「リーダーは孤独なくらいでちょうどいい」野村克也さんの至言

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プロ野球解説者・野村克也さんが逝去されたのは2020年の2月11日。野球界屈指の強打者、名捕手、知将でありつつ、試合後の会見やインタビューで残された名言やボヤキは、今も多くの人の記憶に残っています。野村さんの名言から、“野村イズム”の神髄をご紹介します。

【名言1】
「『正しい努力』はけっして裏切らない」

私は京都の片田舎で育ち、甲子園には縁遠い弱小野球部の出身だ。そんな中で、プロ野球選手になることを夢見て、キャッチャーが手薄な南海(現・福岡ソフトバンクホークス)の入団テストを受けて、プロ野球の世界にギリギリで滑り込んだ。

そんな底辺からのプロ野球人生のスタートだったから、生き残るために歯を食いしばり、必死に頭を使い、懸命に体を動かした。

その結果、曲りなりにも甲子園や六大学出身の花形スター選手たちにも負けない実績を残すことができた。それは取りもなおさず、自分が才能にあふれた人間ではなかったからだ。才能がないという自覚があったからこそ、さらなる上を目指して、努力し続けることができた。そうしなければ生き残れない世界でもあった。

野球というのは奥が深い。弱者が強者に勝つことができるスポーツでもある。頭の使い方、努力の仕方次第では、才能がなくても天才に勝てる。二流でも一流を超えられる。それを実証してみせられたのではないかというのが、65年超のプロ野球人生を振り返っての私のささやかな自負である。

そして、その土台にあるのは、自分をよく知り、自分に足りないものを見極め、そのために何をすればいいかを求め続ける「正しい努力」だろう。

「正しい努力」はけっして裏切らない。そのことによって最後に笑えるのは、野球も人生も同じだ。

【名言2】
「リーダーは孤独なくらいでちょうどいい」

私は南海のプレーイングマネージャー時代から楽天に至るまで、監督時代は一度たりとも選手と食事に行くことはなかった。選手の仲人を引き受けたことも一度もない。グラウンド以外で親睦を深めるようなことはまったくしなかった。

理由は二つある。一つは、個人的に仲良くなると、監督が持つべき厳しさがゆるむからだ。「かわいがっているから多少打てなくてもいい」。仲良くなれば、こうした人情が働くのは当然のことだ。ならば、最初から互いの距離を近づける必要などない。むしろ近づくことで、いうべきことがいえない関係性を築いてしまうことになるわけだ。

もう一つの理由は、私の経験が大きい。南海で選手をしていた頃、私以外の選手、とくに六大学の出身者は当時の鶴岡監督によく食事に誘われていた。

そのときに決めた。自分が上に立ったら、ひいきはしない。グランド以外で特定の選手とつきあい、他の選手の気持ちを揺らし、チームの和を乱すようなことは一切しない、と。

【名言3】
「チームの勝利を目指しておのおのが取り組んだ結果が、個の成績になる」

私は野球エリートではなかっただけに、野球をしている間、「誰かに支えられて生きている」という意識がずっとあった。

チームメイト。コーチや裏方のスタッフ。応援してくれるファン…「大勢の人が自分を支えてくれている」と認識していると、粘りが違ってきた。ここ一番の勝負どころで、もうひと踏ん張りできる。自分の名誉や成績だけしか見ていない人間は、このひと踏ん張りが出ない。逆に気負って空回りする。

たとえば、私は現役時代、657本のホームランを打った。それなりの個人記録だ。しかし、ホームランを狙って重ねてきた数字ではない。「俺が俺が」とホームランを狙って打席に立つと、バッターというのは必ず力み、読みもフォームもおかしくなるものだ。

チームのため、勝利のために「確実にヒットを打とう」と考えるから、全神経をピッチャーの投げる球に集中できた。ムダに力むことなくバットを振れた。

それがホームランにつながり、結果的にチームに勝利を引き寄せたのだと感じている。「個の成績がチームに対する貢献になる」という考え方がある。逆だ。「チームの勝利を目指しておのおのが取り組んだ結果が、個の成績になる」のだ。

だから、監督になってからも、私は選手たちに「チームのために戦え」「他人への感謝の気持ちを忘れるな」と常にいってきた。この二つは同じ意味だ。力を出し切り、成果を出し続けるためのモチベーションの火を灯し続けろということだ。

多くの仕事が同じだと思う。自分のことだけ考えて仕事をする者は長く続かない。人ひとりの力は、それほど強くないのだ。

 

PROFILE
野村克也

1935年京都府生まれ。京都府立峰山高校卒業後、54年にテスト生として南海ホークスに入団。球界を代表する捕手として、戦後初の三冠王、歴代2位の通算657本塁打など数々の大記録を打ち立てる。70年より選手兼監督。その後、ロッテ、西武と移り80年に現役引退。90年にはヤクルトの監督に就任、9年連続Bクラスだったチームを、4度のリーグ優勝、3度の日本一に導く。その後、阪神、楽天等で監督を歴任。2020年2月逝去。