会津戦争に敗れた松平容保が生涯離さなかった「天皇からの書簡」

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戊辰戦争に敗れ領地を没収された会津藩は、寒冷地の過酷な下北半島へ移住させられた。写真は今も自然放牧されている寒立馬。寒気と粗食に耐える
日本における唯一の革命とも言える明治維新。政情が一変するときには、どちらの側につくかでその後の運命が大きく変わるが、会津藩主の松平容保は徳川家への忠義をあくまで貫いた。それがために、その後自身と会津藩が過酷な状況に置かれることになったわけだが、その後の浮き沈みのなかでも、ある書簡を肌身離さず持ち続けていたという。

朝敵として下北半島へ移住を命じられる

幕末、会津藩主・松平容保は京都守護職となり、尊皇攘夷派と血みどろの抗争を展開した。そんな容保が鳥羽・伏見の戦い(一八六八年一月)で敗れ、徳川慶喜に随って大坂を脱出、江戸へ逃れた。江戸で慶喜に再戦を説くが聞き入れられず、容保は仕方なく領国の会津に戻り慶喜と同様、恭順謹慎の日々を送る。

しかし、官軍側にとって容保と会津藩は最大の憎しみの対象だった。容保と会津藩を見逃すことは将来に大きな禍根を残すことになると判断した新政府は奥羽鎮撫総督府を編成、朝敵・会津藩討伐に向かう。

このときの合戦(会津戦争)はすさまじいものだった。一カ月間の籠城戦で会津方の戦死者は三千人にも達した。白虎隊自刃の悲劇もこのとき起きている。その後、会津藩がたどった悲惨な運命は言語に絶した。

生き残った藩士とその家族、一部の領民たち約一万七千人は、青森県下北半島にある斗南へ移住を命じられる。斗南は一年の半分以上が雪に覆われた北方の僻地である。そんな不毛の土地を開拓することになった会津人たちは、貧しさと地獄のような寒さに耐え、必死に鍬を振るった。しかし、生活は一向に好転せず、人々は海藻や雑穀でどうにか飢えをしのいだという。

そのうち廃藩置県(明治四年=一八七一年)を迎えるが、貧しい生活は変わらない。貧困に耐えかねた会津人の多くは東京などへ流出した。最終的に三千人ほどが斗南に残り、今に伝わる西洋式牧場経営などに従事したという。

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廃藩置県で青森県に編入され、わずか2年で斗南藩は消滅した

容保の子に家督相続を許した新政府

藩主容保のその後だが、会津若松城が落城したとき、三十四歳だった。新政府の目の敵にされた松平容保という人は、尾張徳川家の分家である美濃の高須藩松平家三万石の六男として誕生した。会津藩八代目の松平容敬に男子がなく、十二歳のとき養子に入る。

当時、養子といえば家格の低いところへ行くのが普通だっただけに、三万石から二十三万石に入った容保は羨望の目で見られたという。

しかし、大藩の殿様として安穏と暮らせる時代ではなかった。容保は生まれつき蒲柳の質(体が壮健でないこと)ではあったが、男らしい芯の強さと誠実さを持ち合わせていた。そんな人柄を徳川幕府に見込まれ、だれも引き受け手がなかった京都守護職を任されることになる。容保二十七歳のときだ。まさに貧乏くじを引いたようなものだったが、容保は律儀に職務を遂行した。

会津若松城が落城し、新政府軍に降伏した容保は命を助けられ、永禁固処分と決まる。その身代わりに家老の一人が切腹して果てている。容保は因幡藩(鳥取県)に預けられ幽閉の身となる。容保や会津藩に対するこうした処分がさすがに行き過ぎたと反省したのか、新政府は容保の子の容大に家督相続を許し、会津松平家を存続させた。容大は廃藩置県後に東京へ出て、学習院から近衛騎兵隊に入り、のちに子爵に叙された。

後年、明らかになった書簡の存在

明治四年三月、容保は自宅謹慎に切り替えられ、翌五年正月に晴れて赦免となる。そればかりか、九年には従五位に叙されて名誉を回復、その後も累進して正三位までのぼった。十三年には上野と日光の東照宮、そして二荒山神社の宮司となり、最晩年までその職にあった。いかにも生真面目な容保らしい徳川家への忠義の尽くし方である。

しかし、自分たちを見捨てたかつての主君・徳川慶喜を日光に迎えたときはさすがに心中複雑だったに違いない。

一応、名誉を回復したとはいえ、「朝敵」の汚名はそう簡単に消えるものではなかった。もともと、容保は孝明天皇に最も信頼されていた大名だった。それが証拠に、二度も内密の宸翰(天皇直筆の文章)を贈られていた。その一通は容保の忠誠を称える文になっており、容保に信頼を寄せていたことがよくわかる。

しかし、容保自身、天皇の書簡のことを一切口外することはなかった。書簡が入った箱をいつも首から下げ、他人に触れさせなかったという。白虎隊をはじめ無数の家臣や領民たちに辛い犠牲を強いてしまったことに対し悔いを残していた容保は、天皇の書簡を唯一の生きるよすがとして自らを慰めたのであろう。

明治二十六年、容保が会津若松において五十九歳で亡くなったとき、はじめて書簡の存在が明らかとなった。

 

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