秋葉原はもともと「あきばはら」だった!? 日本全国「地名」の由来

秋葉原の街

意外に広大な日本には、地形や地理の知られざるエピソード、誰もが不思議に感じる疑問がたくさんあります。なかでも「地名」にまつわる話は、歴史や地形に関係する興味深いものばかり!

秋葉原は「あきはばら」?「あきばはら」?

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど江戸は火事が多かった。1601年(慶長6年)から1867年(慶応3年)までの267年間に大火が49回も発生し、それ以外の火事も含めれば、記録されたものだけでも1798回に達する。

火除け、火伏せの神とされる秋葉信仰が流行したのも当然だった。全国的に広まったのは第五代将軍徳川綱吉の治世のころからといわれるが、そのころから現在の秋葉原に秋葉神社があったわけではない。

秋葉原に神社ができたのは明治になってからだ。1870年、前年暮れに神田相生町で発生した大火事をきっかけとして、明治天皇の勅命により皇居内の紅葉山から鎮火三神(火の神である火産霊大神、水の神である水波能売神、土の神である埴山毘売神)を勧請(神仏の来臨を祈り願うこと)して創建された。

当初の名は鎮火社といい、秋葉大権現と直接の関係はなかったが、人々は秋葉大権現が勧請されたものと思い、この社を「秋葉様」「秋葉さん」と呼ぶようになった。

秋葉大権現の本来の読みは「あきは」だが、東京の下町なまりで「あきば」となり、火除けのために設けられた周辺の空き地は「秋葉の原(あきばのはら)」とか「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼ばれた。

この地に鉄道の駅ができたのは1890年(明治23年)になってから。貨物専用駅として開業し、「秋葉原駅あきはのはらえき」と呼ばれていた。やがて駅の呼称は「あきははら」に変わり、1907年(明治44年)に「あきはばら」へと変更された。

駅ができると秋葉の原は払い下げられ、それにともなって神社は東京都台東区松が谷に移転。1930年(昭和5年)に「秋葉神社」と改名された。

地名の読みも「あきはばら」となり、1964年(昭和39年)10月1日の住居表示施行時に「台東区松永町」、「台東区練塀町」から「台東区秋葉原」に変更された。

つまり、地名の基となった秋葉神社の読みからすれば「あきはばら」で「あきば」は下町訛りなのだが、いまやカタカナの「アキバ」がメイドカフェや「AKB」などカルチャーの発信地となり、「オタクの聖地」として世界的に名を知られるようになっている。

秋葉大権現も、さぞや驚かれていることだろう。

島が八つで「伊豆七島」なのはどうして?

最近、天気予報やニュースでは「伊豆諸島」といわれていて、「伊豆七島」ではなくなっている。しかし、観光案内などでは「伊豆七島」の呼び名が使われている。

ところが、実際には伊豆諸島には伊豆大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島という八つの島があり、さらに青ヶ島と、昭和40年代に無人島となった八丈小島、鵜渡根島などの無人島もある。「伊豆七島」というのは、江戸時代に伊豆諸島の主な有人島が式根島を除く七島だったからだ。

伊豆七島

確たる証拠はないが、言い伝えによると元禄時代まで新島と式根島は歩いて渡れる程度の深さでつながっていたが、1703年(元禄16年)午前2時ごろ関東地方を襲った元禄地震によって切り離され、八島になってしまったという。

元禄地震のマグニチュードは7.9〜8.5と推定されており、このときの地殻変動は1923年(大正12年)の関東大震災より大きかった。震源地にあたる南房総では、海底平面が隆起して段丘をつくり、沖合の小島だった野島岬は地続きの岬になったという。

島が二つに割れてもおかしくないほどの地震ではあったが、元禄地震の被害について記された文献に伊豆七島について記したものはない。

新島村が編纂した「新島村史 通史編」(1996年)によれば、新島と式根島が陸続きであったとする文書が現れたのは明治10年になってからだった。
このころ、式根島の払い下げ願いを太政官へ提出した企業家が出てきたため、これを知った新島が危機感を持って対抗策を検討した。両島陸続き説はこのころ浮上したもので、創作という可能性も大いにある。 

県庁所在地は「福岡市」、新幹線の駅は「博多駅」のナゾ

福岡市にあるターミナル駅はいうまでもなく「博多駅」だが、どうして福岡市にあるのに「博多駅」なのか。この地は昔から貿易で栄え、商人の町「博多」として発展を遂げてきた。〝博多美人〟〝博多織〟という言葉があるように、「博多」の地名は定着していた。

ここに「福岡」の名をつけたのは、1601年(慶長6年)にこの地の領主となった黒田長政(黒田官兵衛の息子)だ。長政は古代の海外交易施設である鴻臚館があった土地に城を築き、その周辺に城下町ができた。町の名は黒田氏の父祖の地、備前福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)にちなんで「福岡」とされた。

明治維新ののち、廃藩置県(1871年〔明治4年〕)で福岡藩は福岡県となり、翌1872年、県は32区に分けられて城下町福岡は第一区、町人町博多は第二区とされた。

やがて1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布され、「市制及び町村制」の公布によって市制が施行されることになった。このとき市名を「博多市」とするか、「福岡市」とするか、博多と福岡の間で大論争が起こった。

この時点で、人口は博多の2万5677人に対して福岡は2万410人で、博多のほうが多かった。ほかに東中洲など4つの字に1530人いた。もし住民投票によって決めていたら、間違いなく「博多市」が誕生していたはずだ。

議論はまとまらず翌年3月、県令によって博多と福岡をまとめて一つの市として発足させることになった。市名は「福岡」となり、議場は東中洲の「共進会館」に置かれた。

このとき県は議論の決着を図るために、仲裁案として同年に開通することになった九州鉄道の駅名を「博多駅」とすることを提案した。

こうして議論はいったん収まったが、駅名による決着に納得がいかない博多側の議員もいて、翌1890年に市名を「博多市」と改名する案を提出した。このとき議員数は博多側が17人(出席議員は15人)、福岡側は13人(うち1人は議長)だったが、妨害工作もあって票は13対13の同数に割れた。旧福岡藩士だった不破国雄議長も議長席を降りて1議員として投票したが、再び13対13となり決着がつかない。

最終的には不破議長に代わって議長席に着いた議長代理者が「変更せず」と宣言し、「博多市」案は否決された。もし妨害工作がなければ、われわれは「博多市」の方を記憶にとどめているに違いない。

 

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現代教育調査班

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