室町から江戸まで、四百年間も画壇に君臨した狩野派の生存戦略

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狩野派の代表的な画人、狩野永徳によるものと伝わる「四季花鳥図屏風」(右隻の一部)
室町時代の中期から江戸時代の終わりまで、およそ四百年間にわたってわが国の画壇に君臨し続けた絵師集団が狩野派だ。歴史上、これほど長く活動した絵師集団は、世界中どこにも存在しない。では、なぜ狩野派だけが天下人たちの心をとらえることができたのか。その謎を解き明かしていこう。

二代目元信が繁栄の礎を築く

狩野派は、絵師という特殊技能を表看板としながら、親から子、子から孫へと代々血族中心に受け継がれていった珍しい一族である。安土桃山時代から江戸時代の初期にかけて一族の中から次々と天才が出現したことが、のちの流派の繁栄につながった。

まず、流派の開祖とされるのが狩野正信だ。美的センスに恵まれていた室町幕府八代将軍足利義政に見いだされ、正信は幕府の御用絵師となる。応仁の乱(一四六七年〜)が始まるころには、正信はすでに足利幕府の御用絵師になっていたとみられている。出身は下野(栃木県)とも上総(千葉県)とも言われるが、はっきりしたことはわからない。

現在、正信の作品は中国の故事を題材にした『周茂叔愛蓮図』(国宝)など数点が確認されており、その多くが国宝や重要文化財に指定されている。特に『周茂叔愛蓮図』は、人間と雄大な自然との一体感を表現した水墨画の傑作とされ、のちの狩野派の進むべき方向を決定づけた作品とも言われている。

狩野宗家の二代目を継いだのは正信の長男元信である。この元信こそが、「狩野派ブランド」を確立し、狩野派繁栄の基盤を築いた立役者であった。中国伝来の水墨画(漢画)と日本古来の大和絵の融合を目指し、書院造り建築の装飾にふさわしい日本的な障壁画(襖などに描いた絵を指す)様式を確立したのである。

代表作は、大徳寺大仙院に伝わる「四季花鳥図」(重要文化財)。大胆さと繊細さが見事に調和し、当時の武将たちから絶大な人気を得た作品である。この作品がきっかけで元信のところに絵の注文が殺到するようになった。とても自分一人では注文をこなせないと考えた元信は、ある妙案を思いつく。

天才、狩野永徳の登場

絵を描くのが得意な若者を門弟として大勢雇い入れ、彼らに「狩野元信風」の絵を大量に制作させたのである。事前に元信のほうで、人物や動物、山川草木などを描いた粉本(絵手本)を用意していたので、門弟たちはその粉本にしたがって忠実に再現するだけでよかった。元信は門弟たちに対し、粉本からけっして逸脱しないよう、自分勝手な表現は厳に慎むよう命じたという。

こうして描き上がった絵に元信の印が押されることで、狩野元信の作品として立派に世間に通用したのである。この大量生産によって狩野派ブランドの認知度は一気に高まったことは言うまでもない。

元信の跡は三男の狩野松栄が継いだ。父元信と子の永徳はいずれも江戸期を代表する絵師の一人だけに、その間に挟まれてやや地味な印象をぬぐえないが、それでも松栄の「仏涅槃図」(重要文化財)は、明兆(室町期の画僧)の作品と長谷川等伯(安土桃山から江戸初期にかけての絵師)の作品と並んで「三大涅槃図」に数えられているほどである。

そして狩野永徳である。言うまでもなく、桃山時代の日本画壇を代表する天才である。永徳は信長や秀吉などの求めに応じて数々の傑作をものにした。安土城や大坂城の障壁画を制作したのも永徳である。残念ながらその後の戦火によって作品のほとんどは建物と共に焼けてしまい、現存するものは少ない。

永徳の絵は当時最高級の贈答品

現存する作品では、「唐獅子図屏風」(皇室の私有品のため国宝や重要文化財の保護対象外)が有名だ。この作品を教科書で目にして記憶している人も多いことだろう。堂々たる雌雄の獅子が並んで闊歩する様子が、単純な図柄ながら力強い筆法で描かれ、一度見たらけっして忘れない迫力に満ちた作品である。

また、織田信長が越後の上杉謙信のご機嫌をとるために贈った屏風「上杉本洛中洛外図屏風」(国宝)も今に伝わっている。このことは永徳の存命中から、永徳の絵は最高級の美術品(贈答品)という共通認識が当時の人々にあり、天下の名刀や名物茶器同様、武将たちの地位の象徴であったことを物語っている。

しかし、そんな天才永徳も、天正十八年(一五九〇年)九月十四日、絵を制作中に四十八歳という働き盛りで急死した。現代風に言えば、過労死だったらしい。父松栄が亡くなる二年前のことだった。存命であればまだまだ傑作をものにできたはずだけに、日本の美術界にとってはまことに惜しい死であった。

その後、宗家は永徳の長男狩野光信が継いだが、光信が早く亡くなり、その子狩野貞信はまだ若年であったため、光信の弟狩野孝信が一時的に一門を率いた。この人は絵師としての腕前は一流だったが、それよりも政治力に長けた人だった。

狩野派系図

誰が政権を取っても生き残るという戦略

このころは政権が豊臣氏から徳川氏に移ろうとする過渡期にあたっていたため、孝信は政権がどう転んでもいいように狩野派が生き残る道を模索した。そこからひねり出した答えが、通称「三方面作戦」と呼ばれるものである。

狩野派の本拠地で朝廷のある京都は孝信自身が受け持ち、大坂の豊臣氏には豊臣とゆかりのある門人の狩野山楽や狩野内膳を置き、江戸の徳川氏には宗家の狩野貞信と自身の長男狩野探幽をあたらせた。こうして朝廷、豊臣、徳川の三者のうちいずれに政権が移っても狩野派が生き残るようにしたのである。

この三方面作戦によってのちに狩野派は、京都にとどまった「京狩野」と江戸に出た「江戸狩野」とに分かれることとなる。前者の代表は狩野山楽、後者の代表は狩野探幽であった。

狩野探幽は、狩野派の歴史において祖父永徳と並び称される偉大な絵師である。早熟の天才と言われ、十六歳で早くも江戸幕府の御用絵師となり、元和七年(一六二一年)、二十歳で本拠を江戸に移してからは江戸城、二条城、名古屋城、大徳寺など名だたる建築物の障壁画制作の陣頭指揮に立っている。

特に評価が高いのは、二条城二の丸御殿の襖絵だ。外様を含めすべての大名が通される控えの間「遠侍の間」の襖には、見るからに獰猛で威圧的な虎の絵が描かれていた。徳川家に弓を引く慮外者が現れた場合、この牙と爪で引き裂かずにはおかないという暗示であった。

今も受け継がれる狩野派の画風

そして、将軍家と対面が許される大広間に移ると、一転、そこは「静」の世界で、周囲の襖には部屋を圧するばかりの松の巨木が描かれていた。大名たちはその絵から徳川幕府が内包する権力の大きさを思い知らされることになるのである。まさに、見る人の心理状態を手玉にとる探幽の巧妙な空間演出であった。

この探幽の出現が狩野派としてのピークで、その後の江戸中期から末期にかけては世に聞こえた英才・奇才は門下から出ておらず、永徳や探幽の「遺産」で食べていたようなものだった。これは、大量生産を可能にするため絵師の個性を否定して粉本主義に固執したことが原因と考えられている。

永徳と探幽という二人の天才が立て続けに登場したことはむろん大きいが、品質の高い絵を大量生産することで狩野派ブランドを確立し、さらに二条城二の丸御殿の襖絵からもわかるように、後援者が替わってもそのつど心の内を読みとって、後援者が欲する作品を常に具現化してきたことが、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて狩野派が隆盛した要因と言えるだろう。

そんな四百年間も日本画壇に君臨した狩野派だったが、江戸幕府が瓦解すると、最大の後援者を失ったことで表舞台から退場する運命にあった。

ところが、明治維新を迎えると、かつて狩野派の絵を学んだ狩野芳崖と橋本雅邦という二人の天才が現れる。二人は日本画の革新運動に大きく貢献し、のちに登場する近代日本画を代表する下村観山や横山大観、菱田春草、川合玉堂らに大きな影響を与えた。こうして狩野派の画風は現代の日本画の中にも脈々と受け継がれているのである。

 

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歴史の謎研究会

歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

日本史の真相に迫る 「謎の一族」の正体 (青春文庫)