「大きく見せたい」という意識が利用される
会社の先輩や同僚と飲み屋で話していて、自分の知らないことが話題になる。よくあると思いますが、そんな時皆さんはどうしていますか? 本当はよく知らないのに、知っているようにとり繕うこと、あるのではないでしょうか。
「それ知りません。教えてください」という言葉、私たちはなかなかいえません。馬鹿にされたくないとか、低く見られたくないという意識は誰にでもあります。逆にいうなら、自分を大きく見せたいというのは本能に近い。鳥などが羽を広げることで大きく見せて威嚇するのと似ています。
人間の「他人から評価されたい」という願望は、言い換えると「優越欲」になります。他人よりも自分は勝っている、優越しているということを示したいわけです。知らないということは他者より劣っていることを認める行為でもありますから、どうしても「知ったかぶり」してしまう。
ただし、これは人間の本性というだけでなく、いまの競争社会がつくり上げている部分も大きい。資本主義の世の中は基本的に自由な競争が前提になっていますから、競争して勝ったものが上に行き、権力や富を得ることができる。その競争の中で、少しでも自分を大きく見せる必要が出てくるわけです。
京都大学医学部出身で少年院の監察医として働いている岡田尊司先生が、『マインド・コントロール』(文藝春秋)という本で非常に面白いことをいっています。
少年院で少年犯罪を見ていると、ある共通点があることに気がつく。カルトとか暴力団とか暴走族に入って法を犯す人の多くが、そういう組織の中である種のマインドコントロールを受けているというのです。
というのも、そういう組織には独自のルールができあがっていて、そのなかで評価されるために自らすすんで犯罪的な行為に走るという構図がある。
たとえば証券会社や不動産系の会社では、マインドコントロール的な要素がかなり高いと想像できます。個人の成績をグラフにして張り出し、成績のいい人と悪い人がひと目でわかるようにする。競争意識を刺激しながら、毎朝社訓や目標を大声で唱えたり、成績優秀者を皆で讃えたりといった一種の儀式を行う。
そんな中にいると、次第にそのルールの中で少しでも上に行くことが全てのような感覚に陥ってしまい、これが極端になるとブラック企業のようなものにつながる可能性もある。いまのビジネス社会そのものに、マインドコントロール的な部分があるわけです。
ポイントは、自分を大きく見せたいという意識が強い人ほど、このカラクリにすっかりはまってしまうことです。コントロールする側が仕掛けた評価制度や競争原理によって、まるで車輪の中のモルモットのように延々と走らされ続ける。
私たちの社会には必ず何らかの階層があり、そこで這い上がっていくにはそれなりのルールや評価体系、制度があります。社会というものが本質的にそういうものである限り、私たちはマインドコントロールから完全に自由であることは難しいかもしれません。
ただし、そういうものにどっぷりと浸るのではなく、引いた目線でそのカラクリを認識しておく。どこか冷めた目で世の中を客観視し相対化することが大事です。
そういう目線を持っていれば、極度に自分を大きく見せようとする意識も多少和らぐのではないでしょうか。優劣意識から離れてしまえば、知らないことを知らないといえるようになる。飾らず、ありのままの自分をさらけ出すことに抵抗感もなくなってくるはずです。
『吾輩は猫である』に見る近代社会の「飾り」
競争社会が自分を大きく見せたいという意識と関連していることは、近代以降の社会の変化と大いに関連があります。近代以降、封建的な社会から民主主義、自由主義の社会に転換していくわけですが、これによって身分制度が廃止され、社会がフラット化したことが大きい。
西欧でも日本でも、身分制度がしっかり存在している封建的な時代には、自由は限られていたものの競争意識はそれほど強くなかった。そのような時代は身分によって話す言葉も違っていたし、立ち居振る舞いも服装も決まっていました。
たとえば、英語では「レディース&ジェントルマン」とレディの方を先に呼びます。なぜジェントルマンよりもレディが先なのか。単にレディファーストの国だからと考えがちですが、実は身分の違い。レディの階級は「lord」で、ジェントルマンの語源になった「gentry」より身分が上なんです。だから先に呼ぶわけです。
日本でも江戸時代は身分によって違いが明確でした。町民は基本的に帯刀が許されませんでしたし、たとえ許されたとしても二刀差しはできず一刀まで。服装や行動が細かいところまで決められていたのです。
こういう社会では、その身分を超えて自分を飾り立てることはできません。また、そうやって目立つ必要も今よりはるかに少なかったと想像できます。競争のないスタティック(静的)な社会では、自分を必要以上に大きく見せたり飾ったりすることはないのです。
ところが近代になって身分制度が廃止されて社会がフラットになった時から、社会はダイナミック(動的)なものに変質します。身分制度がないということは、自分の存在感を示すために自分を大きく見せる、飾ることが重要になってきます。
同時に競争意識も生まれてきます。福澤諭吉は『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』と平等主義を謳いましたが、同時に学問の大切さを説くわけです。つまり身分に関係なく学問を修めたものが上に立って国や社会を引っ張っていく。
これを言い換えると、身分ではなく学問によって優劣をつけるということなので、義務教育のもとで全国民を巻き込んでの学問の競争がここから始まった。福澤諭吉の言葉は、学歴社会や偏差値社会といった競争社会の大元だともいえるわけです。
つまり社会がフラット化する、自由になるということは、それだけ競争原理がはびこることに他なりません。
職場でのハッタリは命とり
とはいえ、自分を大きく見せるのは私たちの本能的な行動でもある。人間の男性だって、女性に対してはできるだけ自分を大きく見せようとします。いまでこそワリカンも多いのかもしれませんが、僕たちが20代30代のころは、デートでは男性がお金を払うというのが当たり前でした。学生時代などは男性だってお金がないのに、なぜか無理して高い店に行き、なけなしのお金を払う。
見栄や体裁、ハッタリだといえばそれまでですが、女性の関心を引くためには、多少の無理も必要になる。それがまた人生の経験になったりするんです。女性もまた男性の関心を引こうと化粧したり着飾ったりすることが日常になっています。異性に対するハッタリや飾りは必要だし、ご愛敬。それがあるからこそお互い刺激し合い、恋愛が生まれる。
ただし自分を飾ることが許容される場と、されにくい場があります。特に職場でのハッタリや飾りは長くは持ちません。自分を大きく見せようとすることはマイナスになることが多く、時には致命傷になるので十分気をつけましょう。
仕事は結果が求められるので、どんなに自分を飾って大きく見せても、時間がたてば必ず結果として自分の実力が明らかになる。メッキは必ず剥げるんです。その時自分を大きく見せていればいるほど、「何だあいつは、嘘つきだな」ということになる。
いったんそういうレッテルが貼られると、なかなかとり返すのは大変です。仕事のうえでは自分を飾らずに、わからないことはわからない、知らないことは知らないと正直にいう。できることとできないことを自分の中で明確にしておく必要があります。
成長できる人は、自分の周りにいざという時に助けてくれる人をたくさん持っている。自分の部署だけでなく、他部署にまで相談やお願いをできる味方がいるかどうか。
なぜそういう味方がたくさんできるかというと、そういう人は変に自分を飾ったり、大きく見せようとしたりしません。「僕はこれがわからなくて、○○さん教えてください」とか、「○○さんの力がどうしても必要です」とか、上手に甘えることができる。
人は他人から頼られて悪い気はしません。それを突っ張って自分を実力以上に見せようとしていては、味方になってくれる人も敵に回してしまいます。
仕事や職場で、自分を大きく見せようとすることは、いろいろな意味で損をすることの方が多いと断言できます。
自分の〝根っこ〟はどこにあるか
人の世はたしかに虚と実のせめぎ合い。飾ったり飾られたりの中での駆け引きの世界だと思います。特に近代から現代、民主主義によるフラットな社会において、競争原理の中で生きなければいけない私たちは、時には自分を飾ったり、大きく見せたりして生き抜いていかなければなりません。
だからこそ、本当に飾らない関係というのは貴重です。あなたには、プライベートで飾らないでつき合える相手、素のままでつき合える相手がどれくらいいますか?
その相手は彼女や奥さんだったり、親友だったりするでしょう。あるいは、行きつけの飲み屋などでは飾らない自分を出せる。そんな時間や空間があるのはとても大切です。
その束の間に、僕たちは自分の窮屈な衣を脱いで、素の自分に立ち返ることができます。心の母港みたいな存在、関係はやっぱり大切ですよ。そういう存在は一人か二人、多くて片手でしょう。それ以上いたらきっと水増しになっています。
結局、自分の人間としての“根っこ”はどこにあるのか、国や民族、故郷や家族、信条や哲学……。軸がはっきりしているからこそ、虚と実のはざまでどんなに揺れ動いても次第に自己が確立できる。
私の場合はやはりキリスト教という宗教、そして神学という学問の存在が大きい。自分自身の根っこをそこにおいているからこそ、いざとなった時に素のままで相手に向き合えるのだと思います。
みなさんの根っこがどこにあるか、ぜひ自分に問いかけてみてください。
1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞