鎌倉幕府が滅亡した主因は、日本初「男女平等の分割相続」だった

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鎌倉幕府二代将軍・源頼家像(京都建仁寺所蔵)
教科書的な説明では、鎌倉幕府が滅亡した要因は元寇の襲来とされている。しかし、その下地には意外にも鎌倉幕府独自の「相続制度」があったという。当時の状況から見ていこう。

元寇と後醍醐天皇の暗躍が幕府の命脈を縮める

源頼朝が開いた鎌倉幕府は、それから約百五十年たった元弘三年(一三三三年)、足利高(尊)氏と新田義貞の蜂起によって瓦解のときを迎える。この幕府は、その後の室町幕府や江戸幕府とは異なり、初代頼朝から頼家、実朝と創業家がわずか三代・三十年ほどしか続かず、それ以降の大部分はずっと別の一族(北条氏)によって実権を握られてきたという不思議な政権だった。

一体、なぜ鎌倉幕府は滅んだのだろうか。一般的には次の二つの説が有力視されている。二度にわたる元寇(蒙古襲来)で国が疲弊したこと。ついで、武家政権を徹底して嫌った後醍醐天皇の暗躍も軽視できないという。

しかし、もう一つ忘れてならないのが、当時の武家の相続制度が幕府を自滅に追い込んだとする説だ。はたして、日本史上、この時代にしか存在しなかった「分割相続」とはどんな相続制度だったのだろうか。

互恵関係に生じた綻びとは

分割相続について語る前に、この鎌倉時代に生まれた「御家人」という武士の身分について解説してみたい。御家人がわからなければ話は前へ進まないからだ。

平安時代、貴族や武家の棟梁に仕える者は「家人」と呼ばれた。鎌倉幕府が成立すると、将軍に拝謁を許され主従関係を結んだ武士は御家人と呼ばれるようになる。鎌倉将軍に対する敬意をこめて「御」を付けたものである。

御家人には武士出身者と文官出身者の二通りがいて、前者の代表例は千葉氏、三浦氏、小山氏など頼朝の挙兵に協力した一族が多かった。また後者は大江広元、三善康信、二階堂行政などである。

鎌倉幕府と御家人の主従関係は「御恩と奉公」という言葉で言い表される。すなわち、御家人になると「本領安堵」といって幕府から領地を公認してもらえたり、戦における功労者には恩賞として新しい土地がもらえたり、地頭(江戸時代の代官に近い)などの官職にありつけたりした。

さらに幕府は、御家人同士、土地の所有権をめぐって争いが起こると、大事に至らないうちにその争いを仲裁する役割も担っていた。これらが御家人にとっての「御恩」なら、その見返りとして戦時の軍役と、米や銭を税として幕府に納めることが御家人たちの幕府に対する「奉公」であった。

ところが、この鎌倉幕府と御家人の双方にとってありがたいはずの互恵関係にやがて綻びが生じ始める。発端となったのが、元寇である。

戦費の一切合切が自己負担

前述のように、元寇とは、元朝の初代皇帝クビライ・ハンが、日本を支配下におさめるため日本の国土に軍隊を送り込んできた事件で、一二七四年の「文永の役」と一二八一年の「弘安の役」の二度にわたって行われた。

二度とも、日本側に決定的なダメージを与えることなく、引き返していったのはご存じのとおり。

この二度の合戦で日本は国家意識を強め、鎌倉幕府のもと御家人・非御家人を問わず一丸となって戦った。ところが、戦が終わってみれば、参加した御家人たちは巨額の戦費負担をいかに返済するかという現実的な問題に直面することになる。

なぜなら、石塁(石の砦)などの防衛設備を含めた戦費の一切合切が自己負担だったからだ。御家人たちは元軍の三度目の来襲に備え、一段と防備を固める必要があったため戦費は膨らむ一方だった。

これが通常の合戦であったなら、御家人たちは主人から恩賞として戦に敗れた側の所領を分けてもらえたが、今回ばかりはそうはいかない。分け与える土地が無いのだ。

それなら幕府の実権を握る北条氏が自分たちの所有する厖大な土地の中から一部を割いて分け与えてもよさそうなものだが、それを行ったという事実はない。したがって、御家人たちはまったくのただ働きだったわけである。

代を重ねるごとに財産は先細り

元寇が起こる少し前から、市中には貨幣経済が浸透してきており、商人と違って現金を持たない御家人たちは現金を得るために、それまで「一所懸命」に守ってきた土地を手放す者が相次ぐようになっていた。しかも、そこに追い打ちをかけたのが、分割相続である。

鎌倉時代の財産相続のならわしは、子供たち全員で、庶子にも女子にも仲良く分け合うというものだった。全員に分配されたのは一族の結束を固めるためであった。庶子はわかるとしても、女子にも財産が相続されたことは興味深い。

この時代、現代のわれわれが想像する以上に女性の地位は高かったのだ。結婚後も名前を変えず、自分の財産は自分の財産としてしっかり管理した源頼朝の妻、北条政子はその典型だろう。

それはともかく、この方式だと代を重ねるごとに土地は細分化され、財産は先細りした。御家人としての義務である軍役さえままならなくなり、結果的に土地を手放す者が続出した。いわゆる無足の(禄の無い)御家人である。御家人たちが手放した土地は北条一族がどんどん買い漁り、まさに独り勝ち状態となった。

そのため、全国の御家人から幕府に対する不満の声が噴出するようになった。困った幕府は、総領だけが相続する「単独相続」に切り替え、しかも女子の相続は一代限りとし死後は総領に返還されるむね方針転換を図る。そんな幕府体制が大きく揺らぎ始めた状況下に勃発したのが、元寇であった。

御家人や民衆の心が幕府から離れる

外敵に対し幕府と御家人が一丸となって戦っている間はよかったが、元寇が終息すると、ただ働きに終わったということでまたぞろ御家人たちの幕府に対する不満が噴出するようになる。そこで幕府は徳政令(「永仁の徳政令」=一二九七年)を出し、御家人を救済しようとした。

これは早い話、御家人たちが手放した土地は無償で返還されるという無茶苦茶な法令だった。この法令によって土地を買った者は大損することになり、結果的に御家人に金を貸す者がいなくなったため、御家人たちの生活はいよいよ困窮の度合いを深めることとなった。

こうした相次ぐ失政により、御家人や民衆の心は幕府から離れていき、やがて幕府の崩壊――建武の新政へとつながっていくわけである。

 

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