水戸と彦根、会津と長州……今もひそかに遺恨を抱くライバル都市

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会津若松市のシンボル「鶴ヶ城」。戊辰戦争では約1カ月におよぶ激しい攻防戦に耐えた
明治維新から150年以上。すでに当時の出来事は歴史の1ページにすぎない……かと思いきや、今も当時のわだかまりが残っている“ライバル都市”があります。当時の状況と、現在の和解に向けた動きを見ていきましょう。

水戸と彦根――国政をゆるがした名門同士の深い因縁

1853年(嘉永6年)にペリーが来航してから、日本国内は混乱の時代を迎えた。彦根藩主井伊直弼が大老になり開国を実施したが、尊皇攘夷を唱える水戸藩などがこれに反対した。井伊は幕政に反対する者たちを捕らえる「安政の大獄」を断行した。

多くの処罰者を出した水戸藩の関鉄之介らは、脱藩したうえで1860年(安政7年)3月3日、上巳の節句で登城する井伊の行列を桜田門外で襲撃し暗殺した。

この桜田門外の変で藩主を暗殺された彦根藩が水戸藩を敵視したのは当然だが、実はそれ以前から両藩の間には確執があったのだ。

1808年(文化5年)4月、江戸川を航行する井伊家の船と仙台伊達家の船の間にいさかいが起き、伊達家の水夫が井伊側に捕らわれてしまった。伊達家はそこへ通りかかった水戸家の船に助けを求めた。

水戸家は井伊側から伊達家の水夫を奪還してやったが、水戸家が御三家風を吹かせたことで、戦場では先陣を約束されているという自負のある井伊家は強い遺恨を持つようになった。

1811年(文化8年)には剣客を雇って水戸家の船に斬り込ませるという事件があり、彦根藩主の井伊直中は隠居を命じられ、直弼の兄直亮が家督を継ぐようになった。

1829年(文化12年)に、水戸家8代藩主斉脩が病で倒れると、水戸支藩の高松松平家の当主頼胤が水戸本家を継ぐ意思を見せた。

頼胤の弟で養嗣子になっていた頼聡の妻は、井伊直弼の娘千代子である。井伊家は頼胤を支援して水戸藩主に就けるように行動した。だが、斉脩の遺書が発見され、そこには後継者を弟の斉昭とするとあり、井伊家の努力むなしく斉昭が水戸藩主になったのだ。斉昭は将軍継嗣問題と開国問題で井伊直弼と対立し、それが桜田門外の変につながる。

斉昭は桜田門外の変後に急逝したが、斉昭の藩政改革を支えた下級藩士は天狗党と呼ばれ、保守派と戦闘になるほど激しく対立した。

1864年(元治元年)に天狗党は暴走して筑波山で挙兵したが、京に滞在する斉昭の子である一橋慶喜を通じて、朝廷に尊皇攘夷の信条を達したいと京を目指した。

武田耕雲斎率いる天狗党は幕府軍の追撃を受けながら中山道を西に向かったが、水戸藩に一矢を報いたい彦根藩などが行く手を阻んだ。そのため敦賀に向かうも加賀藩に降伏した。

過酷とされる安政の大獄でも死罪は8人だったが、天狗党は352人が死罪になった。水戸藩内部にも天狗党に対して否定的な意見は多かったが、武士として切腹することも許されず斬首された。

こうした深い因縁はその後も解消されることはなく、時代が変わっていった。敦賀市と水戸市は、天狗党の処刑から100年後の1965年(昭和40年)に姉妹都市の提携を結んだ。そして桜田門外の変から108年たった昭和43年、明治100年を機に敦賀市の仲介で彦根市は水戸市と正式に和解して親善都市となり、各分野で親善が図られている。

会津と長州――今も解消されない幕末からの遺恨

会津藩は三代将軍家光の異母弟である保科正之が藩祖で、宗家の将軍家を大切にする家風だった。幕末まで会津藩に際立った動きはなかったが、大老井伊直弼が水戸藩士に暗殺される桜田門外の変が起こると、彦根藩士は水戸藩への報復を叫び、井伊の後押しで将軍になった家茂も水戸藩へ尾張藩と紀州藩の兵を出そうとした。

だが、会津藩主松平容保が使者となって幕府と水戸藩のいさかいを収拾したことから幕閣に注目された。

将軍家茂の上洛にあたって、幕府は京の治安維持に京都守護職を新設した。越前の松平春嶽は「その任は将軍家大切の家風の会津藩が適任」とし、執拗に就任を依頼。会津藩は芝を背負って火中に飛び込む格好になった。

京では長州藩が政治的な工作をして朝廷を主導していたが、容保は複雑な京都政界で政治的な動きはせず、誠意をもって対処しようとした。そんな容保の誠実さは孝明天皇から愛された。

容保は藩士に犯罪者の捕縛をさせるのはしのびないと苦慮していたが、幕府が将軍上洛に合わせて急遽組織した浪士組の近藤勇らが庇護を求めてきたことで、非常警察隊の「新選組」を組織させた。

過激に行動した長州藩は京を追われた。失地回復を図る長州藩士を中心とする攘夷派志士らは池田屋に集結し、騒乱を起こす企てをした。それを探知した新選組が1864年(元治元年)6月に池田屋を襲い多くの志士を斬った。その結果、長州藩の尊王攘夷派志士たちは新選組の後ろにある会津藩に恨みを集中させていく。

1868年(慶応4年)1月、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が薩長軍に敗れる。新政府軍を指揮する西郷隆盛は「革命には血が必要」として、松平容保、会津藩を「賊軍」とした。奥羽越の諸藩は会津藩に同情して同盟を結成したが、新兵器を装備した薩長を中心とする新政府軍に敗れ、籠城した会津藩も降伏した。

薩摩藩には戦いが終われば以後の罪は問わないという武士道的考えがあったが、長州軍の主力は本来は武士ではない奇兵隊であった。会津若松市の各地に会津藩士の死骸が散乱していたが、長州隊士らはその埋葬を許さず、放置させることで報復していた。

以後、会津藩士は下北半島へ転封するなどして苦労を重ね、「薩摩は許せても長州は許せない」と恨みを募らせていった。

「1864年(元治元年)の蛤御門の変で長州藩は『朝敵』になっていた。孝明天皇から頼りにしているという内容の宸翰を二度も受けていた松平容保に、『賊』の汚名を着せたことが許せない──」と憤慨する会津若松市民も多いのだ。

2007年(平成19年)4月、山口県出身の安倍晋三首相(当時)が「先輩がご迷惑をおかけしたことをおわびしなければいけない」と発言した。さらに近年、会津若松で埋葬禁止したことを覆す史料が発見されたというが、会津人が長州人を嫌うことは根深い。

過去に山口県萩市から会津若松市に姉妹都市を締結しようという動きもあったが、成立していない。戊辰戦争から150年を経た現在でも遺恨は解消されてはいないのかもしれない。

長野市と松本市──今も残る山を隔てての「南北格差」

現在の長野県は『古事記』には科野国とあり、科の木を多く産した野を意味したとされる。704年(大宝4年)に信濃国に改められた。

古くは現在の上田市一帯の小県郡が中心であったが、諏訪神社のある諏訪地方が諏訪国として独立した時期もあった。

平安時代の法令集である『延喜式』での信濃国には、伊那、諏方、筑摩、安曇、更級、水内、高井、埴科、小県、佐久の10郡があり、現在の木曾地方を除く大部分である。

現在の長野県を地図で見ても、岩手県、福島県に次ぐ大きな面積を持つ。古代に越前、越中、越後に分けられた越国のように、分割されなかったのが不思議だ。

1871年(明治4年)の廃藩置県では、善光寺のある長野に県庁を置く長野市と、飛騨国の領域も含んだ松本に県庁を置く筑摩県に分かれたが、1876年(明治9年)の筑摩県庁の焼失をきっかけに筑摩県は長野県に編入され、筑摩県の旧飛騨国地域は岐阜県に合併されて現在に至っている。

長野県の成り立ち

筑摩県は長野県の3倍も大きく、中心の松本市も県庁所在地となるにふさわしい都市だという自負がある。そのため松本市としては、長野県に吸収され長野市に県庁所在地があることに大きくプライドを傷つけられたのだろう。

広い長野県では、北部と南部で風土も文化も異なるうえ、江戸時代には多くの藩や幕府の直轄領があり、県域の一体感は希薄で「南北格差」と呼ばれる地域対立が残った。

1948年(昭和23年)には長野県庁が一部焼失。この事件をきっかけとして、長野県を二つに分割することが議会で本格的に話し合われるようになった。このときの定例県議会には大きな注目が集まり、警官150人が動員された。結局実現には至らなかったが、このとき議会で分割案が可決されても政府や国会は分割を認めない方針だったという。

現在でも名古屋に近い県南の人たちは、県北との文化の違いなどを語る人も多い。

1900年(明治33年)に浅井洌が作詞し、北村季晴が作曲した「信濃の国」の歌は、長野県の地理や歴史、文化を歌い込んでおり、県民意識の一体性を高める長野県歌として県民の間で歌われているというが、その効果のほどは?

 

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現代教育調査班

教育にまつわるさまざまな疑問、不思議について、綿密なリサーチをかけて調査するライター集団。学年や教科を問わず、情報を日々更新している。