十九カ国語を操る自然科学の父・南方熊楠はどんな人物だったのか

南方熊楠

南方熊楠をご存じだろうか。一般的には植物学者、あるいは民俗学者として知られている。ただし、ほかにも博物学者、細菌学者、生物学者、天文学者、人類学者、考古学者……などにも精通した、まさに「歩く百科事典」だった。さらに十九カ国語の読み書きが自由にできた大天才だったが、必ずしも順風満帆な生涯ではなかったという。その生い立ちから見ていこう。

十九カ国の言語を自在に操る

幼時より天才的な記憶力を発揮した熊楠は、若くして渡米し、のち世界各地を放浪した末に英国にわたって大英博物館の職員に採用される。そこで、世界各地で発見、採集した地衣類(菌類と藻類の共生生物)や菌類に関する論文を、権威のある科学雑誌『ネイチャー』などに次々と寄稿し、わずか数年で世界中の研究者から一目置かれる存在となる。

興味がある事柄を一度書物で読んだり人から聞いたりすると、そのまま脳細胞に深く刻み込まれ、けっして忘れることがなかった。肩書がこれだけ多岐にわたるのは、枠にとらわれず、興味を持ったことをとことん追求した結果だった。

語学にも堪能で、なんと英語、仏語、ドイツ語、スペイン語、オランダ語、イタリア語、ギリシャ語、ポルトガル語、ラテン語など十九カ国語の読み書きが自由にできた。そんな博覧強記の熊楠に対し、熊楠と親交があった民俗学の権威・柳田国男は、「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」と評したほどである。

そんな知の巨人・南方熊楠が、英国から日本に帰国したのは、三十三歳のときだった。以来、故郷和歌山の地をほとんど離れることなく、七十四歳で亡くなるまで「在野の学者」を通した。一体、熊楠にとって帰国してからの後半生とはどんなものだったのだろうか。

東京大学を落第して自主退学

南方熊楠は、翌年には明治と元号が変わる慶応三年四月十五日(一八六七年五月十八日)、和歌山市内で六人兄妹の次男として生まれた。実家は雑賀屋という屋号の裕福な金物屋だった。

幼児期は体が弱く、疳の強い子供だった。成長すると、読書と植物採集に明け暮れる日々を過ごした。九歳のときには近所の蔵書家に百科事典『和漢三才図会』を見せてもらい、感激した熊楠は次の日から毎日のように通って、読みふけった。

その日読んだ分を自宅に戻ってから、記憶を頼りに筆写し、五年の歳月をかけて全百五冊を図入りで写し終えてしまったという。同様に、『本草綱目』『大和本草』『日本紀』『諸国名所図会』『太平記』なども悉く諳んじて帰り、たちまち写本の山を築いてしまった。軍記物語『太平記』などは近所の古本屋に毎日通って、立ち読みだけで全五十冊を丸暗記してしまったというから、まさに、人間コピー機である。

熊楠は地元の中学に進んでも、学業には身を入れず、図書館に通って自然科学に関する書物を読みあさり、その合間に植物採集に熱中した。そのうち、イギリスの植物学者バークレイが六千種もの菌類を集めたというニュースを新聞紙上で知った熊楠は、バークレイの記録を塗り替えることを胸に誓う。

明治十七年、熊楠は十七歳で大学予備門(東京大学の前身)に合格。同期には夏目漱石、正岡子規、幸田露伴らがいた。しかし熊楠は大学でも学業そっちのけで、博物館や動物園、植物園に入り浸り、ときには寄席にも通った。

当然、大学の成績は下がり、翌年には落第を命じられる。熊楠は「ふん。僕を落第させるような学校は、こっちから願い下げだ」と潔く退学届けを出し、故郷和歌山に帰ってしまう。

そして、「やはり学問を身につけるなら日本より西洋」と父親を説得し、現在の貨幣価値で数千万円の大金を工面してもらうと、明治十九年(一八八六)十二月二十二日、横浜港から商船でサンフランシスコへと旅立った。

天文に関する論文がネイチャー誌に

年が明けて一八八七年一月七日、サンフランシスコに到着した熊楠はこの地の商科大学に入るが、講義内容のレベルの低さに失望し、在校半年で退校する。その後、大陸を東へ進んでシカゴに入り、続いてミシガン州に至った。そこで州立農業学校に入るが、やがて寄宿舎で泥酔して醜態をさらすという事件を起こし、放校処分に遭う。一八八八年十一月のことである。

それからの熊楠は学校に入ることなく、フロリダなどを回って植物採集を行ったり、博物館や図書館に足しげく通ったり、高名な植物学者を訪ねたりして独学で学問を深めていった。中南米を回ったときは日本から旅公演に来ていたサーカス団に加わり、像使いの手伝いをしながら巡業を共にしたという。

一八九二年九月、二十五歳になった熊楠はアメリカでの滞在に見切りをつけ、ニューヨークから船でイギリスへと渡る。当時のアメリカは経済大国として歩み始めたころで、熊楠が興味を持つ植物学や生物学などの地味な自然科学に目を向ける学者はまだ少なく、その点が熊楠には不満だった。そこで、自然科学の分野では世界に冠たるイギリスを目指したのだった。

ロンドンに到着した熊楠のもとに届いたのは、故国から父弥兵衛の死と家運が傾いたことを知らせる弟常楠の手紙だった。熊楠は悲しみをこらえながら、初論文「極東の星座」を書き上げ、英国天文学会の懸賞論文に応募する。するとこれが第一位に入選し、『ネイチャー』に掲載された。

その後も南方が書き上げた「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」「拇印考」などの論文が次々に『ネイチャー』に掲載された。科学者なら一生に一度は掲載されたいとあこがれる『ネイチャー』に、なんと都合五十一回も掲載されたのである。

英国人の職員を殴って追放

やがて熊楠の博識ぶりを聞きつけた大英博物館から引き合いがあり、東洋調査部員に採用され、東洋関係の美術品の整理と目録づくりを任される。このころ熊楠は、当時イギリスに亡命中だった〝中国革命の父〟孫文とも親交を結んでいる。

熊楠は本来の仕事の合間に、大英博物館が所蔵する植物学や生物学、考古学、人類学、宗教学など様々な蔵書を興味の赴くままに読みあさった。熊楠にとっては幸福な日々が続いたが、やがてその日々にも終わりが訪れる。

人種差別意識が強い英国人館員トムソンとけんかになり、館内でトムソンを殴打してしまったことから、熊楠は大英博物館を追放されてしまう。三十一歳のときだ。

その後は、翻訳の仕事をしたり、浮世絵のブローカーをしたりして生活費を稼ぎながら学問を続けたが、ついに困窮極まり八年間過ごしたイギリスを離れ、日本への帰国を決意する。このとき三十四歳。足かけ十五年の遊学だった。

一九〇〇年九月一日、熊楠はリバプール港から日本行きの船に乗った。余談だが、この一週間後の九月八日、大学時代の同期生・夏目漱石が日本の国費留学生第一号として、妻や友人らに見送られ横浜港からロンドン留学に旅立っている。

熊楠が乗った船は十月十五日に神戸港に着いた。船のタラップを降りてくる熊楠の格好を見て、迎えに来た弟の常楠は驚いた。十五年前、最新の洋装に身を包み、ステッキをついて意気揚々と日本を旅立った兄が、「蚊帳のごとき」襤褸服を着て、足にはどた靴、背中には標本類が詰まった大きな風呂敷包みを背負って帰ってきたのだ。まるで、夜逃げ同然の姿である。

その後、熊楠は常楠の金銭的援助を受けながら和歌山市内の円珠院に居住し、熊野での植物採集や米英で集めた標本の整理、執筆などに明け暮れる。帰国した翌年には孫文がわざわざ和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温めている。

政府の神社合祀令にかみつく

明治三十七年(一九〇四)、熊楠はそれまで住んでいた那智勝浦から田辺市に移住する。翌年、整理した粘菌標本を大英博物館に寄贈。これが同国の植物学雑誌に発表され、「ミナカタ」の名は世界的な粘菌学者として認知された。

粘菌とは、腐朽した樹木や切り株などに生育して多量の粘液をもつ腐生菌の総称

三十九年、熊楠の一人暮らしを心配した周囲の人たちが、熊楠に嫁の世話をする。相手は神社宮司の娘松枝。新郎四十歳、新婦二十八歳。感激した熊楠は松枝の父宗造に対し、「誓って幸せにします」という意味の手紙、それも英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語交じりの長文の手紙を送ったところ、宗造は読めなくて閉口したという逸話が伝わっている。ちなみに、熊楠はこの年まで童貞だったという。

その後、夫婦は結婚した翌年に長男熊弥、その四年後に長女文枝を授かった。こうして貧しくても二人の子供に恵まれ、幸福な日々を送っているかのようにみえた熊楠だったが、彼にはある心配ごとがあった。それは、結婚した年に布告された「神社合祀令」に関することだった。

明治政府は国家神道の権威を高めるためと称し、各集落にある神社を一町村一社にまとめようとしたのである。この合祀令によって和歌山では残存する神社は五分の一となり、三重などは七分の一にまで減ってしまった。しかも、境内の森の大木は容赦なく伐採され、木材として金に換えられた。

当然、森の生態系が破壊されてしまうため、熊楠は憤慨し、反対運動を展開する。新聞各紙に合祀令は日本文化の破壊であるという趣旨の意見を寄稿する一方、合祀派の役人がいるところには自ら出向いて撤回を要求した。

十年に及ぶ地道な運動が実を結ぶ

明治四十三年八月二十一日、この日、合祀派の県役人が田辺高校に来ていることを知った熊楠はいつものように直談判に出かけた。ところが、役人は会ってくれず、しかも係員の制止を振り切って講堂に侵入したことから、「家宅侵入罪」で逮捕され、十八日間も拘留されてしまう。

しかし、転んでもただでは起きないのが熊楠で、拘置所で珍しい粘菌を見つけ、釈放が近付くと「もう少しここに置いてくれ」と言って警察官を困らせたという。

こうした熊楠の反対運動に民俗学者の柳田国男が共鳴し、熊楠の抗議書を印刷して識者に配布するなど、活動を側面から支えた。また、大正四年(一九一五)にアメリカ農務省の役人がわざわざ和歌山まで熊楠をスカウトにやって来たことも、世論を動かすには十分だった。

特に、地元の田辺の人たちの驚きは一通りではなかった。夏場には褌一丁で(熊楠は人一倍の汗っかきだったため)野山を植物採集に飛び回っている変わり者のおやじが、実は世界的な学者だったと新聞で知り、人々はしばらく開いた口がふさがらなかったという。

結局、このスカウト話は熊楠が断ってしまうが、このことが世間の耳目を熊楠の反対運動に集めるまたとない材料となり、大正九年(一九二〇)、ついに国会で「神社合祀無益」の決議が採択された。熊楠の約十年に及ぶ地道な運動がようやく実を結んだのである。

このときの運動によって熊楠はのちにわが国の自然保護運動の先駆者と言われるようになる。もしも熊楠がいなければ、熊野古道の古木もほとんど切り倒され、今日、様子が随分違っていたことだろう。世界遺産への登録も難しかったはずである。

昭和天皇に生物学の御進講を行う

大正十四年(一九二五)三月、予期せぬ不幸が熊楠一家を襲った。中学を卒業し、高校受験を目前に控えた長男熊弥がとつぜん発狂したのである。熊弥は学業が優秀で、熊楠は「あわよくば自らの学問の後継者に」と常々考えていただけに、その落胆ぶりは相当なものだった。
熊弥はその後、精神病院に入ったり出たりを繰り返すようになる。家にいるときは大体において大人しいが、ときには奇声を上げて家の中を走り回り、熊楠が集めた大事な標本を投げつけたり書籍を引き裂いたりして暴れた。

熊楠は息子が発症してから大好きな酒を断ち、神仏に病気平癒を祈願したりしたが、好転することはなかった。熊弥は療養生活の果てに昭和三十五年、五十四歳で亡くなっている。

昭和四年(一九二九)、熊楠六十二歳のとき、人生において最も晴れがましい瞬間が訪れる。その年の六月一日、昭和天皇を田辺湾内の神島にお迎えし、生物学の御進講を行ったのである。このとき熊楠は、キャラメルの空箱に入れた粘菌標本百十点を陛下に献上している。

昭和十六年(一九四一)、真珠湾攻撃が行われた十二月八日から三週間が過ぎた二十九日早朝に熊楠は亡くなった。死に際に「熊弥、熊弥」と息子の名を二度口にしたという。

死後、熊楠宅の土蔵の二階から二万五千点以上にものぼる膨大な量の標本類や彩色図譜などが発見された。これらは今日、熊楠の居宅の隣に田辺市が建設した「南方熊楠顕彰館」で見ることができる。

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

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