なぜ、ドミニカ出身のメジャーリーガーが多い?
野球ファンにとって、中米のドミニカ共和国はおなじみの国名である。
ドミニカ出身のメジャーリーガーは少なくないし、日本のプロ野球で活躍する選手も多い。
ドミニカがそれほどの野球選手輩出国となったのは、歴史的に野球との関わりが深く、国民的スポーツとして根づいてきたからといえる。
ドミニカで、初めて野球の公式試合が行われたのは、1886年(明治10 ) のこと。日本での初試合より10年遅いが、すでにそれ以前から、ボールを手で打つ遊びは広く行われていた。 プロ野球は、日本よりも12年早い1922年(大正11)にスタートしている。
ドミニカ出身のメジャーリーガーが初めて誕生したのは1956年のこと。ビルヒルという選手が、当時のニューヨーク・ジャイアンツからデビューした。
その後、経済的に恵まれない人々の多いドミニカでは、ベースボールでビッグマネーを手にすることを夢見て、野球に取り組む少年が増えていった。
さらに、1987年、ロサンゼルス・ドジャースが、現地に野球アカデミーを設立。現在では、メジャーリーグの全球団がアカデミーを設立し、ベースボールだけでなく、英語までしっかり教えて、アメリカへ選手を送り込むというシステムが整えられている。
サルガッソー海はなぜ「海の難所」といわれる?
大航海時代から「船の墓場」と呼ばれてきた海の難所の一つに、サルガッソー海がある。北大西洋のバミューダ諸島と西インド諸島の間にある海域である。
とりわけ、大航海時代(帆船時代)には、この海域に船が入った後、数週間も動けなくなって、水と食料不足におちいり、船乗りたちが全滅するケースが目立った。
無人となった船は、そのまま海域内をさまよい、やがて帆が腐り、マストが倒れ、ついにはフナクイムシに船体を食い荒らされて沈んでいった。実際、この海域には、多数の船が海底に沈んでいる。
サルガッソー海が海の難所となった原因は、「サルガッスム」と呼ばれる浮遊海藻にある。
アメリカ沿岸地域に大量に生えているこの海藻は、海を漂流する。大量の気泡を含んでいるために沈まず、海流に乗ってこの海域へたどりつくのだ。「サルガッソー海」という名も、この海藻に由来する。
サルガッソー海では、海流が回っているため、浮遊する海藻もグルグルと回り、海域内にとどまることになる。しかも、海海水が高温なので、海藻はさらに繁殖し、そうした海藻が蓄積した結果、海面は半液体状となる。だから、この海域は「粘りつく海」とも呼ばれている。
とくに、帆船の場合は、この海域に入ったときに風が止んでしまうと、もうアウト。帆船から蒸気船の時代になっても、船を動かすための外輪に海藻がからみつき、立ち往生するケースがあり、8世紀になっても、この海域は船乗りたちに恐れられていた。
仏領ギアナが「呪われた土地」といわれてきたのは?
南アメリカ大陸に残された唯一の 植民地、フランス領ギアナは、ブラジルの北方にある。面積は、ちょうど北海道ほどの大きさ。
1973年、スティーブ・マックイーン主演の映画『パピヨン』の舞台として世界的に有名になり、いまでも世界中から観光客が訪れる。
映画にも描かれていたように、フランス領ギアナは、昔から終身刑の流刑地として、「呪われた土地」と呼ばれてきた。
もともと、先住民インディオの暮らしていたギアナへ、フランス人がやってくるようになったのは17世紀のこと。その後、一時期オランダ、イギリスの植民地となったが、フランス領となっていた8世紀末、この地に牢獄が造られた。以来、20世紀半ばまで、政治犯を中心に終身刑を言い渡された囚人たちが、この地へ送られた。
受刑者たちは、熱帯モンスーンの過酷な気候のなか、植民地建設のための強制労働に従事させられ、バタバタと倒れていった。とくに、沖合にある流刑の島「デビ ルズ島」は、「悪魔の島」と呼ばれ、恐れられた。
1946年、ギアナは、フランスの制度上は、植民地から海外県に変更され、現在に至っている。赤道に近く、静止衛星の射ち上げに適しているため、フランス国立宇宙センターの発射場であるクールー宇宙センターが置かれている。
現在の人口は約3万人。住民は、ヨーロッパ系と、先住民やアフリカ系黒人の混血であるクレオールが大半を占める。国土の5分の4はジャングルで、住民のほとんどは海岸部に集中。農地に使える土地は乏しく、経済的には恵まれてはいない。
アマゾン川はかつては、太平洋に注いでいた?
世界最大の大河、アマゾン川は、南米大陸のアンデス山脈奥深くに流れを発し、 大西洋に注ぐ。その河口の川幅は250キロ(メートルではない!)にもおよぶ。
ところが、このアマゾン川、かつては南米大陸の東側、大西洋に注ぐ川ではなかった。南米大陸の西側、太平洋に注いでいたのだ。いまからおよそ2000万年前、中新世といわれる時代の話だ。
当時、アマゾン川の源流は、マナウスを中心とするアマゾン低地だった。そこに巨大湖があり、その水は大西洋ではなく、太平洋に向かっていたのだ。
西に流れることができたのは、当時はまだ、南米大陸を南北に走るアンデス山脈が存在していなかったから。南米大陸は平らな状態に近く、西側にさえぎる壁がなかったため、アマゾン低地の湖水は、西側の太平洋へと流れ、アマゾン川を形成していたのである。
しかし、その後、アンデス山脈の隆起が始まる。長い時間をかけて巨大な隆起が終わると、南北に5000~6000メートル級の山々が連なるようになった。アマゾン低地の水は、アンデス山脈に行く手を阻まれて、西には向かえなくなり、東へ流れはじめた。
やがて、アンデス山脈から流れ出る水が新たな川を開き、古くからあるアマゾン川と結びついた。そして、いまの巨大なアマゾン川ができあがったのだ。
どうしてチリの国土はあの珍しい形になったの?
国土は、世界的に見ても、特異な形をしている。東西の幅は平均200キロ以下なのに、南北の長さは約4300キロ。チリが、世界一南北に細長い国になった理由は、地形と歴史のなかにある。
まず、チリの国土を長くした地形的な原因は、南米大陸を南北に走るアンデス山脈にある。
大山脈が南米大陸を東西に二分し、山脈東側には広い大地が開けているが、西側は海に近く狭い。チリは、その狭い西側に建国したため、東西幅の狭い国になったのだ。
もっとも建国当初は、今ほど長い国ではなく、南北の長さは現在の半分以下の2000キロ未満だった。
チリの国土がより長くなるのは、1880年代前後からのこと。それ以前、現チリ国内のアカタマ砂漠とその周辺は、ペルー、ボリビアが支配していた。1879年、チリは、アカタマ砂漠に眠る硝石などの鉱物資源をめぐって、ペルー、ポリビアと戦う。この「太平洋戦争」にチリは勝利し、アカタマ砂漠周辺の一帯を手に入れた。
こうして、北方の領土を手に入れたあと、チリは南方の国境線を決定させていく。チリの南方はパタゴニアと呼ばれ、先住民がチリ政府に抵抗していたし、隣国のアルゼンチンもこの地域に関心を示していた。
そこでチリは、まず先住民の抵抗をおさえたうえ、アルゼンチンと折衝して、パタゴニアを領土に繰り入れることで、20世紀初頭、現在の南北にひじょうに長い国境線を確定したのだった。
標高3400メートルの地に首都・クスコをつくったのは?
といっても、16世紀にはスペイン人の侵略がはじまり、彼らはインカの建物は破壊し、その跡に住宅や教会を建てた。それらスペイン人による建物は、インカ建築で精巧な石組みの上に建てられており、これによってインカ様式とヨーロッパのコロニアル建築の融和した街ができあがった。それが、現在のクスコの街並である。
しかし、インカの石組みに使われた巨石のなかには、重さ数百トンのものもあり、そのような巨石をどうやって切り出し、運搬して積み重ねたかは、大きな謎となっている。
一説には、まず基礎壁を造り、その上に盛り土をしてプラットフォームをつくる。そこに、土と採石で斜道を築き、長い縄をつかって巨石を引っ張り上げたのではないかといわれる。斜道は完成後に取り除かれたという。
クスコは、スペインによる征服後、たびたび大きな地震に襲われた。その地震でスペイン人による建物は壊れても、インカの人々によって築かれた石組みはビクともしなかった。
「地理」の楽しみを知りつくしたメンバーのみによって構成されている研究グループ。日本各地、世界各国を歩き、地図をひろげ、文献にあたり…といった作業を通じて、「地理」に関する様々な謎と秘密を掘り起こすことを無上の喜びとしている。