江戸時代に寿司を“発明”した「華屋與兵衛」の知られざるその後

日本橋朝之景 東海道五拾三次(歌川広重)
江戸時代末期、当時の江戸の盛り場である両国で誕生したにぎり寿司だが、当時はいわゆる「ご当地グルメ」の一つにすぎなかった。それから二百年近くたった現在、てんぷらやうなぎ料理などと並んで日本を代表する食べ物と言われるまで発展を遂げている。この寿司を“発明”したのはいったい誰なのか? そのルーツと顛末を探った。

江戸に寿司ブームを起こす

今や「日本の寿司」の代表格であるにぎり寿司を創案した人物とは誰なのかご存じだろうか。諸説あるが、一般的には江戸の文政期(一八一八~一八三〇)に華屋はなや(小泉)與兵衛よへえが始めたものだと言われている。

当時のそれまでの寿司は、大坂風の押し寿司(箱寿司)が主流で、どうしても仕込んでから客に提供するまで数時間かかった。その点、與兵衛が創案したにぎり寿司は、あらかじめ煮たり醤油や酢で漬けたりしたタネを用意し、注文に応じて酢飯にのせてさっとにぎるだけでよかったので、これが気の短い江戸っ子に受けた。今日でいうファストフードである。

こうして一人のちょっとした発想によって生み出されたにぎり寿司は別名早寿司とも呼ばれ、またたく間に江戸の町々に広がった。幕末期のデータでは平均すると寿司屋は一町内に二つはあり、そば屋の数を上回るほどだった。

そんなにぎり寿司の創案者、華屋與兵衛とはいかなる人物だったのだろうか。残された少ない史料から見えてくる足跡と、にぎり寿司を世に広めたのち、彼がどうなったか以下で述べていくことにしよう。

タネには必ず味付けを

華屋與兵衛は寛政十一年(一七九九)、霊岸島(東京都中央区にあった旧町名)で福井藩出入りの八百屋の子として生まれたという。幼くして両親を流行病で相次いで亡くしたため、十歳になる前に蔵前の札差(米の受け取りを代行する職業)に奉公に上がっている。そこで二十歳ごろまで勤めるが、手代に昇進すると、仕事が華やかなだけについつい悪い遊びを覚え、無一文で店を飛び出るはめに陥ってしまう。

その後の與兵衛は、道具屋や菓子屋を始めてみたが、いずれもうまくいかなかった。そのうち、自分で創案したにぎり寿司を桶に入れて町々を売り歩く商売を始める。與兵衛がいつ、何をきっかけににぎり寿司を思いついたのかはわかっていない。

おそらく與兵衛は、当時の江戸の下町には各種の職人がたくさん住んでいたため、気の短い彼らが仕事場や銭湯からの帰りにさっと食べるのに、悠長な箱寿司は好まれないと直感したのであろう。

毎日、夜遅くまで働いたこともあって、この振り売りは当たった。やがて屋台を出すようになり、その後、文政七年(一八二四)には念願だった店を両国の回向院前に開く。数え二十六歳のときである。店の屋号は「華屋」だったが、一般には與兵衛寿司と呼ばれた。

店ではどんな寿司を出していたかというと、タネには江戸湾(いわゆる江戸前)で獲れた小肌、鯛、鯵、細魚、鱚、鯖、鮑、赤貝、烏賊、蛸、白魚、穴子、車海老などの魚介が使われた。これらを塩ゆでしたり、酒と醤油で煮たり、酢じめにしたり、炙ってから塩を振ったりと必ず味付けを施してから酢飯と合わせた。すりおろした山葵を使い始めたのも與兵衛が嚆矢とされる。

今日では寿司といえば鮪だが、與兵衛が店を開いた文政年間にはまだ庶民の間で食べられておらず、鮪が寿司ダネとして広まるのは次の天保年間(一八三一~一八四五)まで待たねばならない。また、酢飯には値段が安い赤酢が使われたため、飯がほんのり茶色をしているのが特徴だった。一個の大きさも現代のものと比べずっと大きく、おにぎりくらいあったという。

江戸前寿司以前は大坂風の「押し寿司」が主流だった

遠山の金さんに摘発される

このように、あらかじめタネに火を通したり酢でしめたりしたのは、言うまでもなく当時は魚介を冷蔵・冷凍保存する技術がなかったからだ。したがって、タネに味がついていたため、いちいち醤油をつけて食べる必要がなかった。

寿司を小皿の醤油につけて食べるようになったのは、氷式や電気式の冷蔵庫が出回るようになり、生鮮魚介を扱う環境が整い始めた明治時代も後期になってからである。

與兵衛寿司の成功で江戸の町々には同様の寿司屋が乱立した。

それに伴い、にぎり寿司はあっという間に江戸っ子の食べ物として認知され、格式のある料亭でもにぎり寿司を出すようになった。また、山っ気がある一部の寿司職人のなかには、高級料亭と見紛うばかりの豪奢な店を開き、相場の何倍もの値段で売る者まで現れた。

やがて、こうした江戸の寿司ブームに水を差す人物が現れる。「天保の改革」で名高い老中水野越前守忠邦である。水野は幕府の財政を立て直すため庶民にぜいたくを禁止し、禁を犯した者を町奉行の遠山景元(あの桜吹雪の金さん)にどんどん摘発させた。当然、にぎり寿司もそのやり玉にあがった。

江戸末期の市井事情を克明にルポした名著として知られる『守貞謾稿』には、この寿司屋の一斉摘発について「貴価の鮨を売る者二百余人を捕て手鎖にす」と短く記されている。つまり、不当に高く寿司を売った者二百人余りを捕縛し、手鎖の刑に処したというのである。

屋台では一個四~八文(現代の貨幣価値で一文は大体二十五円)で売られていた寿司が、高級店では五十~六十文、なかには二百文以上で売る店もあったという。この摘発された寿司屋の中に與兵衛もいた。天保十三年(一八四二)四月のことである。

手鎖の刑は、前に組んだ両手に瓢箪形の手錠をかけ、一定期間自宅で謹慎させる刑罰で、主に牢に収容するほどではない軽微な犯罪や未決囚に対して行われた。與兵衛以前に戯作者の山東京伝や絵師の喜多川歌麿もこの刑罰を受けている。

ところが、翌天保十四年閏九月、水野忠邦が改革の失敗の責任を問われ罷免されると、江戸の寿司屋は息を吹き返した。與兵衛寿司も江戸で指折りの名店としてその後も発展を続けた。とりわけ、芝海老の「そぼろ」を使った巻物や玉子焼きが評判を呼び、これを目当てに遠方から訪れる食通も多かったという。

安政五年(一八五八)、江戸に一大寿司ブームを巻き起こした立役者が亡くなった。享年六十。與兵衛が起こした店はその後、維新期を乗り切り、明治、大正と存続したが、関東大震災(大正十二年)が痛手となり、昭和五年(一九三〇)に廃業した。

 

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歴史の謎研究会

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