“友達親子”は要注意! 子どもの精神を安定させる「親子の距離感」

友達親子

「友達のような仲良し親子」「子どもの欲求に応えられる親」。どちらも一見、子どもの発育に良さそうな気がします。でも、幼児教育者の虹乃美稀子さんによると、それだけでは子どもの精神は安定しないのだそうです。大人が子供を守り、導く存在であり続けるための秘訣を聞きました。

「うちはうち」のルールが子どもを精神的に守り安定させる

子どもを育てていると、誰もがぶち当たる壁はおそらく、「〇〇ちゃんも持っているから自分も欲しい」「〇〇くんもやっているから自分もやりたい」という子どもの欲求にどう応えるか、ということではないでしょうか。

他の子がみんな楽しんでいるモノやコトを、我が子が持ってなかったら仲間はずれにされるだろうとか、かわいそうだと思う親心は自然なものです。また、親の狭い考えで、子どもの自由を極端に縛ることも決してやってはいけません。

しかし、子どもにとって本当に有害であるもの、今はまだふさわしくないものを子どもから遠ざけることもまた、親の役目なのではないでしょうか。

みんなが隠れて飲んでいるのだからと、子どもがお酒を飲むのを容認する親はいないでしょう。しかしそれをきっぱり止められるのは、未成年がお酒を飲むことを法律で禁止されているからです。

法律が子どもを守る「壁」を作っているからこそ、誰も迷う余地がないわけですが、未成年者飲酒禁止法がなかった明治時代までは、その土地の慣習や習俗でハレの日などに未成年が飲酒することもありました。しかし法律がなくても、日常的に子どもが飲酒することがないよう、地域社会の不文律がありました。

現代は明治時代よりもずっと「個」が尊重され、それぞれがやりたいことを好きなだけやる自由が保障されています。

しかし一方で、外からの規制ではなく、内なる自制心を持って行動を制するあり方はみんな苦手になってきています。

本当に「自由」な人間は、外からの規制に頼らずに、内なる力で自分をコントロールできる人間です。それには強い意志の力が必要です。その力を育むためにも、子ども時代には大人が壁を作ってあげることが、時に必要なのです。

子どもはその壁に怒ったり、反抗したりするかもしれません。しかし、ぶつかる壁があるというのは、子どもの成長にとって幸せなことでもあります。 壁があるからこそ、子どもはこの広く混沌とした世界に秩序を見出し、自分自身の輪郭を確かめることができるからです。

私たちは周囲に壁がなければ、どこまでが自分の領域で、どこからが外の世界なのか把握することができません。なんでもやり放題、手に入れ放題は本当に「自由」な在りようでしょうか。手を伸ばしても、何かをつかもうとしても、どこまでも壁のない世界は孤独です。

「よそはよそ、うちはうちよ」

そう言ってもらえる子どもは、幸せな子どもです。大人が子どもの育ちをよく見ていてくれて、その責任をしっかり引き受けてくれているからです。そしていずれ子どもは、そうやって自分を守ってくれた親に対して、感謝するときが必ず来るでしょう。

「今日はこんなことあったよ」子どもの話を聞き出す前に、自分から

子どもの自我が芽生え始めてくると、急に我が子が理解できないように感じられてしまうお母さんも少なくありません。物思いにふけっているように見えたり、態度が「つんけん」としていたり。それまでの明るさが消えたように感じられるかもしれません。

子どもが自分から学校や友達のことなどを話す機会が減ってくると、ついつい「今日学校で何してきたの?」「誰と遊んだの?」と細かく聞きたくなってくるものですが、こんなときは無理に聞き出そうとせずに「今日はお母さん、こんなことあってね」と自分から話題を提供してみましょう。大きなトピックでなくてかまいません。

ゴミを出しに外に出たら、隣のお家から猫が飛び出してきたけどいつも見るのとは違う黒猫だったとか、仕事帰りの電車の中でおばあちゃんが乗ってきたから席を譲ってあげようとしたら、先に高校生のお姉さんが譲ってくれたんだよ、とかそんな他愛もない話です。

そこから派生して、自分の子ども時代の話に発展させてもよいと思います。お母さん、子どもの頃は猫は苦手だったんだよとか、一番最初に席を譲ったときの経験の話などです。

身近な大人の子ども時代の話を聞くことは、子どもにとっては新鮮であると同時に、一人の人間として歩み始めた子どもが、目の前の親密な大人もまた、一個人としてこの世界で、様々なことを感じながら生きているのだということを実感するきっかけとなります。

友達としての大人より、愛される権威としての大人になる

なんでもボーダーレスになっていく傾向がある時代なので、大人と子どもの世界もボーダーレスに。子どもに対しても友達のように振る舞う大人が増えました。

大人らしい大人がいなくなった、と言ったほうがわかりやすいでしょうか。

でも、いくら大人が子どもっぽく振る舞ったところで、子どもにとって本当の意味での友達にはなれません。子どもは「小さな大人」ではないからです。友達のように振る舞うことが、子ども自身を尊重していることにもなりません。時にそれは、子どもの前で大人としての責任を引き受けずにいる姿を見せていることにもなります。

学齢期の子どもにとって、大人が親しみやすい存在であることは、たいして大事なことではないのです。それよりも、「大人ってすごいな」と思われるような、見上げる強さ、頼れる安心感を持った、愛される権威であってほしいと思います。

なぜなら、幼児期を経て、少しずつ外の世界を知り始めた子どもたちにとって、大人は子どもを守り、導く存在であってほしいからです。

私は子どもたちに自分のことを「美稀子先生」と呼んでもらっています。自分のことも「先生はね」と言います。

でも、本当は自分のことを先生と呼ばれるほど、たいした人間ではないと思っています。自分の至らなさや未熟なところは、何か失敗したり恥ずかしい思いをしたりしたときに、身にしみて感じます。

私が学校を出て保育所に勤めるとき、母に最初に言われたのは「世間では、先生と言われるほどの馬鹿でなし、という言葉があるくらい。人様に先生と呼ばれる職業に就いた人間は、おごらぬようによくよく気をつけなさい」という言葉でした。まだ20歳そこそこだった自分にとって、この言葉はとても印象深く、ずっと大事にしてきました。

様々な教育現場の中には、指導する教師や講師を「先生」と呼ばせず、友達のようにニックネームや呼び捨てで呼ばせるところもあります。私もそのあり方は決して否定はしません。素敵な実践をやっているところも、たくさんあります。

では、どうして私は自分の園を立ち上げてからも、母の忠告を胸になお「先生」と呼んでもらうことを選んできたかというと、そうすることで「先生」であること、子どもの前に立つ、責任ある大人であることを自分が忘れずにいることができたからです。

「ミッキー」とか「みきこ」と呼び捨てで子どもに呼ばれていたら、つい大人であることを忘れて、自分の未熟な自我が顔をのぞかせてしまうかもしれません。子どもの前で心があぐらをかいてしまいそうで怖いからです。

そういう意味で「先生」という呼称は決して悪いものではありません。子どもにとって責任ある立場の大人であるということを、いつも自覚させてくれるからです。

「ありのままであること」がもてはやされる時代ですが、「ありのままであること」と「無責任であること」は違います。子どもの前に立ったときに、自分はこの子らにとって、逃れられない環境の一部としての大人であるという謙虚な気持ちを、忘れずにいたいのです。

 

PROFILE
虹乃美稀子

1973年生まれ、仙台市出身。 「東仙台シュタイナー虹のこども園」園長。シュタイナー幼児教育者。 公立の保育士として保育所や児童相談所に勤務後、シュタイナー幼児教育者養成コースに学ぶ。南沢シュタイナー子ども園にて吉良創氏に師事。2008年に私塾として、「虹のこども園」を開園。また東京をはじめ、全国各地で子育て講座やワークショップなどを開催している。

いちばん大事な「子育て」の順番

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