付かせようとしたのも清盛の功績の一つにあげられている。

大飢饉が西日本一帯を襲う

このように、いみじくも一門の重鎮・平時忠が「平氏にあらざれば人にあらず」とうそぶいたように、わが世の春を謳歌した平氏一門であったが、驕れるもの久しからず、清盛が亡くなってわずか四年後に、長門壇ノ浦において滅亡を遂げる運命にあった。

一体、平氏がこれほどあっさり滅んだのは何が原因だったのだろうか。巷説として、平氏の人々はそれまでの貴族の用心棒という低い身分から短期間に公卿や殿上人に成り上がったことで、武士としての表芸の鍛錬を怠り、貴族趣味の怠惰な生活に明け暮れるようになったからだと言われている。はたしてそんな単純な理由だけで滅んだのであろうか。

平氏があれほど短期間に滅亡した原因として、近年、史家の間では次の二説が有力視されている。一つは、自然災害──「養和の大飢饉」と呼ばれる西日本一帯を襲った未曾有の大飢饉があげられる。

養和の大飢饉は、平氏と源氏による争乱のさなかに発生した。それは清盛が亡くなる前年の治承四年(一一八〇年)に始まり、その年は西日本一帯で極端に雨が少なく、農作物の収穫量が激減した。

翌年(養和元)も旱魃は続き、秋の台風が追い打ちをかけ、西日本の各地で大雨や洪水が発生した。次の年(寿永元=一一八二年)はさらに状況が悪化し、飢饉に加えて京都などでは疫病が大流行した。

西国からの兵士や兵糧の調達に苦心

この当時の京都市中の悲惨さを、鴨長明は著書『方丈記』の中で、「餓死者の遺体が市中にあふれ、各所で異臭が充満していた」と述べている。

源平合戦の幕開けと言われる治承四年の「宇治川の戦い」は、飢饉が始まった年の初夏に行われたため、平氏方は飢饉の影響をそれほど受けずにすんだが、その年の秋に行われた「富士川の戦い」あたりから、モロに影響が出始めた。

この富士川の戦いでは、頼朝率いる源氏軍と、平維盛が京都から率いてきた平氏軍とが駿河の富士川を挟んで戦ったが、平氏軍は水鳥が川面を一斉に飛び立ったときの羽音を、源氏軍の襲来と勘違いして、ろくに戦いもせず尻に帆をかけ京都へ逃げ帰ってしまった。

これほど簡単に平氏軍が敵前逃亡したのは、駿河に到着したころには早くも飢饉による兵糧不足が露呈しており、戦う前から陣中には厭戦気分が蔓延していたからだと言われている。

その後、源平の戦いは木曽(源)義仲による「倶利伽羅峠の戦い」から、源義経が活躍する「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」、そして最後の元暦二年(一一八五年)三月に行われた「壇ノ浦の戦い」へと一気に突き進むわけだが、平氏方はそのいずれもで、大飢饉の影響から兵士や兵糧を西国から調達するのに苦労したらしい。

壇ノ浦古戦場の近くにある、安徳天皇を祀る赤間神社。鮮やかな朱塗りの門が特徴的

飢饉の次はハイパーインフレ

平氏が滅亡したもう一つの要因、それは清盛が推し進めた貨幣経済にあった。清盛は権力の座についてから、宋との貿易に精を出し、種々の物品を売り買いして莫大な富をほぼ独占していた。同時に大量の銅銭を輸入し、日本国内に貨幣経済を根付かせようと画策したのである。

当時は米や絹織物が通貨の役割を果たしていたのだが、銅銭が流通するようになると、流通に不便な米や絹の価値はどんどん下がり、それらを蓄えていた貴族や寺社、豪族たちから一斉に不満の声が上がった。

ところが、養和の大飢饉が発生すると、一転して米など物品の値段が急上昇し銅銭は暴落してしまう。銭を山積みしてもちょっぴりの米しか買えなくなってしまったのだ。まさに、ハイパーインフレ状態である。これにより清盛の言うことを聞いて銅銭を大量に所有していた平氏一門は財産をいっぺんに失ってしまう。

このように西日本一帯を襲った三年に及ぶ大飢饉と、それに伴うハイパーインフレというダブルパンチによって平氏は滅んだのであった。

 

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。