“三日天下”は必然―本能寺後の十二日間に光秀が犯した六つの失敗

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当時の現場から1キロほど離れた京都市中京区下丸屋町に現在も「本能寺」がある
本能寺の変が失敗に終わったことについては、行動が突発的すぎて人々が納得する「大義」がなかった、秀吉が光秀の予想をはるかに上回る早さで備中から戻ってきた、などの理由が広く知られている。ただし、本能寺後の十二日間の光秀や秀吉の行動を丹念に見ていくと、まだまだ世に広く知られていない「光秀が犯した失敗」が潜んでいることがわかる。

失敗その一 焼け跡から遺体を見つけられなかった

天正十年(一五八二年)六月二日未明、明智光秀が一万三千の軍勢で京都・本能寺に宿泊していた主君織田信長を急襲し、自害に追い込む。当時の人々の誰一人として予想しなかった、「魔王」とまで怖れられた男のあっけない最期だった。

光秀はその後、中国方面から急ぎ駆け付けた羽柴(豊臣)秀吉によって滅ぼされたのはご存じのとおり。このときの戦いは「山崎合戦」、または「天王山の戦い」の名でもよく知られている。のちの人はこの光秀の謀叛を「三日天下」と呼んだが、実際は六月十三日に亡くなっているため十二日間の天下だったことがわかる。

光秀の軍勢が本能寺に突入したのは、夜がまだ明けぬ午前四時ごろとみられている。迎え撃った信長方は森蘭丸など小姓衆が中心で百にも満たない寡勢であった。結果は最初から明らかだったが、蘭丸らは主君信長を何とかこの場から落ち延びさせようと必死の抵抗を見せる。信長自身も弓や槍を手に奮戦するも、敵は次々と押し寄せてくる。そのうち屋敷に火が放たれると信長は覚悟を決め、屋敷の奥深くに籠り、自決したという。

信長方の大半が討ち死にし、抵抗が止んだ午前八時ごろになると、光秀は家来に命じて消火作業に当たらせる一方で信長の遺体を探させた。ところが、焼け跡をどんなに探し回っても遺体が見つからないのだ。ぐずぐずしていると、近くにいる信長の嫡男信忠が軍勢を集めて駆け付けてくるおそれがあった。

この日、信忠は、信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく、本能寺から北方向に一・二キロメートルほど離れた妙覚寺という寺に宿泊していた。信忠は本能寺が光秀の襲撃に遭い、父信長が自害したらしいという急報に接すると、妙覚寺に隣接する、構えがより堅固な二条新御所に移動し、守備態勢に入った。この信忠に近隣の武将たちが味方についてしまっては厄介なことになるため、光秀にすれば一刻も早く信忠を滅ぼしてしまう必要があったのだ。

失敗その二 橋を落とされ三日間足止めされた

そこで光秀は後ろ髪を引かれる思いで本能寺を後にすると、二条新御所に軍を進めた。結果的にこの判断は間違いだった。光秀はこのとき何をおいても信長の遺体発見を優先するべきだった。このときの誤った判断によって光秀は三日天下に終わってしまったといっても過言ではない。

その後の光秀だが、二条新御所を襲って信忠を自害に追い込むと、その足で信長の居城である琵琶湖東岸の安土城へと向かう。ところが勢多城の山岡景隆が瀬田橋を落として進路を妨害したため、仮設の橋が完成するまで光秀は自らの居城である琵琶湖南岸の坂本城に三日間も足止めを食らってしまう。この間、各地の勢力に密使を送り、抱き込み工作を行ってはいるが、のちにこの三日間のつまずきが大きく響いてくることになる。

五日、光秀は何の抵抗を受けることもなく安土城に入る。同時に重臣の斎藤利三らに命じて秀吉の居城の長浜城や丹羽長秀の居城の佐和山城を攻略させ、近江一国をほぼ手中に収める。光秀自身は美濃や尾張の平定に動いたり、引き続き有力な周辺勢力に対し抱き込み工作を行ったりしている。その後、八日に安土城を発って京都に向かうまで、大した動きはない。

失敗その三 アテにしていた相手に背かれた

九日に上洛した光秀は、昇殿して朝廷に銀五百枚を献じている。そして翌十日には、山城八幡(京都府南部)の洞ケ峠に着陣する。中国方面から攻め寄せてくる秀吉軍をこのあたりで迎え撃つ作戦だった。

光秀はこの洞ケ峠では、自分にとって組下大名になる大和 郡山の筒井順慶と合流する予定だったという。ところが順慶は秀吉方に寝返り、籠城の構えをとったことから、光秀の目算は見事に外れてしまった。

悪いことは重なり、有力武将のうち、間違いなく自分に味方してくれるはずと期待していた細川藤孝・忠興父子からも加勢を断られてしまう。美人と評判の光秀の三女たま(ガラシャ夫人)が忠興の正室となっていただけに、これもまた光秀にとって大きな誤算だった。

十二日、光秀軍は天王山の麓の、現在の京都と大阪の府境にある山崎において、秀吉軍と対峙する。秀吉軍四万に対し、光秀軍は一万六千(それぞれ兵力については異説あり)。秀吉軍の中に、かねてより信長を嫌っていた摂津衆(中川清秀、池田恒興、高山右近など)が含まれているのを知り、光秀を大いに落胆させたという。

こうして、戦前にアテにしていた有力武将たちからことごとくそっぽを向かれ、滅亡への道を加速させる光秀であった。

十二日の昼過ぎに始まった山崎合戦は、三時間ほどで大勢が決したという。光秀はわずかな家来に守られ、戦場の北側にあった勝竜寺城(現在の京都府長岡京市)に逃げ込んだ。ところが、すぐに秀吉軍が迫ってきたため、「この小城では守りきれない」と判断し、翌十三日深夜に城を抜けて坂本城を目指す。

その途中、山科小栗栖(京都市伏見区)のあたりの竹藪に差しかかったとき、落ち武者狩りに遭遇し、非業の最期を遂げた。光秀の場合、生まれた年がはっきりしないため没年齢はわからないが、通説では五十代の半ばとみられている。光秀にとっては、天下人から逆賊、そして落人へとめまぐるしく人生が変転する十二日間であった。

光秀がこの十二日間に犯した失敗についてだが、最初に紹介した、本能寺で主君信長の遺体を発見できなかったことが一番大きい。信長の首さえあれば、それを満天下に晒すことでその死を「現実」として人々に知らしめることができたのである。ところが、遺体が発見されなかったために、「信長公は生きている」という噂が勝手に一人歩きを始めてしまった。

そうした根も葉もない噂を巧みに利用したのが、秀吉だった。

失敗その四 秀吉の情報操作を許した

備中高松城を水攻めしているさなかに、主君信長の死を知った秀吉。急いで毛利方との間で講和を取りまとめると、畿内をめざしてUターンを開始した。備中高松から山城山崎までざっと二百二十キロメートル。この距離を重装備の兵士らは実質六日間で走破したという。世にいう「中国大返し」である。

中国路を駆けながら秀吉は、畿内にいる光秀に加勢しかねない武将たちに次々と書簡を送り、懐柔工作を行っている。その手紙には大要、こう書かれてあったという。

「信長公は難を逃れ安全なところに避難されている。ご安堵されたし。くれぐれも軽率な行動はお控えあって……」と、信長の無事を伝えると同時に光秀の誘いに安易に乗らないよう釘を刺すものだった。

この懐柔策の効果は絶大で、「信長が本当に生きているなら、もしも光秀に味方した場合、あとで信長からどんな報復を食らうか、考えただけでも怖ろしい。ここはしばらく様子を見るに如かず」と、ほとんどの武将が光秀からの要請を無視したのである。先述した摂津衆はまさにそうした武将たちだった。

秀吉お得意の詐術―情報操作が見事に功を奏した結果であった。

ほかにも、天王山の敗因については、光秀ならではの「権威主義」が邪魔をしたからという説もある。それは一体どういうことだろうか。

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信長最後の地である京都市中京区山田町の本能寺跡には石碑が残る

失敗その五 究極の権威に酔いしれた

本能寺後の光秀の行動は、普段の戦上手らしからぬ無計画かつ緩慢だ。本当に天下を取りたいと思ったのなら、その障害となる対抗勢力を排除するため、一人でも多くの有力武将を味方につけなくてはならないのに、そのために奔走したという事実が見受けられないのである。なぜか余計なことばかりしているのだ。

たとえば、本能寺で信長を滅ぼした後、光秀はその足で京都から離れて安土城に向かっている。しかも、その途次、行く手を邪魔されて三日間も坂本城で無駄な時間を過ごしてしまう始末。あのときの光秀に最優先で安土城に入らなければならない戦略的・戦術的な意味はなにもない。

信長の権威の象徴である安土城をわがものとすることで、新しい天下人となった自分を満天下に知らしめる効果があったと見る向きもあるが、そんなことより、あのときは自分の味方を増やす努力をしたほうがはるかに得策だった。光秀が安土城を奪取した真意は、ようやく手に入れた「究極の権威」に酔いしれたかったからにほかならない、と思えるのだが、いかがだろうか。

朝廷に挨拶に出向いたのも時期尚早だ。朝廷からこのたびの謀叛には正当性があるとお墨付きをもらいたかったのだろうが、そんなことは秀吉を破って真に天下人の座に駆け上がってからすればよいことである。

失敗その六 秀吉軍にいち早く布陣された

光秀のルーツは謎だが、足利将軍家に近い美濃の名門土岐明智氏の流れという説もあるだけに、権威には人一倍敏感な人物だったのだろう。それを証明する山崎合戦のときの一つの逸話がある。

山崎に軍を進める直前に開かれた軍議の席で、光秀は重臣の一人から、「敵より兵力で劣るわが軍は山崎に布陣し、そこで秀吉軍を迎え撃つのが上策」と進言されるが、光秀はこの策をいったん却下していた。そのとき光秀はこう言ったという。「山崎は朝廷の御料所(直轄地)ゆえ、そこを戦場にすることは畏れ多い」

この逸話の真偽は定まっていないものの、いかにも権威や体面にこだわる光秀が言いそうなことである。その後、山崎に進んだ秀吉軍がいち早く布陣したことで、敵よりもひと足早く陣を構えて迎撃するはずが、逆に誘い出される形となり、光秀軍はかっこうの餌食となってしまった。

こうしてみてくると、光秀には本当に天下を取る気があったのかと疑いたくなる行動のオンパレードだ。この十二日間の行動の謎が解けたとき、いまだに解明されていない謎の本丸―謀叛を起こすに至った動機が浮上してくるに違いない。

 

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歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

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