西郷隆盛の肖像画で有名なキヨッソーネは“日本の紙幣の父”だった

キヨッソーネ

明治初期、日本にはさまざまな分野から専門家が招聘されたが、その中に紙幣印刷の技術を日本に伝えたエドアルド・キヨッソーネがいる。日本の紙幣の父であるだけでなく、明治期の著名人の肖像画を数多く残した彼は、故国イタリアに帰ることもなく日本で没した。帰国を思いとどまらせるほどの魅力を、日本のどこに感じていたのだろうか。

絵を描くことにも才能を発揮

明治初期、西欧の科学知識や学問、諸制度を導入するため様々な分野の専門家が外国から日本に招聘された。そうした外国人は日本の人々から「御雇外国人」と呼ばれた。

彼らは政府の各省から引く手あまたで、明治七~八年のピーク時には五百人を超えていた。なかでも、一日も早く西欧に肩を並べたいと考えた明治新政府は、「富国強兵」に直接かかわる文部省と工部省でより多くの外国人を雇用した。

エドアルド・キヨッソーネも、そんな御雇外国人の一人である。イタリア人のキヨッソーネは、大蔵省紙幣寮(国立印刷局の前身)の招きで日本にやって来た。当時欧州を代表するほどの技量を持つ紙幣や銅版画の凹版彫刻師であった彼は、紙幣印刷の技術を日本に伝えるために来日したのだった。

キヨッソーネは、日本初の肖像画入り紙幣「一円紙幣」(通称神功皇后札)を造ったのを皮切りに、日本の歴史上の偉人を題材にした様々な肖像画入り紙幣を世に送り出したことでも知られる。芸術的素養をあわせ持っていた彼は、そのほとんどすべての肖像画を自らの手で描いている。

キヨッソーネにとって絵を描くことは余技にすぎなかったが、その卓越した技量が見込まれ、当時の元勲、またはその関係者からこぞって肖像画を依頼された。ざっと名前をあげると、西郷隆盛、その実弟西郷従道、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、大村益次郎……など。明治天皇の肖像画も彼の作品だ。つまり、今日われわれが、教科書などで目にした明治維新を彩った偉人たちの肖像画はほとんどキヨッソーネの作品なのである。

それほどわれわれ日本人と縁が深いキヨッソーネだが、実際にどうやって紙幣を造っていたのかは今日あまり知られていない。そんな大蔵省紙幣寮での彼の仕事ぶりを中心に、退職後にどんな人生をすごしたのかも調べてみた。

実はキヨッソーネは大蔵省で足掛け十六年働いた後、故国イタリアに帰ることもなく、そのまま日本にとどまり、日本で没した。一体彼は、帰国を思いとどまらせるほどの魅力を日本のどこに感じていたのであろうか。

若者に凹版印刷技術を指導

キヨッソーネはイタリア北西部の港湾都市ジェノバの出身。家は代々製版・印刷業を営んでいた。二十二歳でジェノバの美術学校を卒業すると、優秀な生徒であったところから、イタリア国立銀行の依頼で紙幣の印刷技術修得のため、当時その方面の先進国であったドイツに派遣されている。

インド洋経由で未知の国・日本の横浜港に到着したのは明治八年(一八七五)一月十二日、満四十二歳のときだった。

当時の明治新政府はドイツに紙幣の製造を委託していたのだが、これがかなり高額で、財政を圧迫していた。そこで、どうしても自前で製造する必要に迫られたわけだが、その技術がなかった。この問題を解決するために招聘されたのが、欧州でも最新の紙幣印刷技術を身につけたキヨッソーネだった。

雇用契約の内容は、満三年間で、月給は四百五十四円七十一銭八厘と高額だった。この明治八年当時、巡査の初任給が四円と記録されている。つまり、巡査の百倍以上の月給をもらっていたわけである。キヨッソーネの給料がいかに破格だったかおわかりいただけるだろう。この契約はその後何度も更新され、結局、明治二十四年七月の任期満了までキヨッソーネは大蔵省印刷局(紙幣寮から紙幣局を経て一八七八年に改称)で十六年間働いた。

キヨッソーネの最初の作品は、明治十年九月に完成させた「国立銀行紙幣・新券」で、当時の富国強兵政策を反映して表面に彫刻で水兵の姿が、裏面に商売の神さま恵比寿が配されていた。こうした紙幣のほか、公債や印紙、郵便切手、有価証券などの製造にも携わる一方、キヨッソーネは次代の技術者を養成するため日本の若者を集めて印刷技術を指導することにも熱心に取り組んだ。

神功皇后のモデルは女子工員

キヨッソーネが手掛けたわが国初の肖像画入り紙幣、神功皇后札は明治十四年に発行された。このときの神功皇后の肖像画を制作した際の苦心談が残っている。

神功皇后は『古事記』や『日本書紀』に登場する伝説上の人物だけに、その姿を正確に写した資料はなかった。そこでキヨッソーネは、『古事記』にあった「幼くして聡明叡智、容貌壮麗」という一文を頼りに、印刷局で働く、ややしもぶくれで美人と評判の女子工員をモデルに絵を仕上げたという。

最初に発行された一円券では、彫りが深い日本人離れした神功皇后だったが、五円券、十円券と進むにつれて日本人らしい表情の皇后に変わっていったという。

その後、こちらも伝説上の人物で、大和政権の初期に活躍したとされる武内宿禰が入った一円券(明治二十二年発行)では、顎髭が豊かな神田明神の神官や、自分が雇用していたコックの顔を参考に宿禰の肖像画を完成させている。

明治二十三年発行の十円券で採用された和気清麻呂(天皇家の危機を救った忠臣)の場合、誠実で武人の風貌をあわせ持った明治の元勲・木戸孝允をモデルにしたという。

母親の死にも帰国せず

キヨッソーネ自身、余技と考えていた元勲たちの肖像画の制作は、大久保利通と西郷従道の二人から始まった。ともに明治九年の制作だ。キヨッソーネの作品で最も有名な西郷隆盛の肖像画は明治十六年に制作されたもので、西郷が故郷鹿児島の城山で亡くなって六年がたっていた。

キヨッソーネは西郷とは面識がなく、さらに西郷自身、生前写真を残さなかったため、肖像画の制作には苦心したようである。そこでキヨッソーネは、実弟従道と従兄弟にあたる大山巌の顔をミックスして、われわれがよく知るあの恰幅がよく、ギョロリと大きな目をもつ「西郷どん」の肖像画を描き上げたという。上野公園のシンボルである西郷像は、のちにこの肖像画を基に高村光雲が制作したものだ。

こうした本業以外の仕事もあって、キヨッソーネの毎日は目が回るほどの忙しさだった。彼は連日朝早くから夜遅くまで働き、日曜出勤は当たり前、夏休みを返上することも珍しくなかった。母親が亡くなったとの知らせを受けても帰国せず、仕事に没頭した。

明治政府はキヨッソーネのこうした献身的な忠勤に応えるべく、十三年に勲四等旭日章を贈ってその業績を称えた。さらに、翌年には月給を七百円にアップし、特別手当も増額した。

キヨッソーネは仕事柄、日本の歴史に触れる機会が多く、その関係で日本の美術品に並々ならぬ興味を抱いていた。わけても、印刷の仕事が一段落した十二年、キヨッソーネは得能良介印刷局長に誘われて古美術調査団に参加し、四カ月間にわたって関東や近畿にある神社仏閣を訪ね歩いたが、これがきっかけとなり、より深く日本美術に傾倒していったという。

収集品は故郷に寄贈

明治二十四年七月、キヨッソーネは五十八歳で印刷局を退職した。政府はその功に報いるため退職金三千円と年額千二百円の終身年金を与えることを決める。

この時点で故国イタリアに帰るという選択肢もあったが、キヨッソーネは大好きな日本の美術品をもっともっと収集したいと考えるようになり、日本の土に骨をうずめる決意をする。

こうして三十一年四月十一日に、東京・平河町にあった自宅で六十五歳で亡くなるまで全国の古美術商をこまめに訪ね歩き、美術品を収集した。彼が日本滞在中に集めた美術品は多岐にわたり、仏像や灯籠、陶磁器、浮世絵、書物(挿絵入りに限る)、着物、刀剣類など一万五千点にも及んだ。特に浮世絵のコレクションは、のちに分類・整理を任された岡倉天心を驚嘆させるほどだった。

古美術商たちはこの風変りな外国人のことを、親しみをこめて「キソさん」と呼んでいたという。彼はきっと、自分の鑑識眼を信じ、目についた物を片っ端から集めていったのであろう。さいわい蓄えは潤沢で購入資金に困ることはなかった。

これらキヨッソーネが収集した膨大な美術品の数々は、彼の死後、遺言によって若いころに学んだジェノバの美術学校に寄贈されたが、今日ではジェノバ市立キヨッソーネ東洋美術館にまとめられている。

キヨッソーネの切手

故国イタリアでは切手にもなっている

遺産は現在のお金で数千万円あったという。生涯独身を貫いたキヨッソーネは、すべて使用人たちで分配するよう遺言している。遺体は青山の外人墓地に葬られた。

キヨッソーネの献身的な働きによって、日本の印刷技術は短期間で世界的水準にまで引き上げられたことは疑いのない事実。美術品の収集においても、当時の日本では二束三文でぞんざいに扱われていた品々を丹念に収集・保管してくれたお陰で現代に伝わったのである。今日、このキヨッソーネが日本で果たした業績はもっと評価されてよいはずである。

 

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

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