広島大学名誉教授・比較宗教学者
スマホやパソコンといったデジタル機器を一人ずつ持つことが当たり前となり、日々数え切れないほどの情報を得ている私たち。そんな時代のなか比較宗教学者の町田宗鳳先生は、「情報化社会に生きる現代人は、『燃え尽き症候群』にかかっている」と危惧しています。そうした状態から抜け出すカギとなるのが「声の力」。顔に「顔相」があるように、声にも「声相」があるのだそうです。
アメリカでも日本でも、心を病む人は後を絶たない
私はアメリカで暮らしていたことがあります。そのときアメリカ人を対象に坐禅会を開いていたのですが、毎週参加者が集まり、とても真剣に坐禅に取り組んでくれました。禅学者の鈴木
しかし私は心の中で、いつも何か物足りなさを感じていました。なぜなら型通りの坐禅をしてみたところで、人々が心の深いところで抱えている悩みから解き放たれるようなことが、ほとんどないからです。
これではいけない。ほんとうに人々の精神が安定し、日々の生活の中で幸福感に満たされるような瞑想法を見つけたいと、私は真剣に考えるようになりました。
その思いがようやく実現したのは、17年間の海外生活を終えて、日本に戻ってきてからです。文字通り「求めよ。さらば与えられん」です。
しかし、念仏や題目がいかに優れたものであっても、そこには宗派色があり、誰もが実践できるものではありません。そこで私は、外国人でも知っている「ありがとう」という言葉を反復朗唱することを思いつきました。結果的にその直観は、大正解だったと思います。
「ありがとう」を唱えるだけで神秘的な体験ができる!?
実際に老若男女の人たちと「ありがとう」の言葉を何度も繰り返し、ゆっくり唱えてみると、驚くようなことが起きてきました。まず、多くの人たちが朗唱中に涙を流したのです。それは悲しみや悔悟の涙ではなく、感情を交えない透明な涙です。
それだけではなく、瞑想中に光を見たり、色を見たりする人たちも毎回のように出てきました。「ありがとう」を皆でゆっくりと唱えるだけで、なぜそういうことが起きるのか、当初はわからなかったのですが、その後、いろんな本を読み漁るうちに、私なりにその理由が見えてきました。
「ありがとう」の五音が含む母音を複数の人間が朗唱すると、倍音が自然発生します。倍音とは、
倍音は耳では聞こえない超音波を出しており、その振動が体の骨格を通じて、中枢神経に運ばれます。そうすると脳が反応して、松果体からオキシトシンやβ–エンドルフィンのような快楽物質が分泌されるようになり、脳波もふだんのβ波からα波に変わり、深いリラックス感を味わうことになります。
これだけの変化なら、美しい音楽にうっとりと耳を傾けたり、友達と美味しいものを食べながら楽しく語らったりするだけでも起きることです。しかし、意識を集中して「ありがとう」を一時間ほど唱え続けると、起きているのか寝ているのかわからないような状態になり、現場にはない楽器音が聞こえてきたりします。
いちばんポピュラーなのは、パイプオルガンです。まるで大聖堂にいるような感覚になります。その他、雅楽の
楽器だけでなく、人の声も聞こえてきます。ソプラノの歌声、讃美歌、大勢の僧侶による読経の声などがよく報告されます。すべてそこには存在しない音声であり、一種の幻聴と言っていいでしょう。
幻聴よりも、よく起きるのは幻覚です。それは、眼を開いていても閉じていても起きます。まず、金・紫・緑・青・黄・ピンクなどの色を見る人がいます。それも波打つように現れたり、火花が散るように見えたりするのです。
色だけではなく、はっきりとしたイメージも目視されます。昔、自分が見た懐かしい風景だったり、子供の頃に世話になった人の顔だったりします。
ただ、それらは自分が現実に体験したことを思い出しているだけですが、まったく非現実的なイメージが浮かび上がることもあります。たとえば、ずっと以前に亡くなった人が、自分のすぐ近くで立って微笑みかけているのを見たり、その人の体臭がしたりもするのです。沈黙の坐禅で集中するには長期間の鍛錬が必要ですが、「声の力」の助けを得ると、比較的容易に無意識に下りていけるようです。
こういう神秘体験は決して謎めいたものではありません。すべて脳内現象です。そして、特異な霊的体質の人だけに起きるわけではありません。誰にでも、瞑想なんか一度も体験したことがない人にも起きるのです。それだけ、声がもつ倍音は深い意識に到達する機能を持っているのではないかと私は考えています。
ほとんどの人が「自分の本物の声」を知らない
顔と比べるとあまり注目されていませんが、顔に「人相」があるように、声にも「声相」というものがあるのです。
易者でも達人となれば、通りすがりの人の人相を見て、その人の運勢をおおよそ言い当てることがあります。声を聞くだけで、それと似たようなことができる人もいます。
『8割の人は自分の声が嫌い』(KADOKAWA)の著者で、NHKラジオの番組「こころをよむ」にご出演されていた、山﨑広子さんという方がいます。認知心理学をベースに、人間の声が持つ自他への影響力を研究されている方ですが、彼女は人の声を聞くだけで、その人の年齢から体型、体調、さらには性格や成育歴までのおおよそを言い当てることができると言います。
山﨑さんによれば、大半の人は自分の「本物の声」、それを彼女はオーセンティック・ヴォイス(authentic voice)と呼んでいますが、それを見つけていないのだそうです。本物の声とは、その人の心身の恒常性に適った声であり、無理なく出すことのできる心地よい声のことです。
私はそのような声とは、根源的な生命から来る「命の声」なのではないかと思います。赤ちゃんは、周囲の大人の思惑などお構いなしに思い切り泣き叫びます。あれもまた「命の声」です。
自分が志した仕事に成功し、自律した生活によって健康を謳歌しているような人は、じつにハリのある声を出しますが、それも揺るぎのない自信から来る「命の声」です。
さらに、現代人は自分のオーセンティック・ヴォイスを知らないまま、どこからか借りてきたような声や作り声で話す傾向があると山﨑さんは指摘しています。また戦争・経済恐慌・自然災害などによって、社会不安が高まってくると、人の声は総体的に高くなると言います。
声に対して意識的なのは男性より女性のほうが多いのではないかと思いますが、作り声が多いのも女性です。とくに愛嬌を振りまこうとして上ずったような声を出す若い女性のことを、山﨑さんは「クレーン女子」と呼びます。まるでクレーンに吊り上げられたような声だということです。
そんな吊り上げられたような、地に足が着いていないような作り声で生活していれば、本音と建て前が大きく乖離してしまい、生きづらくなるのは当然ではないかと私も思います。
自分のオーセンティック・ヴォイスを見つける手段として、まず山﨑さんは自分の声を録音して、何度も聴き直すことを勧めています。録音した自分の声を聴いたことのある人はわかると思いますが、自分が耳で聞いている声と実際に外に出ている声は違います。
さらに、たいていの人の声には、相手には見せていないと思っている感情もさらけ出されているそうですから、録音して客観的に聞くことが大事だそうです。
そしてその録音した声の中から、自分がいいと思った声を見つけ、その声を出したときの状況や心理状態などを思い出しながら、その声を出した原因を探っていくことが、オーセンティック・ヴォイスを手に入れるために効果的な方法だと言っています。
声と聴覚は脳内で密接に関わっています。「聴覚のフィードバック効果」といって、オーセンティック・ヴォイスを出せるようになると、みるみるうちに現実に変化が起きると言います。
声によって健康面はもちろんのこと、性格から容姿まで変わってしまうそうですから、決して「声の力」を侮ってはいけません。そうした変化が起きるということは、声が人間の意識の深いところにまでつながっている証しなのではないかと思います。
沈黙の坐禅では見えなかった世界を、「声の力」で体験
「声の力」を最大限に利用して、みずからの宗教体験を深めた人として私が想起するのが、先に少し触れた法然上人です。鎌倉時代に「
私はもともと禅宗の僧侶だったのですが、法然さんの日本思想史上における大きな働きに注目して、アメリカ留学中に法然研究を始めました。禅のほうでも、何時間も坐禅を続け、禅定が深まってくると、幻視体験が起きることがあるのですが、すべて魔境、つまり幻覚として否定されます。
ところが、法然さんは自分の念仏信仰の核心に幻視体験を据えていました。私はなぜそんなことが起きるのか、その理由を探り続けたのですが、その結果、彼が実践していた
法然上人以前、平安時代にも念仏行者はいたのですが、たいていは
私は最初、極めて単純な念仏を口で称え続けるだけで、なぜ法然さんが深い神秘体験が持ったのか、不思議に思いました。しかし、単純な言葉を反復することにこそ、大きなポイントがあったのです。
よく知られていることですが、マラソン選手は走っているうちにランナーズ・ハイになることがあります。同じように水泳選手も、泳いでいるうちにスイマーズ・ハイになることがあります。それは単純な動作を反復することによって、意識の状態が変わっていくことを示しているように思われます。
私も比叡山で修行中に、この不動明王真言を毎日、千遍唱えさせられました。念珠を繰りながら唱えるので、確実に千遍唱えます。あまりに激しい修行のため、いつも疲労困憊していたのですが、なぜか毎回のように七百遍ほど唱えたあたりから、自分の意識が突然変わるのを感じました。それまでの睡魔や疲労感などが完全に消え、極めて透明な世界に入っていくのです。
坐禅とは異なり、真言読誦は両眼を開けたままやるので、同じお堂の中で誰が何をしているか、はっきりと見えているのですが、何も気にならないのです。
私はそれまで、いわゆる不動心というのは、どんな境遇においても確固不動たる心のことだと思っていました。しかしその経験を通じて、不動心とはそうではなく、一切の感情に妨げられない透明な心のことだと確信しました。禅でいう「空」や「無」などがどんな境地であるか、体で納得できたのです。
それを沈黙の坐禅ではなく、「声の力」によって体験できたことに、新しい発見がありました。
それは不思議な体験でした。同じ言葉を機械的に反復して唱えるだけで、そんな境地になるのです。天台密教では、不動明王真言以外にも、何百と唱えるべき真言があります。しかし法然さんは、その中からナムアミダブツという念仏だけを選び出し、それだけで救いの必要十分条件を満たすと考えたのです。
神仏の「おかげ」は、気のせいではなく、確かな根拠があるものだと私は考えています。平均年齢が25歳前後と推測されていた鎌倉時代において、法然上人80歳、
「人生100年時代」と言われるようになりましたが、医療環境も栄養状態も整っている現代においては、普段から「命の声」を出していれば、100歳という長寿も珍しいことではなくなるような気がします。
宗教的なことだけではなく、詩吟、長唄、謡曲、コーラスなどを趣味にしておられる方も、発声の仕方に意識を向けることによって「命の声」が回復され、身心の健康増進に確かな効果があるのではないかと思います。
私たちは、「年を取って、アタマを使わなければボケる」などとよく口にしますが、実はアタマ以上に使う必要があったのは、声ではないかと思うのです。
広島大学名誉教授・比較宗教学者。御殿場高原「ありがとう寺」住職。
1950年京都府生まれ。14歳で出家し、臨済宗大徳寺で20年間修行。その後ハーバード大学で神学修士号、ペンシルバニア大学で哲学博士号を取得。プリンストン大学助教授、国立シンガポール大学准教授、東京外国語大学教授などを経て現職。
『人類は「宗教」に勝てるか』(NHKブックス)、『「ありがとう禅」が世界を変える』(春秋社)、『異界探訪』(山と渓谷社)など著書多数。国内各地およびアメリカ、フランス、台湾などで「ありがとう禅」を、静岡県御殿場市で「ありがとう断食セミナー」を開催している。