現代に通じる「部下のモチベーションを上げる」豊臣秀吉の言い方

企業のリーダーたちほど歴史よく勉強しています。いまに生かせる発想、ブレない自分の支え方、人間関係の要諦――学べることは山のようにあるようです。豊臣秀吉を例に、「自分」とつながる歴史との向き合い方について、歴史小説の第一人者である童門冬二氏に教えてもらいます。

現代にも通用する「組織力」があった武将とは

歴史をいまに生かすという点で、普遍的なテーマはやはり、「リーダーシップ」についての参考例だろう。現代に落とし込んで考えるテーマとして最も身近で、親しみやすいからである。

リーダーシップの取り方で、わたしがいまだに「うまいな」と唸り続けているのが、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎の時代におこなった数々の事例である。

奇しくもいまの愛知県から三人の天下人が生まれた。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人だ。組織には必ずトップ・ミドル・ローの三層があって、上から経営者・管理職・一般従事者の階層に分かれる。

信長と家康ははじめからトップ層の家に生まれたが、秀吉だけがロー層からスタートした。そして秀吉は、このロー層・ミドル層を経てトップ層にのし上がった。早くいえば、組織を形づくる「全階層」を経験したといえる。

したがって、「部下の気持ちによく通じ、何を求めているかを理解している」立場だったといえる。この点ではある意味で、信長や家康よりも幸運だった。

しかしだからといって秀吉は、よくいわれるように単なる“人たらし”ではない。かれはかれなりに一種の合理性のある考え方を持っていた。その考え方というのは、「仕事はあくまでも組織でおこなうものだ」という理念だ。秀吉のリーダーシップの取り方は木下藤吉郎時代から、次のような確固たる認識があったのである。

・組織において個人芸は認めない
・全体がチームワークを生んで、組織として行動する
・組織というのは個人の目的を達成するものではなく、組織の目的を達成するものだ

つまり、現代の日本社会において基本ともいえる「組織で仕事を進める」という形態を、秀吉はこの時代に既に実践していたのだ。

部下のやる気を上げた秀吉の方法

秀吉のリーダーシップを示す事例に、「台風で壊れた清洲城の塀の修理」がある。織田信長は、壊れた清洲城の塀修理を普請奉行に命じた。が、幾日経っても塀は元へ戻らない。そのことに信長はキレた。そこで近ごろメキメキ頭角をあらわしてきた木下藤吉郎を、臨時の普請奉行に任じ、塀をただちに修理せよと命じたのである。

命令を受けた藤吉郎が現場に行ってみると、従事する働き手がみんなのんびりと座り込み、無駄話をしている。

「どうした? 塀は直ったか」と藤吉郎がきくと、工事人たちは首を横に振る。そして、「御奉行が別に急がなくていいというので、のんびり仕事をしていますよ」と応じた。

やる気のないこと甚だしい。藤吉郎は前々から、「織田家の仕事は、チームワークよく組織でおこなわなければダメだ。個人個人にいくら能力があっても、それが個人の段階で終わっているようでは、結局織田家は発展しない」と思っていた。

いまでいう“個人の能力の相乗”だ。能力の掛け算であり、足し算ではない。それにはまず、「なぜ塀の修理を急ぐのか」という目的を全員に周知することが大事だと考え、藤吉郎はこういった。

「塀の周囲を急がないと、敵が攻めてくる。そのときは、おまえたちの家族もみんな殺されてしまう。だから塀の修理は急ぐ必要があるのだ」

みんな藤吉郎を見た。そして互いに顔を見合わせた。「塀をこのままにしておくと、自分たちだけでなく家族も敵に殺される」という危機意識がはじめて工事人たちの胸に湧いたのである。藤吉郎は敏感に自分の言葉の手応えを知った。そこで、

「わしは新しく臨時の普請奉行を命ぜられた。塀の修理の監督をする。そこで考えたのだが、このまま全員が無計画に仕事をしていても塀の修理は進まない。どうだろう?壊れた箇所を十箇所に区分する。そして、一組ずつ分けた場所を分担するのだ。一組十人としよう。だれとだれがどの組に入るのかは、おまえたちで相談しろ。おまえたちの中でも、互いに好きだったり、嫌いだったりする奴がいるだろう。嫌いな者同士が同じ組に入っても仕事は捗らない。喧嘩ばかりするからな。この方法でやってみないか」と持ちかけた。

そしてさらに、
「一番早く修理を終えた組には信長様から褒美を貰ってやるぞ」
と付け加えた。わっと歓声があがった。

藤吉郎の、「嫌いな者同士が同じ組に入っても喧嘩ばかりして仕事が進まない」という言い方がおかしかったし、また最後の、「一番に工事を仕上げた組には、信長様から褒美を貰ってやる」という言葉が効いたのである。

信長はこんな細かいところまで顔は出さないため、工事人たちにとって信長というのは、雲の上の存在だった。さらに、工事人たちはいまの藤吉郎の実力を知っている。

草履取りから身を起こして近ごろはメキメキ頭角をあらわしていた藤吉郎のことを、工事人たちも「木下様は、やがてご重役になるだろう」と噂をしていた。その藤吉郎が請け負うのだからウソではあるまい。期待の念が湧いた。

藤吉郎はいうだけいうと、「今晩は酒を振る舞ってやるから、みんな家に戻って寝ろ。仕事は明日からでいい」と告げた。そして約束どおり酒を配ると、かれ自身も家に戻ってしまった。

なぜ秀吉にとっても予想外の成果をもたらしたのか

ところが、夜中になって工事現場で人声や物音がし、藤吉郎は見にいった。すると工事人たちがいっせいに働いていた。やがて、「修理が終わったぞ!われわれの組が一番だ!」と大声があがった。藤吉郎はびっくりした。

工事人たちからすれば、藤吉郎によって「塀修理の目的」をきちんと示された。しかも工事はチームワークでおこない、一番早く仕上がったところには、信長様から褒美が出る、ということがかれらの意欲を掻き立て、さらに修復工事の進捗に拍車をかけたのである。藤吉郎は徹夜で工事を監督した。

翌朝になると完全に塀は直った。藤吉郎は信長のところに行って、
「塀が直りました。ご自身の目でご覧ください」
と工事現場に連れ出してきた。

信長は目を見張った。
「藤吉郎、さすがだ」と褒めたが、藤吉郎は、
「わたくしが直したわけではありません。ここにいる工事人たちの手柄です。一番最初に仕上げた組に褒美を出してください」といった。

信長は大きく頷き、「一番早く終えたところだけではない。全員に褒美を出そう」といった。これが工事人たちに伝わり、いっせいに歓声が沸いた。しかしかれらが評価したのは信長ではない。藤吉郎の才覚に対してである。

目的を明確にして仕事を進める効果や部下を動かす手腕など、今回紹介した事例を見ても、歴史は遠い昔のことではなく、現代の職場に置き換えて活かせる要素がたくさんあるだろう。そういう意味でも「歴史は現実にいまも生きている」といえるのである。

 

PROFILE
童門冬二

1927年東京生まれ。東京都庁にて広報室長、企画調整局長、政策室長等を歴任後、79年に退職。以後は執筆活動に専念し、歴史を題材に、組織と人間の問題を浮かび上がらせる手法で、数々の話題作を手がけている。第43回芥川賞候補。99年には勲三等瑞宝章を受章。

なぜ一流ほど歴史を学ぶのか (青春文庫 と- 18)

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  • 作者:童門 冬二
  • 発売日: 2019/07/10
  • メディア: 文庫