知識人&風流人としての一面も
そもそも前田慶次の名が歴史ファンに広まったのは、隆慶一郎が一九八〇年代後半に発表した痛快時代小説『一夢庵風流記』によるところが大きい。その後、同小説を原作に少年漫画週刊誌で連載された『花の慶次─雲のかなたに─』(原哲夫・作画)が大ヒットし、若い歴史ファンの間で前田慶次の名は不動のものとなった。
これら小説や漫画に登場する前田慶次は、二メートル近い大男で、戦国一の
束縛されることを嫌い、わずかな家来を引き連れ、諸国を放浪する自由人。それでいて古今の書に親しみ、連歌や茶道にも通じた知識人&風流人としての一面も併せ持つという魅力たっぷりのキャラクターである。
前田慶次が実在の人物であることは、様々な史料から明らかだ。ところが、小説や漫画に描かれたキャラクターがそのまま実像とみるわけにはいかない。なぜなら、出生や足跡、特に後半生をどう過ごしたかについてほとんどわかっていないからだ。
本記事では、そんな戦国の快男児・前田慶次が、義理の叔父・前田利家(加賀藩主前田氏の祖)のもとを出奔してから亡くなるまでの約二十年間の謎多き足跡をたどった。
前田利家の兄利久の養子となる
前田慶次の略歴を伝える史料として、加賀藩の編年史料集『加賀藩史料』と、慶次が晩年を過ごしたとされる米沢藩に伝わる史料の二種類がよく知られている。加賀藩側の史料によると慶次の生年は天文二年(一五三三)とあり、米沢藩側の史料では天文十年(一五四一)とある。両者に八年の開きがあるのだ。没年も、前者は慶長十年(一六〇五)に七十三歳のとき、後者は同十七年(一六一二)に七十二歳のときだと記録されている。
一体、どちらの説を信じればよいか悩むところだが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで、慶次自身、人生最後の合戦に参加して功を立てているという事実を考慮すれば、このとき加賀藩説では六十八歳、米沢藩説では六十歳となり、加賀藩説は少し無理があるようだ。そこで本項では、米沢藩説にしたがって話を進めていくことにする。
慶次は、織田信長軍団にその人ありと言われた武将・滝川一益に近い筋の出という。父親はわかっていない。母親が前田利家の兄利久に再嫁したことが縁で利久の養子となり、以来前田姓を名乗った。
永禄三年(一五六〇)、利久・利家兄弟の父で尾張荒子城(名古屋市中川区)城主前田利春が亡くなると、利久が前田家を継ぎ、新しい荒子城城主となった。ところが、利久は病弱だったため、信長が利久を隠居させて家督と城を弟の利家に与えてしまう。次期荒子城城主と目されていた慶次は一転、城を退去するはめに陥った。永禄十二年、慶次二十九歳のときのことである。
京都では一流の文化人たちと交流
その後、十四年間というもの、慶次は主に京都にいたらしいが、ほとんど足跡は伝わっていない。慶次は当時の武将には珍しく和歌や漢詩、茶道に明るかったことを考慮すれば、この時期、京都で当代一流の文化人たちと交流を持ちながら穏やかな日々を過ごしていたとみて間違いないだろう。
慶次の運命が激変したのは、天正十年(一五八二)に起こった本能寺の変がきっかけだった。翌年、羽柴(豊臣)秀吉が柴田勝家との天下奪りレースに勝ちを収めると、秀吉に味方した前田利家は加賀と能登を与えられ、金沢に入る。利家は利久・慶次父子を呼び寄せ、兄利久には二千石、甥の慶次には五千石を与えた。慶次四十三歳のときだ。以来、慶次は利家の忠実な家来となって数々の戦で功を重ねていく。
例えば、天正十二年九月、秀吉と、織田信雄(信長の息子)・徳川家康連合軍との間で繰り広げられた小牧・長久手の戦いでは、越中国(富山県)の佐々成政が織田・徳川連合軍に呼応し、前田方の能登国末森城(石川県宝達志水町)を襲ったが、慶次は佐々軍の背後をつく奇襲戦を仕掛け、見事に撃退している。
また、翌天正十三年四月、佐々成政から奪った阿尾城(富山県氷見市)の城将をしていた際も、成政に命じられた神保氏張が五千の兵で城奪還に押し寄せたが、慶次は二千の兵でこれを追い払っている。
戦に臨む慶次のいでたちこそ見ものであった。戦国武将の逸話集『常山紀談』によれば、「黒革胴の具足をつけ、猩々緋の陣羽織、金泥の数珠の総に金瓢箪をつけたものを襟にかけ、襞のついた山伏頭巾をかぶり、愛馬にも同じような頭巾をかぶらせていた……」とある。まさに、傾奇者であった。
諸大名の前で猿踊りを披露
また、慶次が着用したとされる甲冑が現存しているが、他の武将のそれと比べて特に大きいとは言えないという。慶次は二メートル近い大兵だったというのはどうやら小説や漫画の創作と思って間違いないようだ。
前田利家は、自身も若いころは傾奇者として鳴らしただけにそんな慶次のことが内心では大好きだった。しかし、今や百万石の太守となった利家は立場上、普段からいたずら好きで人を食ったところが往々にして見受けられる慶次に対して態度を改めるよう何かと説教じみた苦言を呈するようになる。
天正十五年(一五八七)八月、義父利久が没した。慶次はこれによって前田家と縁が切れたわけである。おそらく慶次はその後、肩身の狭い思いをしながら利家のもとで暮らしたに違いない。
そんな堅苦しく退屈な日々が我慢できなくなったのか、ある日とつぜん慶次は暴発してしまう。それは、利家が自邸に諸大名を招いたときに起こった。
諸大名が居並ぶなか、興がのった慶次がふいに立ち上がって、猿のしぐさを真似た滑稽な踊りを披露しはじめたのである。いまや信長に代わる天下人となった秀吉は、その容貌から猿のあだ名がつけられているのは周知の事実だった。
このことが秀吉の耳に入ったら、と利家をはじめ諸大名は慶次の悪ふざけを、ただ苦虫をかみつぶして見守るばかり。そんな一座の空気を知ってか知らずか慶次の踊りはいよいよ滑稽さを増し、あげくには諸大名の膝に順番によりかかったりする始末だった。
堅苦しい利家のもとから去る
このとき、慶次がどうしてもそばに近付けない大名が一人だけいた。越後国(新潟県)の上杉景勝である。言わずと知れた越後の竜・上杉謙信の後継者だ。景勝は端然と座し、ただ黙って慶次の猿踊りを見守っていたが、威風、あたりを払い、さすがに無鉄砲な慶次もそばに寄れなかったのである。
慶次はのちに「仕えるなら、景勝公しかいない」と思わず漏らしたことが伝わっている。
その後慶次は、「口うるさい叔父のもとにいるのはもうこりごり」と前田家を出奔してしまう。それは秀吉が小田原城を攻め、天下統一を成し遂げた天正十八年(一五九〇)以降とみられている。根っからの自由人を繋ぎ止めておくことは誰にもできない相談だったのだ。慶次五十歳ごろのことである。
慶次は利家のもとを去る際、「いつも迷惑ばかりかけて申し訳ないから」と利家を騙し、冷水風呂に入れている。せめてもの腹いせだったのだろうが、この「水風呂馳走」はいかにも慶次らしい逸話である。
その後、慶次は再び京都に滞在し、花鳥風月を愛でながら悠々自適の日々を過ごしたという。このころ生涯の友となる上杉家の重鎮、直江兼続と出会っている。
この京都時代、慶次は秀吉から聚楽第に招待されている。秀吉が「評判の傾奇者をこの目でぜひ見てみたい」と言い出したからだった。当日、慶次は虎皮の肩衣に朱の革袴という異様な風体で秀吉の前に参上した。最も不思議なのは髪形で、髪の毛を片側に思いっきり寄せ、そこに髷を真横に立たせていた。
秀吉から傾奇御免のお墨付きを
「これは……?」と同席した諸侯が思わず息をのんだ。秀吉とて例外でなかった。しかし、自分の目の前で慶次が腰を下ろして平伏すると、秀吉は再度驚かされることになった。
貴人の前で平伏する場合、額を畳につけるのが当たり前だが、慶次は頭を横に寝かせて側頭部を畳につけてみせたのだ。このとき髷だけが天井に向かってぴょこんと立っていたのが、何ともおかしかった。「お前なんぞに、心底服従したわけではない」と慶次は無言で傾奇者の意地を貫いてみせたのである。
次の瞬間、秀吉は手を叩いて喜ぶと、こう言った。
「面白い男じゃ。褒美に馬を取らせよう」
すると慶次は、
「かたじけのうござります。されば暫時お待ちくださりませ」
そう言ってその場を離れたが、しばらくして秀吉の前に戻ってきたときは、髪も装束もすっかり正式なものに改めていた。その見事な変身ぶりに、いよいよ秀吉は面白がり、慶次に対し「傾奇御免」の許可を与えた。どこで誰にどんな無法なことをしても罪には問わない、わしが許すとお墨付きを与えたわけである。
慶次が上杉家に仕官したのは、景勝が越後から会津百二十万石に移封された慶長三年(一五九八)から関ヶ原の戦いが起こった同五年の二年間とみられている。景勝から頂戴した禄は一千石だった。
慶長五年九月、関ヶ原の戦いが起こると、ほぼ同時期に連動して起こった〝東の関ヶ原〟長谷堂城の戦い(山形市)において慶次は、西軍についた上杉軍の将として東軍の最上義光と干戈を交えた。このとき六十歳になっていた慶次は老いを気振りにも見せず、自慢の朱槍をふるって大暴れした。特に、味方の撤退時に慶次の真骨頂が発揮されている。
高禄での仕官の誘いが舞い込む
景勝が関ヶ原での石田三成の敗戦を知り、あわてて軍を撤退させようとしたが、案の定、最上・伊達連合軍から猛追を受けた。このとき敵軍の前に立ちふさがったのが慶次で、この殿戦での慶次の奮戦によって上杉軍は敵の追撃をからくも振り切ることができたのであった。
関ヶ原の戦いで家康が勝利すると、西軍についた上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石に減移封されることとなった。慶次は主君に随って米沢に移り住む。長谷堂城の戦いでの慶次の奮戦ぶりは広く知れわたっており、高禄での仕官の誘いがあちらこちらから舞い込んだが、「わが主人は景勝公ひとり」とすべて断っている。
米沢では居宅を「無苦庵」と名付け、直江兼続らと詩歌に親しむ穏やかな日々を過ごす。亡くなったのは米沢に来てから十一年後だった。亡骸は北寺町の一花院(のち廃寺)に葬られたなど諸説あるが、はっきりしたことはわかっていない。
晩年、慶次自身が書き遺した『無苦庵記』に、死生にこだわらないいかにも戦国武将らしい彼の人生観が色濃く反映されているので、最後にその一節(意訳)を紹介しよう。
「そもそもこの無苦庵(慶次自身のこと)には孝行すべき親もなければ行く末を気にかける子もいない。信仰心は持たないが、髪を結うのが面倒なので頭は剃っている──中略──寝たければ昼でも寝るし、起きていたければ夜中でも起きている。極楽浄土に行きたいと思う欲はないけれど、地獄に落ちるほどの罪も犯していないはずだ。生きるだけ生きたら死ぬまでのことだ」
実に、無欲恬淡としたものであった。
歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。