三重の地名の由来は日本神話にあるって本当?
東征帰路に日本武尊が伊勢国能褒野で亡くなられたという記述に基づき、明治12年に内務省により「日本武尊能褒野御墓」 (やまとたけるのみことのぼのおんぼ)と定められた。現在も日本武尊の墓として宮内庁が管理している三重北部最大の前方後円墳。
三重という名は、
日本武尊は、東国の
やがて、日本武尊の足が“三重"に曲がった地であることから、三重という地名がつけられた。
なぜ伊賀は忍者の里になったの?
三重県の伊賀市は、忍者の里として知られる。
伊賀で忍者が生まれた理由は、大きく分けて三つある。一つは、伊賀地方が四方を山に囲まれているため、昔から大きな権力が成立せず、小領主らによる割拠がつづいていたこと。
小領主同士がしのぎを削るなか、奇襲や諜報活動といった巧緻な戦術に磨きがかかったのだ。二つ目は、伊賀の土壌が粘土質で、農耕に不向きなこと。伊賀の人々は生計を立てるため、傭兵として出稼ぎに出るようになり、彼らの技はさらに進化していった。
三つ目は、山岳地帯の伊賀周辺には、修験道と関わりの深い霊山などが多いことが挙げられる。山伏や修験者らと接するうち、彼らの修行法が伊賀忍者にも伝わり、それが忍者の技術をより高めたと考えられる。
三重の山中に鈴鹿サーキットがつくられたのは?
日本モータリゼーションの“聖地”といわれ、世界中のレーサーが憧れる「鈴鹿サーキット」。このサーキット場は、ホンダの創業者、本田宗一郎が生んだコースである。
鈴鹿市との縁は、ホンダの新工場設立計画からはじまった。昭和33年夏発表のミニバイク「スーパーカブ」をヒットさせたホンダは、浜松・埼玉の工場では生産が追いつかなくなることを見越して、工場用地を探していた。候補地はいくつかあったが、平坦で十分な広さを持つ鈴鹿が選ばれ、工場が設立された。
その後、サーキット建設を決めたときも、最終的に鈴鹿が選ばれたが、建設されたのは木の生い茂る丘陵地。要するに、山の中にコースをつくったのは、近隣住民の生活に極力、影響を与えないという本田宗一郎の意向があったからだという。山の中であれば、農地を買い上げたり、用水路を壊したりする必要がなかったというわけだ。
四日市がコンビナート地帯になったのは?
三重県四日市市は、江戸時代には東海道の宿場として栄え、大正時代には毛織物や綿の輸出で発展した。その街の性格が変わったのは、昭和14年(1939)、 四日市湾の埋め立てが行われ、海軍燃料工廠が設立されてからのことである。以降は軍需工場が増え、現在まで四日市市は重工業の街として歩むことになった。
太平洋戦争中には、工場群が空襲の標的となり、壊滅的な被害を受けるが、戦後、復興を遂げ、現在に至る一大石油化学コンビナート地帯を形成した。昭和30年代後半には、工場から排出した汚染物質が原因で「四日市ぜんそく」が発生、社会問題となったこともある。
そうした過去を払拭するように、近年は”夜景工場クルーズ”などの見学ツアーが注目を集め、とりわけ夜の幻想的な工場風景が人気の的となっている。
三島由紀夫の『潮騒』のモデルになった島とは?
三島由紀夫の『
この島のモデルになったのは、三重県鳥羽市にある
そんな神島は、今では『潮騒』のモデルの島としてさまざまなアピールをしている。神島港に降りると「三島文学 潮騒の地」と書かれた碑があり、新治と初江がたき火をはさんで裸で向かい合った小屋「
「地理」の楽しみを知りつくしたメンバーのみによって構成されている研究グループ。日本各地、世界各国を歩き、地図をひろげ、文献にあたり…といった作業を通じて、「地理」に関する様々な謎と秘密を掘り起こすことを無上の喜びとしている。