セーヌ川の水が枯れることはない?
パリのセーヌ川は、ほとんど表情を変えない川だ。まず、流域の多くが乾燥した気候のため、大雨によって氾濫するリスクは少ない。また、どんなに晴れの日が続いても、そのゆったりとした流れが滞るわけでもない。雨が降らないと、川が枯れるのではないかという心配は、この大河には無用なのだ。
それは、セーヌ川の源流域には、ちゃんと雨や雪が降っているからである。しかも、セーヌ川は、船でさかのぼれるほど、流れが緩やかである。傾斜が緩やかだから、水源地で降った雨も、ゆっくりと流れ出る。そのため、水源に余裕ができやすいのだ。
また、セーヌ川は大河といえども、パリ市内の川幅は約150メートルと、さほど広くはない。川幅が狭いぶん、実際の流量は少なくても、たっぷりと流れているようにみえるのだ。
セーヌ川と正反対の川が多いのが日本である。山がちな日本には、さかのぼるのは不可能という急流が多いうえ、ほとんどの川は河口に行くほど川幅が広がっていく。だから、水源地で降った雨は、険しい地形に沿ってすばやく大量に流れ、海に流出する。
逆にいうと、険しい地形のおかげで、ヨーロッパの倍以上の降水量があっても、 処理できるというわけだ。
ピサの斜塔が倒れる心配はない?
イタリア・トスカーナ州の都市ピサといえば、ピサの斜塔で有名な町。古代ローマ以来の古い歴史を持つ都市である。
ピサは、とりわけ11~13世紀にかけて、海運で繁栄した。アラブ商人に対抗するため、ピサ共和国は船団を組んで出撃し、パレルモの海戦に勝利した。
それを記念して、1063年に建築がはじまったのが、ドゥオモ広場の中心に建つ大聖堂 (ドゥオモ)である。ピサの斜塔は、このドゥオモの鐘楼として建てられた。
ところが、地盤が軟弱だったため、工事中から傾きはじめた。そのため、工事は2度にわたって中断され、工期は200年にもおよんでいる。また当初の予定では、 鐘楼は高さ100メートルになるはずだったが、倒壊を恐れて、結局、約半分の55 メートルの高さに修正された。現在ではさまざまな対策がとられてきたので、今後 数百年は倒壊のおそれはないといわれている。
このほか、「ピサのドゥオモ広場」には、ガリレオ・ガリレイが振り子の法則を発見したと伝えられる大聖堂(ドゥオモ)をはじめ、洗礼堂や美しいフレスコ画が残る「カンポ・サント」などがある。
ドイツ国歌はどうして3番しか歌われない?
ドイツ国歌は、交響曲の父"として知られる作曲家ハイドンの弦楽4重奏曲『皇帝』の一節を使った格調高いもの。一方、歌詞には、アウグスト・ハインリヒ・ ホフマン・フォン・ファラースレーベンの『ドイツ人の歌』が採用されている。
19世紀前半、フランスやイギリスがすでに強力な中央集権国家を築いていたのに対し、ドイツは依然多数の王国や貴族領などに分裂していた。ホフマンは、ドイツ 統一を願って、この詩を書いたのだ。
ところが、その歌詞、現在では3番だけが歌われている。1番と2番の歌詞には、国歌にはふさわしくない点があると考えられるようになったからだ。
まず、1番の歌詞には「世界に冠たるドイツ」という一節がある。1930年代、ヒトラー率いるナチスは、政権を奪取すると、この部分をさかんに宣伝した。その後、ナチス・ドイツが第二次世界大戦で敗れると、この歌詞を歌える状況ではなくなった。
ならば2番から歌えばいいということになりそうだが、2番には「ドイツの女と酒は世界一」という一節がある。さすがに、これは国歌としては品がないということで、西ドイツでは一時ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章にあるシラー作 詩の『歓喜の歌』を国歌に採用していた。
しかし、1952年、西ドイツがオリンピックに復帰したとき、『歓喜の歌』に代わって『ドイツ人の歌』の3番が国歌に採用される。
そこには、当時、東西に分断されていたドイツ人の思いがこめられていた。3番には「統一と正義と自由を祖国ドイツに」という一節があり、これが当時のドイツ人の心情にマッチした。ベルリンの壁が崩れた翌年の1990年、東西ドイツは統一される。統一を歌った3番は、そのまま統一ドイツの国歌の歌詞となったのである。
16世紀の絵に、いまのトレドの風景が描かれている?
古都トレドは、スペインの首都マドリッドから、南へ70キロの場所にある。紀元前192年、ローマ人に征服されて以来、西ゴート王国、イスラム帝国、カスティリヤ王国の首都となり、16世紀に都がマドリッドに移されるまでの間、さまざまな 民族が入れ替わり支配した。そういう波瀾の歴史をもちながら、この都市では中世の街並みがほとんど破壊されていない。レンガ造りの家並み、石畳、アーチ橋が残る街並みを歩くと、まるで中世のテーマパークのなかにいるかのような錯覚を覚える。
いかにその街並みがよく保存されているかは、トレドを愛した画家エル・グレコの描いた作品と見比べれば、一目瞭然だ。彼は、16世紀に『トレド景観』という風景画を描いているが、そこに描かれた景観と、現在のトレドの景観はほとんど変わっていないのである。
ここまで、都市が形を変えずに残るのは、奇跡に近いことだが、その奇跡を起こしたのは、皮肉にも首都が移転したことだった。1561年、スペインのフェリペ 2世は、首都をトレドからマドリッドへ移した。これによって、トレドは繁栄の歴史に幕を下ろし、街はすたれていく。そのおかげで、街並みが大きく変わることなく保存されたのである。
やがて、その保存された景観が、観光客を呼び寄せる。すると、景観維持のため、建物の改修や増築を制限する条例が施行された。高さや色を制限する厳しい条例によって、中世の街並みが壊されずに残ったのである。
バイカル湖が手にした世界一の"称号”とは?
シベリア南西部にあるバイカル湖。国土の広いロシアにあるだけに、地図上では小さめに見えるが、面積は3万1500平方キロメートルと、琵琶湖の50倍もある。九州よりやや小さい程度と聞けば、その大きさがわかるだろう。最大幅は79キロあり、形は長くのびた三日月形をしている。
この湖は、世界一尽くしの湖として知られる。まず、今から2500万年前にできた世界最古の湖で、水深も世界一。さらに、全世界の淡水の20パーセント近くを貯えているというから、何から何までスケールが大きい。
「バイカル」とは、タタール語で「豊かな湖」の意味である。
その言葉どおり、世界最大の淡水湖であるこの湖は、ガラパゴスなどと並ぶ動植物の宝庫である。
なかでも、湖のシンボル的存在として知られるのが、バイカル・アザラシ。世界でただ一種、淡水に住む珍しいアザラシである。
本来、アザラシは、海水に棲む動物だが、バイカル・アザラシはなぜ淡水湖で暮らすようになったのだろうか?
昔、バイカル湖は、エニセイ川を経由して北極海とつながっていたため、海に住んでいたアザラシが、川を経てバイカル湖にやってきた。
ところが、時代とともに、エニセイ川の流れが変わり、北極海へつながる道が閉ざされてしまう。そのため、アザラシは、湖に適応せざるをえなくなったとみられている。
誰が全長120キロにおよぶハドリアヌスの長城をつくった?
「イギリス版万里の長城」とも呼ばれる「ハドリアヌスの長城」。イングランドの西海岸から東海岸まで、長さ118キロにおよぶ城壁である。かつて、古代ローマ帝国が、ブリテン島まで勢力を拡大した時期、広大な版図の北限に築いたものである。
ハドリアヌスは、領土視察のため、ヨーロッパを飛び回った皇帝で、122年、この地を訪れている。そして、自国軍の守備が手薄なのに気づくと、北方からの襲撃にそなえて、長城の建設を命じたのである。
だが皮肉にも、その堅固な長城が北方派遣のローマ軍の堕落を招くこととなった。高い壁に阻まれて平和な時代が続いたが、367年、ピクト人が城壁を破って攻め込んでくると、弛緩しきっていたローマ軍はたちまち敗退。こうして、300年以上におよぶローマ軍のブリテン島支配の歴史には幕が下ろされた。
城壁周辺には、ローマ軍の生活をしのばせる遺跡が今も数多く遺っている。 武器やテントのほか、ローマ式の建物や浴場、祭壇なども発見されている。温暖なローマから、気候の厳しいブリテン島に派遣された兵士たちは、異国の地でふるさとをしのび、郷土と同じような暮らしを営んでいたのである。
「地理」の楽しみを知りつくしたメンバーのみによって構成されている研究グループ。日本各地、世界各国を歩き、地図をひろげ、文献にあたり…といった作業を通じて、「地理」に関する様々な謎と秘密を掘り起こすことを無上の喜びとしている。