シーボルトの娘が日本初の女医“楠本イネ”になるまでの数奇な運命

西洋医学を学んだ日本人女医第一号は、あのドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトを父に持つ“オランダおいね”こと楠本イネだ。そこに至るまでには、父との生き別れと再会、医学の師とのいざこざ、医師資格の喪失など、さまざまな運命が待ち受けていたという。

シーボルト事件が運命を変えた

“オランダおいね”こと楠本イネは、西洋医学を学んだ女医としては日本人第一号だ。父親は、改めて言うまでもなく、あのドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。

ドイツで医学の名門の家に生まれたシーボルトが日本に来日したのは江戸後期の文政六年(一八二三)七月のこと。その身分は、オランダ東インド会社の日本駐在員、つまり長崎・出島のオランダ商館付医師というものであった。

そこでシーボルトは楠本滝と知り合い、文政十年五月六日、滝との間に一人の娘をもうける。それがイネである。イネは両親の寵愛を受け、すくすくと育つが、文政十一年のいわゆるシーボルト事件によって、翌年九月、シーボルトは江戸幕府から国外退去を命じられてしまう。イネがまだ二歳のときのことだった。

その後、イネはどんな人生を過ごしたのであろうか。後年、産科医になったことはよく知られているが、そこに至るまでの経緯や産科医としての活躍、さらに晩年をどう過ごしたのかなどについてはあまり知られていない。

この記事では、そんなオランダおいねにまつわる様々な謎を以下で解いていくことにしよう。

かわいい盛りの娘と生き別れ

イネの母滝は当時、長崎を代表する花街丸山の遊女だったと言われている。あるいはまた、シーボルトの患者だったのが見初められ、遊女と偽って出島に出入りしたという説もある。当時は出島への出入りが厳しく制限されており、唯一遊女だけが出入りできたからである。

いずれにしろ、滝がシーボルトの愛を受け容れたのは数えで十六、シーボルトより十一年下だった。滝は美人で、よく気がきく女性だったという。

一方のシーボルトは好奇心の塊のような青年だった。代々の医家に生まれながら、小さいころから博物学や植物学に強い関心を持っており、今回の来日の主たる目的は、そうした自らの好奇心を満足させるためのものだった。

シーボルトは、出島内において医院を開業した後、来日した翌年(文政七年)には出島外に「鳴滝塾」を開設し、日本の若者に西洋医学(蘭学)を教えている。塾生には、のちに医者や学者として活躍することになる高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介ら俊英が全国各地から集まった。

文政九年(一八二六)四月、シーボルトはオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行、道中を利用して日本の自然や地理、植生などを精力的に調査している。江戸に入ると、ときの十一代将軍徳川家斉に謁見した後、天文学者の高橋景保や蝦夷地を探検した最上徳内ら当代一流の学者と交友を結んでいる。

文政十一年、シーボルトは五年という長期滞在を終え、いったん日本を離れることにする。数年後には日本に舞い戻る予定だったという。ところが、日本地図など幕府が禁じている品々を国外へ持ち出そうとしたことが露顕し、幕府の取り調べを受ける。

シーボルトは「純粋に自分の学問のための蒐集である」と弁明したが、幕府の役人から聞き入れてもらえず、結局は国外追放と再入国の禁止を言い渡される。こうしてシーボルトは、愛する滝と、かわいい盛りの娘イネとの生き別れを余儀なくされたのであった。

望まない師匠の子を宿す

シーボルトは離日の際、母娘が当分は楽に暮らしていけるだけのお金を滝に預けていったという。しかし、美人と評判の滝を世間がほうっておかなかった。シーボルトと別れて二年後、滝は廻漕業(船を利用した運送業)をしていた俵屋時次郎という男と再婚する。

その後、イネがどんな少女期を過ごしたかを伝える史料はほとんど見つかっていない。しかし、西洋人との間に生まれたイネは、あきらかにほかの日本の少女と顔立ちが違っていた。当時はこうしたことに偏見が激しかっただけに、いわれのない差別やいじめに遭いながら日々を過ごしたであろうことは想像に難くない。

そんなイネは、書物を読むのが大好きな少女だったということだけはわかっている。おそらく、自分は普通の日本女性のような結婚生活は無理とあきらめ、手に職をつけるため医者になろうと早くから決めていたのだろう。医者の道を選んだのは異国にいる父への追慕の念がそうさせたに違いない。

弘化二年(一八四五)二月、十九歳になったイネは、かつてシーボルトの門下生の一人だった備前国(岡山県)の医師石井宗謙を訪ね、産科の修業を始める。

それが六年目を迎えたある日、イネの身に不幸が襲いかかった。師匠である宗謙に強姦され、処女の身を穢されてしまったのだ。これ以後、イネは宗謙のことを蛇蝎の如く嫌い、二度と身を任せるようなことはしなかった。ところが、このときのたった一回の交わりで、イネは妊娠してしまう。そして生まれたのが、娘タダ(のちタカに改名)である。

イネは娘を分娩した際、産婆の手をかりず、自分で赤ん坊のへその緒を切ったという。出産後は娘を抱いて長崎へと帰るのだが、このとき見送りに来た宗謙に対し、イネはさんざんに罵倒して追い払っている。

約三十年ぶりに父と涙の再会

こうした妊娠から出産までの顚末は、のちに成長したタカが直接イネから聞かされたものだが、親とすれば秘密にしておきたいはずのことをわが子にさらけ出すというのは、どういう心境なのだろうか。それだけ、宗謙のことを嫌っていたという証拠だろうが、それにしても、イネとタカの二人はありふれた母娘関係でなかったことだけは確かなようである。

安政元年(一八五四)、伊予国(愛媛県)宇和島から、シーボルト門下生の医師二宮敬作が長崎にやって来た。二宮はイネの口から宗謙との一件を聞くと同情し、自分の手元にイネを引き取ると申し出てくれた。こうして宇和島でイネの修業が再開された。

このとき、たまたま宇和島藩から招かれていた村田蔵六(のちの大村益次郎=陸軍の創立者)からオランダ語を習ったりしている。

安政六年(一八五九)七月、その四年前に「日蘭和親条約」が締結され、これによって再入国禁止令を解除されたシーボルトが、再び日本の土を踏んだ。実に二十九年ぶりの日本だった。

滝とイネの母娘は、感涙にむせび泣きながらシーボルトと再会を喜びあったという。このときイネは三十二歳。すでに長崎で産科医院を開業していたが、医師としてさらなる高みを目指し、シーボルトに欧州の最新の医療技術を学ぼうとした。ところがシーボルトはその申し出をやんわり断ったという。

シーボルトは日本を離れてからほとんど医者としての仕事をしていなかったからだ。そのかわり、オランダ海軍所属の優秀な軍医であったポンペのもとで学べるよう手配をしてくれたという。

福沢諭吉の口添えで宮内省に

文久二年(一八六二)四月、とつぜんシーボルトが日本を離れることになった。日本の新たな夜明け──明治維新を見ることはなく、都合三年弱の滞在だった。顧問として雇われていたオランダの貿易会社との間で何らかの揉め事があったせいで、離日が早まったのだという。

イネにすれば、一人の娘に戻って甘えたり、医者の大先輩としてもまだまだ教えてもらいたいことがあっただけに、大きなショックだった。このときシーボルトは、オランダから連れてきた息子アレキサンダー(イネにとっては異母弟)を日本に残していった。やはり、滝やイネの行く末が心配だったからだろう。

明治三年(一八七〇)二月、イネは東京に出て、築地で産科医院を開業する。資金はアレキサンダーとその弟ハインリヒが出してくれたという。その後、産科医としてすこぶる評判がよかったイネは福沢諭吉の口添えで宮内省御用掛となる。医者としてはこれ以上ない名誉だった。

明治八年(一八七五)、医術開業試験制度が始まった。医者になるには国の免許が必要になったのである。女性であったイネは受験資格がなかったため、潔く築地の医院を閉じ、故郷長崎に舞い戻る。明治十七年には医術開業試験の門戸は女性にも開かれたが、このときすでに五十七歳になっていたイネは、合格の望みは薄いと判断し、産婆に商売替えをはかる。

晩年の楠本イネ(左)と娘のタカ(右)

晩年の楠本イネ(左)と娘のタカ(右)

六十二歳になり、娘タカ一家と同居するため産婆を辞め、再度上京する。以来、医療に従事することは一切なかった。晩年のイネは、ハインリヒに建ててもらった麻布の洋館にタカ母子と住み、穏やかに暮らした。

タカは、イネが命じた助産婦になることを嫌い、琴の演奏家として名を成しており、イネの三味線とタカの琴の音の合奏が洋館の窓からよく流れてきたという。

明治三十六年(一九〇三)八月二十六日、西洋医学を学んだ日本初の女医として、大勢の妊婦と赤ちゃんの命を救った楠本イネは七十六歳で天寿を全うした。

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

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