仕事ができる人ほど理屈や論理を超えた“直感”を重んじる【佐藤優】

佐藤優

「ロジカルに考えること」の重要性はさんざん言われていますが、それに縛られすぎるといつの間にか思考や発想が矮小になってしまい、誰かの通った道をなぞるだけになってしまいかねません。元外交官で作家の佐藤優さんは、“ひとつ上”の仕事をしたり、心の安定を得たりするためには、論理を超えた直感に身を任せることも重要だと言います。それはどんな境地なのでしょうか。

成功している人には直観力がある

あなたは理論と直観のどちらを大切にしていますか? 意外に思われるかもしれませんが、私は断然直観派です。たとえば、ある人物が原稿の依頼に来たとしましょう。企画の内容も原稿料も特に問題はない。締め切りだってそれほど厳しくない。でも何かしら漠然とですが、不安や引っかかりを感じるときがあります。

自分でも説明がつきにくいのですが、この人物はなんとなく信用できないとか、一緒に仕事をしたくないと感じる。なぜか気が乗らない。そんなときは即断を避けたり断ったりします。

このような直観は外交官時代にかなり培われました。言葉も文化も違う外国の人たちとつき合っていく際に、何を決め手にして人物を判断するか。印象、好き嫌い、ウマが合う合わない―。もはや勘としか言えない部分で判断することも多くありました。

相手が今、何を考え何を求めているか。言葉だけで判断しかねるものを、相手の表情やしぐさなどの言語情報以外からくみとる。直観的に相手を判断するクセがつきました。

とはいえ、最も影響が大きかったのが東京拘置所に勾留されていたときの体験です。勾留中は感覚が鋭敏になります。特に音には敏感になりました。入所して1カ月も過ぎると、足音で入ってきた看守が誰かわかるようになりました。腰につけたカギに手をかけるタイミング、チャラチャラという音で、看守がどの部屋に向かっていくかも察知できた。

季節の変化にも敏感になりました。窓の外の光の具合や空気の匂いで四季の変化を感じとる。それ以前はこうしたことをあまり実感しなかったので、自分でも驚きました。

私だけじゃなく、拘置所に長くいる人はみんな身につけていた感覚です。閉ざされた世界、情報が限られている不自由な生活だからこそ感覚が鋭くなる。

猫を飼っている人はわかると思いますが、連中は人間が感じるより少し早く地震に反応します。突然猫が興奮したりおびえたりしているので何かと思っていると、その数分後に地震がくる。そんなことがしょっちゅうあります。

人間も昔は動物的な感覚を持っていたはずです。しかし文明が発達してその力が急速に衰えていった。人工的なもので囲まれ、環境の厳しさやリスクと向き合わなくてすむようになったことが大きい。世の中が便利になり成熟社会になるほどその傾向は強くなります。今の日本社会など、その典型ではないでしょうか。

そんな中、世の中で成功している人や業績を上げている人を見ると、知性や理性が優れていると同時に、この直観力を働かせている人が多いように感じます。

論理で考えることの限界

物事の捉え方には大きく分けて二通りあります。一つは、この世の中の森羅万象は理屈ですべて説明できるという考え方。もう一つは、理屈で説明できる部分は限られているという考え方です。

基本的に、自然科学の立場は前者になります。自然のあらゆる現象は論理的に説明がつくものであり、その背後にある事実を細かく要素に分け、各要素の関連を解き明かせばその現象が説明できる。少し前にブームになった脳科学なども、人間の意識も脳の機能や働きから合理的に説明がつくという考え方です。

一方、宗教や哲学などは、世の中の事象で理屈や理論で説明がつくことは限られているとします。自然や人間は、理屈では完全には説明がつかない存在だというのです。

遺伝子や人間の脳の仕組みが全部わかったからといって、それらの要素を集めて組み立てれば人間がつくり出せるか。脳の仕組みを完全に究明したからといって、たんぱく質や神経細胞を同じように配置して電気信号を流せば意識は生まれるか。

物質的なものでは還元できない事柄があるとするのが宗教や哲学の立場です。私は明らかにその立場で、どんなに科学が発達していろいろなものの仕組みが解明されたとしても、やはり自然や森羅万象には、理屈で測りきれない部分や神秘的な存在が残ると考えます。

もちろん科学や論理的な思考が不要だということではありません。その重要性と必要性を認識しながらも、その限界を常に意識しておくことが大切です。このことを端的に表しているのがゲーテの次の言葉でしょう。

「智恵ある者の最高の喜びは、知り得ることを知ろうと努力し尽くし、知り得ないことを静かに敬うことである」

人間の能力には限界がある。ただし、それはけっして絶望ではありません。むしろ自分を超えた世界があることを知り、それを敬うことで大きな喜びに変わる。私たちは限界を知ることで限界を超えることができる。それが本当に智恵ある者の態度だとゲーテは言っているのです。

社会は理屈で割りきれないことだらけ

日常生活で、私たちはさまざまな理屈通りにならないことに直面しています。最も典型的なのが恋愛です。こちらが最善の行動をとれば成功するというわけではありません。相手を心理学的に分析し思考や行動を把握したとしても、また好き嫌いを完璧に知ってそれに合わせていたとしても、こちらに好意を持ってくれる保証などどこにもない。相手の感情にかかわることを完全にコントロールすることは不可能です。

また、投資についてどんなに勉強して理論を学んだからといって、相場がそのように動くわけはありません。仮に思惑通り動いたとしても、合理的に売買行動ができるかどうかはまた別の話です。

結局、人間の存在そのものが合理的でも理性的でもありません。たとえば損をするとわかっていて、なぜ人はギャンブルをやめられないのか。確率論や期待値で考えれば、誰でも最後は損するとわかるはずです。宝くじで一等に当たる可能性は400万分の1といわれますが、相変わらず年末には販売所の前に長蛇の列ができます。

確率や期待値という以前に、胴元にテラ銭をとられることを考えれば損は明らか。宝くじは50%以上、競馬や競輪が25%、パチンコは約12・5%を胴元に徴収されたうえで、残った額を当たった人で配分します。論理的に考えるほど、ギャンブルはやらない方がいいという結論に達します。

そう理屈ではわかっていても、自分だけは別だと思ってしまう。損することより得したときの期待の方が大きく感じてしまう。人間の不合理な心理や思考は、たとえ論理的に説明されても変えることができない力を持っています。

人生には理屈だけじゃなく、そこからはみ出した「遊び」の部分が必要です。それがストレスの発散になったり明日への活力になったりする。私たちの日常は、理屈で割りきれるものだけで成り立っているわけではないのです。

理屈一辺倒の人ほど仕事ができない

日常の生活でも理屈っぽい人は敬遠されがちです。職場でも、理屈通りにしか動かない上司と一緒に仕事をしたいと思うでしょうか? 領収書の記載を事細かに詮索したり、遅刻の理由をいちいちその場で問い詰めたり―。厳しさは必要でも、毎日それをやられたらまわりは息苦しくて参ってしまう。

利害を超えた人間関係、たとえば古い友人とのつき合いなどは、まさに理屈を超えたものだと言えます。会ったところで特にお互い経済的、金銭的な利益が生まれるわけではありません。それどころかお互いに過去を知っていて、弱みを握り合っていたりします。論理的に考えたらマイナスの方が多いかもしれない。

それでも、お互いバカなことを言いながらも楽しい時間を共有できるのは、もはや理屈を超えた部分があるからでしょう。夫婦もそうですが、深い人間関係というのは理屈抜きのもの。そこに理屈を持ち出して割りきろうとしたら、その関係は崩れてしまいます。

こういう人間関係力は、当然仕事でも大いに力を発揮します。職場の関係、取引先との関係をうまくやれる人は、理屈屋でなく直観的な力が強い人物も多いはずです。

人間関係だけでなく、仕事ができる人は総じて理屈や論理でガチガチの人ではありません。ある部分では直観力で瞬時に判断し即行動に移すことができる、やわらかい思考の持ち主です。直観とは一気に結論に到達する思考ですから、当然論理的に検証して正解を出す作業より数十倍早い対応ができる。優秀な経営者や政治家などは、あまりに直観的でまわりがついていけないこともよくあります。

ただし、ここでいう直観はまったく根拠のない想像力とは違います。たくさんの経験値と論理的な思考を経たうえで、その蓄積によって途中の論理的な検証を飛び越え、一気に結論を導くことができる力です。

将棋に大局観という言葉がありますが、これがあると局面の戦いを超えた先の大きな流れが見えます。棋士は膨大な実践と棋譜の研究を行っており、その蓄積があるからこそ瞬時に判断できるのです。

気をつけたいのは、直観力が大切だからといっても、理屈や論理性を捨ててしまうわけではないこと。最低限ロジカルに物事を理解し判断する能力があるからこそ直観が生まれ、その判断が生きるのです。

“他者の存在”が希薄なこの時代

現代人の直観力が衰えたのは、向き合う対象が少なくなったことが大きいのではないでしょうか。向き合う対象、つまり「他者」の存在が希薄になったのです。

昔は神や自然、ときには自分をとり巻く共同体や家族などの絶対的な他者がいました。神や自然は宗教の中でとり上げられ、偶像化されます。神殿や寺院の前で祈り、それぞれの心の中でその存在に頼みごとをしたり、問いを投げたりして会話をしていた。

現在でも正月の初詣でお賽銭を投げて神様にお願いをします。つかの間ではあっても、そうやって何者かと向き合う時間が、私たちを普段とは別のモードにいざなってくれます。直観とは、そんな時間や心の踊り場のような空間にひらめくものかもしれません。

また共同体にしても家族にしても、昔は生まれた場所から逃れることはできませんでした。封建社会などは土地に縛られていますから、そこから外れることは世を捨てることでもあった。今でこそ田舎の生活がイヤだとか、昔ながらの人間関係から逃れたいと都会に出てくることは当たり前ですが、昔はそんな自由もなかったわけです。

土地や人間関係に縛られていること自体はけっしていいとは思いませんが、他者と向き合わなければならない状況だったことはたしかです。神や自然、地域の共同体や家族と向き合う中で、自然に人は相手の存在をイメージし、感性や直観力を磨いていったのです。

近代以降、宗教的な価値観や封建的価値観が過去のものとなりました。神や自然に代わって出てきたのが、自我や自意識といったパーソナルな存在であり価値観です。自由を確保したのは大きなことですが、自己や自我、自意識というものが生きるうえでの最高の価値になり、他者の存在が入り込む隙間が失われました。

そこから自分探しというような言葉が出てくるのだと思いますが、そもそも自分という絶対的な存在があるかどうかも疑わしい。

認識論の問題になりますが、自分の顔を本当に見ることができるかという哲学的な命題があります。鏡に映した顔は左右逆。写真やビデオはレンズや画面が歪んでいるかもしれない。自分自身は完全な自分の顔を認識できないという哲学的なパラドックスです。

似たような問題に、すべての存在は関係性のうえに成り立つというポストモダンの考え方があります。自己という絶対的な存在があるわけではなく、自分という存在は他者との関係性の中でしか定義しえない。

ですから、自分探しで自分のことばかり突き詰めて考えたとしても、タマネギの皮をむくように、いつまでたっても本質は見えてこないのです。自由を求めて故郷や家族を捨てたとしても、都会の一室で隣近所の交流もなく生活する。会社でも面倒なつき合いは一切しない。部屋に帰ってネットやゲームで時間を潰しても何か虚しい……。

自分探しに七転八倒するくらいなら、思いきって面倒だと思う人間関係に飛び込んでみる。そこで他者と向き合いながら、何か役に立つことや仕事をしてみる。他人の評価や自分を見る目が自分に跳ね返り、そのときはじめて自分というものが明確に見えてきます。

職場でもボランティアでも、何かのサークルでもいいのです。他者との関係性の中でこそ、私たちは自分自身の存在や存在意義を感じることができるのです。

 

 

PROFILE
佐藤優

1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞

「ズルさ」のすすめ

「ズルさ」のすすめ

  • 作者:佐藤 優
  • 発売日: 2017/09/01
  • メディア: Kindle版