坂本龍馬の暗殺犯を「今井信郎」だと断定できるこれだけの理由

龍馬像といえば高知県の桂浜をイメージする人は多いが、円山公園(京都)にも坂本龍馬と中岡慎太郎が二人で並んだ像がある

龍馬像といえば高知県の桂浜をイメージする人は多いが、円山公園(京都)にも坂本龍馬と中岡慎太郎が二人で並んだ像がある

幕末の志士、坂本龍馬暗殺の黒幕ついては土佐藩説、薩摩藩説、紀州藩説、そして幕府説などさまざまあるが、万人を納得させる決定的な証拠・証言はない。龍馬に敵が多かったこと、混乱した幕末期だったことが理由だが、状況証拠からはある人物が実行犯だと見て間違いないという。その人物とは?

明治維新を呼び込む起爆剤に

坂本龍馬が暗殺されたのは明治維新を迎える一年前の慶応三年(一八六七)十一月十五日のことである。京都・四条河原町通り蛸薬師、土佐藩出入りの醤油商近江屋新助方において、盟友の中岡慎太郎と密談していたところを暗殺隊に襲撃され、中岡共々、落命する。

数え二十七歳で土佐藩を脱藩してから国事に奔走し、当時犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を結び付け、さらに、将軍徳川慶喜が大政を奉還するよう各所に働きかけるなど、龍馬の存在そのものが明治維新を呼び込む起爆剤となったことは間違いない。

西郷隆盛や桂小五郎(のちの木戸孝允)などと比べ龍馬はしょせん小者で、薩長同盟も中岡慎太郎の功績が大であって、龍馬は大した役割をはたしていないという説もあるが、けっしてそんなことはなかった。

明治を迎えてから語り出した生き証人

それが証拠に、慶応二年正月に交された薩長同盟の内容について、桂が六項目にまとめて、当日立会人をつとめていた龍馬に手紙で確認を求めたところ、翌月、龍馬が「表の内容に相違なし」と朱書きで返答してきた。

このことから、当時、一介の勤王の志士に過ぎない龍馬が薩長同盟の保証人的な立場をつとめるほど桂や西郷から信頼されていたことがうかがえるのである。

そんな倒幕の立役者であった龍馬は、明治の御一新を見ることなく、三十三歳の若さで凶刃に倒れた。暗殺犯の正体については当時から謎で、新選組説、西郷隆盛黒幕説、紀州藩説(「いろは丸」事件の報復)……など様々な説が入り乱れており、事件から百五十年がたった現在でも厚いベールに包まれたままである。

龍馬暗殺犯として今日もっとも有力視されているのは、佐々木只三郎が率いた「京都見廻組」である。当時から見廻組の関与が疑われていたが、決定的証拠はなかった。なぜなら、鳥羽・伏見の戦いに端を発する戊辰戦争において見廻組隊士の多くが戦死してしまい、「生き証人」がほとんどいなくなったからである。

ところが、明治の世になって龍馬襲撃に加わったという貴重な生き証人――かつての見廻組隊士が現れ、ようやく重い口を開いて真相を語り出したのである。

その旧隊士こそ、ここで紹介する今井信郎である。今井は一体なぜ何年もたってから龍馬暗殺の真相を語る気になったのだろうか。以下でそのあたりの謎に迫ってみることにしよう。

新選組とは反目しあった見廻組

今井信郎は天保十二年(一八四一)十月二十日、微禄の幕臣の家の長男として江戸は湯島天神下で生まれた。十八歳で直心影流剣術の榊原鍵吉道場に入門する。

今井はよほど身に合ったものか、めきめき上達した。今井の剣は師匠榊原ゆずりの豪剣で、あるとき道場破りにやってきた水戸藩士某を竹刀の一撃で殺してしまったこともあったという。

そんな今井は早くも二十歳で師匠から免許を受けると、講武所(幕府が設置した武芸訓練施設)の剣術師範を拝命する。

慶応三年、二十七歳になった今井は京都見廻組への入隊を命じられ、その年の十月、京都に入った。翌月の十一月十五日が龍馬の暗殺事件のあった日だから、京都に着任してすぐ事件にかかわったことになる。

京都見廻組とは、幕臣によって結成された京都の警察組織で、主に二条城(徳川家康が築城)の周辺地域を担当した。当時、同じ京都の治安を取り締まる組織として新選組がいたが、新選組は祇園や三条などの町人街・歓楽街を管轄としており、共同戦線を張ることはなかった。

むしろ、両者は反目しあっており、特に新選組には身分の怪しげな者が多かっただけに、見廻組は新選組のことを陰で見下していたという。

今井の供述によると、事件当日の深夜、見廻組与頭・佐々木只三郎の指揮の下、今井、渡辺吉太郎(吉三郎とも)、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵ら計八名が近江屋に向かったという。いずれ劣らぬ剣客ぞろいだった。

現場に到着すると、佐々木、渡辺、高橋、桂の四名が、龍馬と中岡がいる二階の八畳間に斬り込みをかけた。今井自身は一階で見張り役をしており、実際の襲撃には加わっていないと証言している。

「やったのは今井」と近藤勇が語る

見廻組隊士らは予定通り龍馬と中岡の両名に致命傷を与えると、京の市街地を一陣の魔風のように駆け抜け、闇の中へと溶け込んだのであった。

事件後、近くの土佐藩邸から谷干城(のちの明治の元勲)らが押っ取り刀でやってきて、血の海となった凄惨な現場をつぶさに検証している。その際、まだ絶命していなかった中岡が、苦しい息の下、

「襲撃犯の一人は、コナクソと叫んで斬りかかってきた」という意味のことを谷に証言したという。この言葉は四国・伊予(愛媛)地方の方言とされ、そこから新選組隊士で伊予出身の原田左之助の関与が疑われたりしたが、暗殺者が「コナクソ」と叫んだという話は谷の証言以外にはなく、谷の聞き間違えか、あるいは中岡自身が聞き間違えたのではないかという説が今日では有力だ。

さて、龍馬襲撃後の今井の行動だが、慶応四年、鳥羽・伏見の戦いに加わるも、敗北。いったんは江戸へ舞い戻ったが、すぐに各地で官軍と転戦し、最後は箱館(函館)戦争で降伏した。

明治三年(一八七〇)二月、今井は身柄を刑部省(司法機関)の東京・伝馬町にあった牢獄へと送られる。そこで、坂本龍馬暗殺の真犯人として厳しい尋問を受けることになった。

なぜなら、今井が降伏するよりも前に新政府軍に捕らえられていた新選組隊士・大石鍬次郎への取り調べにおいてわかったことだが、大石はかつて親分の近藤勇から「龍馬を殺したのは今井だ」と聞いたことがあり、その大石の証言が本当かどうか確かめようとしたのである。

佐々木只三郎の実兄が証言

この尋問で、真相に蓋をして隠し通すことに疲れたのか、今井は龍馬暗殺の詳細を証言した。それによると、龍馬襲撃はいかにも見廻組の仕業で、龍馬は前年に京都・伏見の旅籠寺田屋において幕吏を拳銃で射殺した天下のお尋ね者だった。

そこで、「公務」として龍馬を襲撃したものであって、なんら恥じることはない──と供述した。そして最後に、自分は見張り役であり、実際の襲撃には加わっていないと言い添えたのである。

この今井の証言を裏付けるように、明治三十七年になって、鳥羽・伏見の戦いで戦死した佐々木只三郎の実兄で旧会津藩士の手代木直右衛門(享年七十九)が、その臨終の枕元で長女に、

「龍馬を襲ったのは只三郎で間違いない。あれは暗殺ではなく公務だった。襲撃後、見廻組がそのことを公言しなかったのは、ひとえに見廻組を配下とするわれわれの殿さま(京都守護職・松平容保)に累が及ぶ恐れがあると判断したからだ」と言い残している。

臨終に際して嘘を言ったとはとても思えない。おそらく佐々木只三郎は、実の兄にだけは本当のことを知っておいてほしいと考え、あらかじめ直右衛門に真相を打ち明けていたのだろう。

その後の今井だが、禁固刑の判決を受け、静岡で謹慎するも、明治五年一月、突然赦免されている。その裏には西郷隆盛の助命嘆願運動があったと言われているが、本当かどうかは定かでない。

自由の身となった今井は、徳川家の転封先の静岡に移り、静岡城の敷地内にあった藩校を払い下げてもらい、私学校を開く。そこで、英語や数学、農業などを若者たちに教えた。しかし、軍事教練も行ったため新政府から危険視され、困った末にその学校を無償で県に明け渡してしまう。

地域の農業の発展に貢献する

明治十一年、今井は妻子を伴い、旧榛原郡初倉村(静岡県島田市)に入植した。そして、同十四年に設立された榛原郡農事会の会長に就任すると、茶栽培や農作物の品評会の開催、病虫害の駆除予防、動力農具の奨励など農事改良のための様々な施策を打ち出し、地域の農業の発展に貢献した。この会長職は明治三十四年まで二十年間もつとめている。

村政にも積極的に関与しており、明治二十二年に村会議員に初当選すると、同三十九年には初倉村長に選任され、三年間その座にあった。

今井がキリスト教信者になったのはこの初倉村時代で、きっかけは、村で栽培したお茶を横浜へ売りに行った際、たまたま海岸沿いの教会に入り、そこで説教を聞いて言い知れぬ感動を覚えたからだった。

その後、洗礼を受けると、かつてはその五体から常時漂わせていた無気味な殺気が次第に薄れ、温厚で誰に対しても穏やかに接するようになったと言われている。洗礼を境としてきっと何かが吹っ切れたのだろう。

明治三十三年(一九〇〇)五月、かつての刑部省での自分自身の証言を覆す、坂本龍馬暗殺に関する今井の衝撃的な回想談話が雑誌『近畿評論・第十七号』に掲載された。その回想談話の中で今井は、刑部省での取り調べでは重罪を恐れて自分は実行犯ではないと語ったが、龍馬を斬ったのは確かに自分の仕業で間違いない、と述べたのである。

この今井の証言に対し、谷干城は「売名行為である」と怒ったという。しかし、考えてみてほしい。このとき今井は六十歳と老境に差し掛かっていたのだ。静岡の片田舎で穏やかに暮らしている老人が、いまさら世間に名前を売って何の得があるというのだ。

龍馬を斬った刀を恩師に預ける

自分が龍馬暗殺の実行犯であるという今井の証言は、今井の妻いわの遺談によって補強されることになる。いわは、あの十一月十五日のことをはっきり覚えていた。

その日の朝、夫(今井)は桑名藩士の渡辺吉太郎と何事か密談していたが、そのうち連れだって自宅を出た。三日後に帰宅した夫の右手を見ると、親指と人さし指の間に深手を負っていた。いわがたずねると、夫は、

「坂本龍馬という者を斬ってきた。この刀を榊原鍵吉先生に渡したいので、その手配をしてほしい」と語ったという。

このときの龍馬を斬ったとされる今井の刀はのちに恩師榊原の手元に渡っている。榊原は「これが龍馬と中岡を斬った刀である」と誰彼となく見せて自慢していたそうだが、惜しいことに彰義隊と官軍が戦った上野戦争の混乱の中で消息不明になってしまったという。

こうした様々な人たちの遺された談話や供述から考えて、近江屋で龍馬を襲ったのは京都見廻組で、その実行犯の一人は今井信郎とみてまず間違いないようだ。

老境を迎え、敬虔なクリスチャンとなっていた今井には、事件の真相を自らの胸に秘匿したまま天国へ旅立つことが我慢ならなくなったのだろう。

大正七年(一九一八)六月二十五日、脳卒中により今井信郎は亡くなった。享年七十八。

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

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