楽市楽座は必然!? 信長が織田一族から受け継いだ“経済”という視点

愛知県清須市の清洲公園内には「信長公出陣の像」がある

愛知県清須市の清洲公園内には「信長公出陣の像」がある
世の中に大変革をもたらした偉人というのは、突然天から舞い降りてきたような印象がある。その最たる人物が、戦国期に天下統一を目指した織田信長だ。その覇業はあと一歩で頓挫したが、実は信長も一代であれほどの活躍を為したわけではない。そこには彼の祖父と父、二代で敷いてくれたレールや見えない“遺産”があったのだ。あまり知られていない織田信長一族の歴史、父祖の事績について語っていこう。

信長のルーツは越前にあり?

織田氏の先祖についてだが、最初に言ってしまうと、諸説あって定まっていないのが実際のところだ。その中でも有力な説を紹介しよう。

まず、平氏説。これまで織田氏の先祖は江戸時代に書かれた「織田系図」によって、平氏と信じられてきた。平清盛の孫で、壇ノ浦の戦いで戦死した平資盛の遺児が近江国津田郷に隠れ住み、親真と称した。この親真が織田氏の祖で、その後親真は越前国織田荘に移り、その子孫が織田姓を名乗ったという。

しかし、この織田家の系譜は近年では創作と考えられている。福井県越前町の法楽寺という寺院から親真の墓石の一部がみつかり、そこに親真の死亡年月日が刻まれていたことを平成二十三年(二〇一一年)十一月、福井県越前町教育委員会が発表した。墓石には正応三年(一二九〇年)二月十九日とあった。すると織田氏──平氏説が正しいとするなら親真は百年以上も長生きしたことになり(系譜では親真は五十四歳で亡くなったことになっている)、一気にこれまでの平氏説に疑惑の目が向けられたのである。

ほかの説として、信長が生前「藤原信長」を名乗ったことがあるところから藤原氏説、さらに越前国織田荘の劔神社(通称・織田明神)はこの地方の豪族・伊部氏(忌部氏)の氏神であったところから忌部氏説などがあがっているが、いずれも裏付ける史料が乏しく、決め手に欠くようだ。

織田家系図

足利氏の有力一門の傘下に入る

ただし、信長の先祖は織田荘の荘官を務めていた豪族であって、劔神社とも深い関係があったことは事実らしい。それを裏付けるのが、信長が越前の朝倉義景を滅ぼした後、劔神社に対し手厚い保護を約束していたことだ。さらに、信長の家臣・柴田勝家の書状にも「殿様(信長のこと)、御氏神、粗相仕るべからず」とあり、信長自身、織田荘を一族誕生の地として認識していたことがよくわかる。

そんな越前の一豪族であった織田氏は、やがて越前守護・斯波氏に仕えるようになる。斯波氏は室町幕府将軍・足利氏の有力一門であり、畠山氏・細川氏とともに管領(将軍の補佐役)を出す家柄、特に三管領筆頭の家柄として重んじられていた。当時の斯波氏は全国各地に支配地を持っていたが、応永七年(一四〇〇年)に尾張国(愛知県西部)の守護も兼ねると、織田氏も尾張に移住した。

その三年後、織田常松という人物が尾張守護代(文字通り守護の代官)に任ぜられ、以後、織田一族が代々守護代を継承するようになった。やがて応仁の乱が勃発すると、織田氏の主君である斯波氏は家督争いが原因で東軍・西軍に分かれて対立した。織田氏もまた「岩倉織田氏」(伊勢守系)と「清洲織田氏」(大和守系)に分裂し、岩倉城を居城とする岩倉織田氏は尾張上四郡を、清洲城を本拠とする清洲織田氏は尾張下四郡を支配するという構図ができ上がってしまった。

織田家ゆかりの地

信定、「経済力」を手に入れる

この大乱によって斯波氏は没落するが、一方で織田氏の中から突然、とある人物が頭角を現してくる。その人物こそ、清洲織田氏の一族とされる三奉行家(織田藤左衛門家、同因幡守家、同弾正忠家)の中の弾正忠家の織田信定、すなわち信長の祖父である。

信定は人一倍の野心家で、若いころから主家である清洲織田氏からの独立を狙っていたという。そんな信定が、思いきった行動に出たのは大永四年(一五二四年)のことだった。主家の制止を振り切り、かねて目をつけていた港町・津島をわがものとし、その近くに勝幡城を築いたのである。

津島は清洲の南西方に位置し、今でこそ内陸にある町だが、当時は木曽川の支流沿いにあった大きな港町で、川を下ればすぐ伊勢湾に出ることができた。鎌倉時代からこの地方の水運の拠点として栄えており、さらに津島神社の門前町としても繁栄を謳歌していた。この時代には泉州・堺のように有力者(町衆)による自治権が認められていたのも大きな特色で、まぎれもなく尾張地方最大の商業都市であった。

信定は家来を集め、電光石火、町に火を放つなどしてこの津島を武力で制圧してしまったのである。信定もまた戦国乱世の申し子だった。津島を支配下に置いたことで経済力がつき、信定が息子の信秀(信長の父)に家督を譲ったころには、主家をもしのぐ勢力を誇っていたという。そして、その勢力をさらに盤石なものにしたのが、信秀の功績だった。

商工業の発展に尽力

織田信秀は永正八年(一五一一年)、信定の嫡男として誕生した。十七歳で家督を相続している。信秀はその生涯を終えるまで一貫して主家・清洲織田家への臣従関係を維持しながらも、強大な周辺勢力(美濃の斎藤氏や駿河の今川氏)に対抗して一歩もひかず、領土を守り通した。

軍事面ばかりではなく、信秀は支配地の商工業を発展させることにも熱心だった。こうして蓄えた潤沢な経済力を生かして朝廷や室町幕府に対し破格の献金を行った結果、従五位下備後守に任官されてもいる。中央との関係を築いておくことが、のちのちわが身のためになると計算が働いたのであろう。

この信秀、「尾張の虎」と呼ばれたくらいだから、なかなかの謀略家でもあった。それを裏付けるこんな逸話が伝わっている。尾張国那古野にあった那古野城(名古屋城の前身)を奪い取ったときの話だ。

当時、この城は今川氏親の子の氏豊(今川義元の弟)が守っていた。連歌好きの氏豊は対立関係にあったとはいえ同好の士である信秀を頻繁に招いては連歌の会を城中で催した。

天文元年(一五三二年)三月某日にも信秀は会に招待されている。このとき途中で信秀はいかにもつらそうな表情で気分が悪くなったと氏豊に申し出たため、氏豊は心配して城に泊まっていくように勧め、信秀の急変を勝幡に伝達する親切さもみせている。これが氏豊の一生の不覚だった。

信秀、四十二歳の若さで燃え尽きる

主の見舞いと称して那古野城に入ってきた信秀の家来数十人が、突然牙を剥いて氏豊の家来に襲いかかったから堪らない。すっかり油断していたところだったので、城内は上を下への大混乱をきたし、氏豊は這這の体で城外に脱出した。こうして信秀はほとんど味方の損害を出すことなく、那古野城を奪取することに成功したのである。

これにより信秀は那古野方面にまで勢力を伸ばすことに成功し、わけても宿場町の熱田を手に入れたことで、津島に次ぐ経済的重要拠点が加わり、信秀の弾正忠家は財政が一層盤石なものとなった。

この那古野城奪取から二年後、信長が生まれている。そのときすでに信長の上には二人の兄がいたが、待望の正室の腹から誕生した男児だっただけに信秀の感激もひとしおだった。信秀は思わず「ますらお生まる!」と叫んだと伝わる。

その後、信秀は天文二十一年(一五五二年)、四十二歳で病死する。信長はこのとき十九歳。信秀の葬儀は織田家の菩提寺・萬松寺で執り行われた。葬儀のさなか、信長は父の位牌に向かって抹香を投げつけるという暴挙に出ている。信長にすれば、父がこれほど早く亡くなったことが、許せなかったのだ。おそらくこのときの信長は、人の運命のはかなさを呪い、自分だけでも人生を一瞬も無駄にすることなく、燃え尽きるまで思う存分好きに生きてやろうと胸に誓ったに違いない。

経済力が一族発展のカギ

家督を継いだのちの信長だが、彼にとっては主家に当たる清洲織田氏を断絶に追い込むと、ついで尾張半国を支配する岩倉織田氏をも滅ぼし、尾張全土を統一する。こうして信長は織田一族の庶流から出て、晴れて一族の盟主の座に駆け上がったのである。それは永禄二年(一五五九年)、信長二十六歳のときで、桶狭間の戦いの一年前のことだった。

ここまでみてくると、この織田三代に共通していることがあるのに気付く。それは、当時の戦国武将には珍しく、そろいもそろって経済や商工業を重要視した点だ。彼らは一族の勢力拡大をはかるためには、なにを差し置いても経済力を増強させることが肝要であると考えていたのだ。

信定と信秀が真っ先に津島や熱田を支配下においたことがなによりの証である。父祖二代のこの経済政策重視の考え方はそのまま信長に受け継がれた。信長が戦国武将の中でもいち早く楽市楽座を導入したのがその典型だ。また、信長軍の幟には永楽銭が描かれていたという事実からも信長が経済を重要視していたことがよくわかる。

信長は、父祖の治政を身近に感じながら成長し、そしてそれを自分なりに発展させたからこそ、天下統一事業に突き進むことができたのである。

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

日本史の真相に迫る 「謎の一族」の正体 (青春文庫)