四国の覇王“長宗我部”の姓が江戸を経て維新後に復活したワケ

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高知市長浜の鎮守の森公園には「長宗我部元親像」がある
戦国期、一時的にせよ四国を統一した大名といえば長宗我部元親。元親の後継者となった四男盛親は関ヶ原の戦い、大坂の陣を経て五人いた男子ともども斬首された。こうして長宗我部氏の家系は途絶えたように見えたが、実は江戸を経て現代にまで生き延びていることをご存じだろうか? 長宗我部氏のルーツにまつわる謎と、傍流の人々が江戸時代に味わった忍従の日々に焦点を当てた。

足利尊氏に属し領土を拡張

長宗我部氏のルーツは、古代に大陸から渡ってきた秦氏だと言われている。それも中国秦王朝の始皇帝の子孫を称する名門一族である。そこから秦氏を名乗ったらしい。飛鳥時代、一族の中から推古天皇の御代に秦河勝という者が現れる。河勝は聖徳太子に重用され、信濃国に領地を与えられる。信濃秦氏の始まりである。

その後、平安時代末期となり、信濃秦氏の中から現れた秦能俊という者が、「保元の乱」(保元元年=一一五六年)が起こった際、崇徳上皇方に属して敗れ、土佐に逃げ込んだ。この能俊が長宗我部氏の始祖だという。

能俊は最初、長岡郡宗我部郷に居住したため宗我部氏を名乗ったが、近隣の香美郡にも同じく宗我部氏を名乗る一族があったため、長岡郡から一字をとり、長宗我部を名乗った。そして能俊は国分川沿いにある岡豊山(南国市岡豊町)に城を築き、代々の居城と定めている。

時代は下って、十一代信能のとき鎌倉幕府が滅亡、南北朝の争乱を招くが、信能は足利尊氏に属し、土佐国守護の細川顕氏の下で南朝方と戦った。のちにその功によって細川氏から土地を与えられ、長宗我部氏発展の礎を築く。その後、戦国時代を迎えると、応仁の乱で土佐における細川氏の影響力が弱まったことから、土佐国内では一気に小豪族―国人(土着の領主)同士の勢力争いが始まった。

国親・元親父子による国取り物語

当時、土佐国は七郡に分かれ、それぞれ安芸氏、大平氏、香宗我部氏、本山氏などの有力な国人が牛耳っていた。長宗我部氏もその七人の国人のうちの一氏である。このころ長宗我部の当主は十九代兼序だったが、専横な振る舞いが目立ったことから、ほかの国人衆は本山氏を中心に反長宗我部連合軍を結成し、兼序を攻め滅ぼしてしまった。

戦乱のなか、兼序の遺児の国親は、応仁の乱を避けるため京都から移って来ていた御所一条氏を頼って庇護を求め、そこで成長する。のちに国親は勢力挽回を期して周辺の国人衆を一氏、また一氏と謀略や武力で屈服させ、最終的には嫡男元親とともに本山氏を攻め滅ぼし、父兼序の無念を晴らすことに成功している。その後元親は、父国親にとっては命の恩人にあたる御所一条氏を土佐から追放し、ここに長宗我部国親・元親父子による国取り物語は完結を見たのである。

しかし、土佐一国を手に入れた元親の野望はこれにとどまらず、今度は四国全土の統一に乗り出す。阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊予(愛媛県)へ次々に軍勢を送り込み、本能寺の変(天正十年=一五八二年)が起こるころまでにほぼ四国全土を掌中に収めたとみられている。

四国の覇王となり、喜んだのもつかの間、元親の前に強大な敵が立ち塞がった。織田信長の後継者となった豊臣秀吉である。

元親の異母弟にあたる人物の系統

元親は秀吉が送り込んできた四国征伐軍と戦って敗北し、秀吉の軍門に降る。天正十三年のことで、元親は土佐一国に減封された。その後元親は、秀吉の命ずるがままに九州島津征伐、小田原後北条征伐、朝鮮の役と律義に転戦した。九州の島津氏を攻めた際、自分の後継者として頼りにしていた嫡男信親を戦死させており、このときの衝撃が余程大きかったのか、以来元親は、人が替わってしまったかのように失政を繰り返すようになったという。

そんな一代の英雄、長宗我部元親は関ヶ原の戦いの前年(慶長四年=一五九九年)に京都で亡くなった。享年六十一。後継者となった四男盛親は、この関ヶ原の戦いでは当初、徳川家康方の東軍に味方するつもりでいたという。ところが、近江国水口で西軍に行く手を阻まれ、やむなく西軍に味方することになったのだった。まことに不運な人物である。

その後の盛親だが、関ヶ原の戦い後、浪人に身をやつし、一発逆転を狙って豊臣方に味方した大坂の陣でも敗れ、子供たち共々斬首されたことはすでに述べた。こうして平安以来の家系は途絶えたかに見えたが、どっこい傍流が生き残っていたのだ。それは国親の四男で元親の異母弟にあたる親房の系統である。

郷士よりも低い身分を与えられる

親房は、父国親が家臣・島某の妻に手を出して生ませた子供だという。それゆえ早くから島姓を名乗った(別名島親益とも)。武勇に優れ、兄元親の下で土佐平定に尽力した人物でもある。この親房の子孫に島親典という者がいて、大坂の陣後、土佐藩に下級藩士として仕えている。島親房と親典の関係だが、親房の子か孫、または一族の者か、はっきりしたことは未だわかっていない。いずれにしろ、この島親典の系統が現代の長宗我部当主家につながっていることは間違いないのである。

島親典は大坂の陣後、土佐国の新領主となった山内氏(当時は土佐藩第二代藩主の山内忠義)の前に出頭した。そして入牢後、赦免されて山内氏に仕えた。藩から親典に与えられた身分は「徒士」というごく軽いものだった。その際、長宗我部への復姓や家紋の使用を藩から固く禁じられたという。

土佐藩では、藩士の身分は上士と下士の二つに厳然と分かれていて、上士は、山内家の家臣で藩主に随って土佐に入った者たち。最高位は家老、ついで中老、物頭、馬廻り、小姓組、留守居組などと続く。一方、下士には長宗我部家旧臣が大半を占めていて、白札、郷士、徒士、組外、足軽、庄屋の順になっていた。つまり、島親典が与えられた徒士という身分は下士の中では郷士よりも低いものだった。ちなみに、この土佐藩から幕末に現れる風雲児・坂本龍馬は郷士だった。

四十三年間も徒士として忠勤に励む

土佐藩では、下士は武士であって武士と認められていなかった。どんなに優秀でも下士の者が上士に取り立てられることはまずなかった。藩政に参加することなど夢のまた夢だった。また、無礼を働いた下士を上士がその場で斬り捨てたとしても、罪に問われることもなかった。いわゆる、斬り捨て御免、というやつである。

島親典がこれほど冷遇されたのは、元領主の血筋の者が下士の身分に甘んじて懸命に新領主に仕えている姿を長宗我部の旧臣に見せることに政策的な意味があると藩の上層部が判断したからにほかならない。

島親典はそうした藩の思惑をおそらく知ったうえで、黙って忠勤に励んだ。親典はなんとその後四十三年間も徒士として奉公した。亡くなったときには、「山内家から香典として銀子三枚を頂戴した」と、系図に添え書きされていたという。

親典には他家に仕えるという選択もあったのに、なぜ土佐藩に仕えたのか。それについては確かなことはわからないが、親典の心中を推し量ることはできる。自分が土佐を離れてしまえば、旧臣たちを見捨てたことになる。誇りある長宗我部の一族としてそれだけはできなかったのだ。親典は、自分は軽輩に身をやつし、人からどんなに嘲られようとも、生あるかぎり旧臣たちの行く末を見守っていこうと胸に誓ったのだ。それゆえ親典は土佐を離れなかったのである。

明治維新となり長宗我部に復姓

島親典の戒名が今に伝わっている。それは「心庵宗無居士」の六文字だ。心庵と無の間に、長宗我部の中の一字「宗」をひっそりとしのばせたところに先祖に対する親典の思いの深さをうかがい知ることができる。

島氏はその後も代々土佐藩に仕え、明治維新後に親房から数えて十二代目とされる島重親のとき長宗我部姓に復している。その際、宗家が途絶えていたため必然的に長宗我部氏の当主の座を引き継いだのだが、明治天皇からも長宗我部宗家として認められたという。このとき島重親の胸にはどんな思いが去来しただろうか。

島氏にとって江戸時代とは、言うに言えない忍従の日々の連続だったに違いない。そうした辛い思いに代々耐え続けたのは、下士に甘んじていた長宗我部氏の旧臣たちも同じだった。下士の家に生まれたという理由だけで上士たちから代々理不尽な扱いを受けてきた彼らは、幕末となり幕藩体制が揺らぎ始めるとそれに触発され、屈辱と貧困の軛から脱しようと他藩に先駆け行動を起こそうとした。

そんな下士出身の代表的な活動家こそ、武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎らであった。彼らは知ってか知らずか、江戸の二百七十年間でたまりにたまった長宗我部家旧臣の鬱積を晴らそうとして倒幕運動に突き進んでいたのである。

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

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