天才絵師・葛飾北斎が90歳で死ぬまで持ち続けた向上心の源泉とは

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七十年にも及ぶ画業人生で森羅万象を描ききり、三万点もの作品を残したと言われる葛飾北斎。彼の版画作品は明治になってヨーロッパに大量に移入され、ゴッホやゴーギャン、ルノワール、ガラス工芸家のエミール・ガレ、作曲家のドビュッシーなど、ヨーロッパの芸術界に多大な影響を与えた。そんな北斎が生涯において情熱を少しも失わなかったのはなぜなのか、仕事ぶりや暮らしぶりから追いかけてみた。

作者不明の絵を北斎作と断定

二〇一六年十月下旬、オランダから江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎に関するニュースが飛び込んできた。同国のライデン国立民族学博物館が所蔵していた、江戸時代後期にドイツ人医師シーボルトが日本から持ち帰り、これまで作者不明とされていた絵画六点について、北斎の肉筆浮世絵であると断定したと同博物館の研究員が発表したのだ。

その六点の絵画は、雪が降り積もる増上寺や富士山を望む日本橋など江戸の情景が、遠近法を取り入れた西洋の画風で描写されているのが特徴。あまりにも従来の浮世絵とかけ離れていたため、シーボルトの子孫が所有していた目録と照らし合わせるまで北斎の作品であることがわからなかったという。

このニュースからもおわかりいただけるように、北斎という絵師は、いつまでも一つの画法にこだわるのではなく、新しい画法を取り入れることに対し異常なほど貪欲だった。

ヨーロッパの芸術界に与えた多大な影響

そんな北斎が七十五歳のときに発表した、絵手本『富嶽百景』(初編)の跋文(あとがき)には、こんなことを書いていた。

「自分は六歳のころから絵を描いてきた。七十歳以前に描いた絵はどれもとるに足らないもので、七十三歳にしてようやく動植物の骨格や出生を悟ることができた。こののち八十歳ではさらに成長し、九十歳で絵の奥義を極め、百歳ともなれば神妙の域に到達、百十歳になれば一点一画が生きているように描けるはずだ」

百歳を超えても絵師を続けたいと宣言するだけでもすごいのに、北斎は百歳を超えたその後も絵師としてまだまだ成長したいと、七十五歳の時点で考えていたのだ。画業にかけるこの執念には頭が下がるというより、むしろあきれるばかりだ。

しかし、実際の北斎は数え九十歳で亡くなっている。百歳を超えても描き続けたいと願った夢は果たせなかった。本項では、この「百歳宣言」をしてから九十歳で亡くなるまでの十五年間、すなわち北斎にとっての晩年期の仕事ぶりや暮らしぶりを追いかけてみた。

売りに行こうとした絵を破られる

葛飾北斎は宝暦十年(一七六〇)、江戸は本所割下水に下級武士の子として生まれた(異説あり)。幼名時太郎、のち鉄蔵と称した。幼いころに幕府御用鏡磨師の養子となり、十代半ばで木版画の彫師に弟子入りする。本格的に絵を勉強したのは十九歳で勝川春章の門下に入り、春朗を名乗ってからである。

二十八歳のとき、修行の身でありながら師匠から禁じられていた自作の絵を絵草子屋に売りに行こうとして、途中で兄弟子の春好にみつかり、持っていた絵を破かれてしまう。当時、北斎はすでに所帯を持っており、身重の妻の出産費用をこしらえようとしたのだった。

いったんは途方に暮れた北斎だったが、お金欲しさに絵を描いた己の志の低さを反省し、以後数年間は七味唐辛子や暦などを売り歩いて生計を立てながら絵の修行に専念した。後年北斎は、「あのとき春好に辱められたことが、今の自分の原点」と正直に吐露している。

その後の北斎は、役者絵をはじめとして、狩野派、中国画、土佐派、西洋画などの垣根を越えて様々な画法を身につけ、それを役者絵や美人画、風景画、黄表紙(絵入りの読本)など幅広い分野で発揮した。

年代によって画号をいくつも使い分けたのも北斎ならではで、最初の勝川春朗から年代順に並べると、宗理、北斎、画狂人、戴斗、為一、卍──などがよく知られている。ほかの画号も合わせると、生涯で三十以上の号を用いた。これらの号ごとに画風は変化したという。

なぜこれほど画号を変えたのか、はっきりしたことはわかっていない。弟子に号を売って収入の助けにしていたという説もあるが、それよりも名を変えることで別人に生まれ変わり、新たな画風を追求したいと願ったからではないだろうか。

なによりも、「不染居」という画号を、間隔をあけて二度三度と用いたことでもわかるように、自分は誰の絵にも、自分の絵にさえも染まらず、つねに変化し続けたいと願う気持ちが北斎には強かったのであろう。

北斎の才能を受け継いだ娘お栄

北斎という人は六尺豊かな大男で、おまけに生涯を通じて大きな病気と縁がなかった。壮健な体に生まれついたことが、彼の画業にとっては大きな支えとなった。いつも焼酎をベースとした自己流の健康酒をちびちびとなめ、そのおかげか八十八歳のときには板元に「腕は萎えず、眼もよく見える」と自慢するほどだった。

北斎は二度結婚し、二男四女があった。男子は養子にやり、女子はさっさと嫁に出した。持ち家はなく、生涯に九十三回も引っ越しを繰り返した。基本的に掃除はやらないので、部屋が汚れたら引っ越す、を繰り返した結果である。

家の中に鍋釜、食器類はほとんどなく、食事はほぼ毎日近所の煮売り屋から取り寄せたご飯ですませていた。酒も煙草もやらず、大福餅を食べるか、夜中、寝る前に食べる一杯のそばが何よりも楽しみだった。

お金にも驚くほど無頓着で、板元からもらう画料を勘定したことがなく、煮売り屋が掛取りにやって来ると、板元が置いていった未開封の包みをそのままポンとほうり出すのがつねだった。

二度目の妻が亡くなって数年がたった天保三年(一八三二)ごろから、北斎は出戻り娘のお栄と二人で暮らした。北斎七十三歳、お栄は三十代半ばと思われる。六人の子供たちの中ではお栄が最も北斎の血を色濃く受け継いでおり、北斎の代筆をしていたと言われるほど絵が達者で、おまけにものぐさなところまで似ていた。そのため、親娘でごみの山に埋もれながら朝から晩まで絵筆を握っていたという。

このお栄は「応為」という画号を持っていた。北斎がいつも名前を呼ばず、「おーい」と呼んだことから、付いたものだ。性格は男勝り、容貌は馬面で顎が張っており、お世辞にも十人並みとは言えなかった。いったんは絵師をしていた男に嫁ぐが、夫の絵の不出来さをあからさまに指摘して、離縁されたのだった。

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現在の墨田区亀沢、錦糸町駅北口の生誕の地付近には「北斎通り」がある

訴訟に負けて江戸を追放される

北斎はこの二度目の妻が亡くなったあたりから、家族に関することである心配ごとができてしまう。それは、長女お美代がもうけた男児、北斎にとっては孫の存在だった。

北斎はこの孫を幼少期にはとてもかわいがったが、孫は成長するにつれ、博打にうつつを抜かすなど手におえない放蕩者となる。博打の借金で首が回らなくなると、そのつど北斎は尻拭いをしてやり、定職につかせようと骨を折ってもみるが、糠に釘で一向に不行跡は改まらなかった。北斎が年中お金に困る生活をしていたのは、この孫のせいだったとも言われている。
天保五年、つまり七十五歳になった北斎が『富嶽百景』の中で「百歳宣言」をした年だが、この孫の不始末が原因で北斎は町奉行所に訴えられ、敗訴してしまう。結果、江戸払いを命じられ、一時的に相模の三浦半島に閑居するはめに陥る。

やがて赦され、江戸に戻るが、北斎の制作意欲は一向に衰えていなかった。天保十年(一八三九)、八十歳のときには類焼にあい、それまで描きためていた大八車一杯分もの画稿を焼失するという悲劇に見舞われる。

さすがにこのときは気落ちしたが、それでもあきらめず、転居先では徳利を割り、それを絵皿にしてさっそく筆をとったという。

天保十三~十五年にかけては、かねてより北斎の絵に惚れ込んでいた信濃国(長野県)小布施村の豪商で儒学者、自らも絵筆を握った高井鴻山に招待され、専用に建ててもらった工房で制作活動にいそしんだ。

真正の画工を目指して

嘉永元年(一八四八)、浅草聖天町の小さな借家に引っ越す。北斎はすでに八十九歳になっていたが、精力的に制作を続け、翌二年には「雪中虎図」「雨中虎図」「富士越龍図」などの肉筆画の傑作をものにしている。

この「富士越龍図」が北斎の絶筆とされており、富士山の向こうに龍が天に向かって飛翔する光景を描いた一枚だ。自らの死を悟って描いたものだと言われている。

このころにひいた風邪が悪化し、北斎は床についてしまう。北斎は死の淵をさまよいながらも、

「天があと十年、いや五年の命をくれれば、真正の画工になれたものを……」
そう何度もつぶやいたという。

こうしてお栄の懸命の看病もむなしく、その年の四月十八日、北斎は九十歳で没した。この臨終の様子から北斎は自分のことを最後まで未熟な絵師だと思っていたことがわかる。

北斎の最期を看取った娘お栄のその後だが、数年後に絵筆を携えてふらりと旅に出、そのまま消息は途絶えてしまった。一説には北陸の金沢で亡くなったという。

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

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