“倍返し”する人が知らない「復讐するは我にあり」の意味【佐藤優】

佐藤優

誰もが誰かの恩を受けつつ、誰かに恩を与えながら生きているものですが、人間関係が希薄化してきた昨今では、そのような意識はあまり尊重されないかもしれません。だからこそ、あらためて「恩」について、そしてそこから生じる「仇」について、作家の佐藤優さんと一緒にもう一度考えてみましょう。

受けた恩は忘れがち

誰でも、これまでの人生でお世話になった人、力を貸してくれた人が一人や二人は思い浮かぶはずです。そういう人たちに受けた恩をしっかり返せているでしょうか? 出世払いでまだ十分返せていないという人もいるかもしれません。

しかし、その気持ちがあるだけでずいぶん違います。残念ながら、してもらったことさえすっかり忘れてしまっている人が少なくない世の中ですから。

実は、人の認識というのは非対称になっています。自分が与えた情けは大きく、受けた恩は小さく感じてしまうのです。よくありませんか? 部下と飲んで自分がいつも多く払っているつもりなのに、なんだか部下は少しもありがたがっていない。完全にオゴって、ようやく少しありがたがられる程度……。

逆もまた真なりで、自分がしてもらったことは、相手が思っているほどは恩に感じていないものなのです。

昔の言葉に「受けた恩は石に刻み、かけた情けは水に流せ」というものがあります。人間はわがままで自己中心的な生き物だから、ほうっておいたら恩を忘れてしまいがちだし、自分がかけた情けは恩に着せがち。昔の人の英知がこの言葉に表れています。

だから、自分では恩に感じているつもりでも、お世話になった人は「どうも、ありがたく思われていないようだ」と苦々しく感じている可能性もあります。自分では少し過剰だと思うお返しをするくらいで、ようやく両者の意識が釣り合うわけです。

ところが、そういう意識とはかけ離れた世界もあります。それを実感したのが外務省に勤めていたころ。力のある政治家にすり寄って、「先生のご恩は一生忘れません。浮くも沈むも一緒です」などと言っていた官僚たちが、状況が変わると態度をガラリと変える。そんな光景をたくさん見てきました。まさに「受けた恩は水に流し、かけた情けは倍づけにする」タイプです。

〝恩知らず〟が育ちやすい時代

社会の価値観や仕組みも大きく関係しています。最近の経済合理主義、利益至上主義が、恩に応えない人間をたくさん生み出していると言えなくもありません。

かつて封建時代の武家社会には、「御恩と奉公」という明確な関係がありました。主人が従者に対して土地を与え(御恩)、それに対して軍役や経済負担など(奉公)でお返しをする。

日本の武家社会では、恩を仇で返すというのは主人への冒涜であり、命にかかわることでした。受けた恩を心に刻み、それにいかに応えるかが前提だった時代です。

明治維新後、近代になってその意識が劇的に変わります。主従関係や家族関係で人生の枠組みの大部分が決まる社会から、身分制がなくなり、学問を身につけ自分の力で生活基盤を築いていく社会になった。そうなると、人々の意識は大きく変わります。主従関係や家族主義に代わって、欧米流の個人主義の考えが広がってくる。

そこから時代は進みますが、バブル以前は家族や地域社会のつながり、会社内の人間関係が今より強かった。その中でお互いに恩を感じたり、かけたりしていたはずです。

ところがバブル以降、高度消費社会、金融資本主義、新自由主義などで資本主義が高度化してくると、決定的にその意識が変わりました。競争の中で少ないパイを奪い合う。いかに自分が得をするか、利益を上げるかが問われる。

会社内の人間関係も希薄になり、相手をダマしてでも出し抜くことを考える。そんな世の中では、恩を感じてそれに報いるなどという意識が生まれる余裕はありません。むしろ、平気で恩を裏切り仇で返す人間が生き残る。残念ながらそれが現実でしょう。

復讐は神に任せる

こういう世の中だからこそ、もう一度「恩」とは何かを考える必要があります。もちろん、中世の封建主義に戻れということではありません。今の世の中における「恩」とはどういうものか、そしてそれに応えるにはどうしたらいいかを考えるのです。それが、これからのビジネスや生き方を考えるヒントになります。

とは言っても、この世知辛いビジネス社会で「恩」を受けたことなどほとんどない、という人もいるかもしれません。ブラック企業に勤めていて、毎日上司のどなり声の下で仕事をしている……。

そんな人にとっては、会社や上司から「恩」を受けるどころか、さまざまな仕打ちを受け続けて反感と憎悪しかないとしても不思議はありません。

その意味で、少し前に『半沢直樹』というドラマが流行したのも頷けます。理不尽な上司、えげつない会社のやり方に「倍返しだ!」と叫ぶ。現実にはない仇打ちの物語に溜飲を下げた人も多かったでしょう。ただし、私は最後まで馴染めなかった。

「倍返し」は2013年の流行語大賞になり、2020年には続編が放映されました。しかし「倍返し」という言葉の恐ろしさや虚しさを、どれだけの人が知っているでしょうか。

実はこれこそ憎しみの連鎖と増幅の論理であり、民族紛争の論理なのです。イスラエルとパレスチナの紛争をはじめとした世界の紛争が止まないのは、やられたらそれ以上にやり返さないと気がすまないという負のスパイラルに陥っているからです。

これをどこかで止めなければなりません。それには、「やり返さない」という選択ができるかどうかが大切です。「倍返し」を続けていては、いずれお互いが滅んでしまう。そんな恐ろしい言葉が子どもたちの口から無邪気に飛び出してくることに危機感を覚えます。

「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ法典は、一見すると過激な法律だと思われるかもしれません。しかしその本質は、倍返しをさせないという点にありました。目をやられたら目をやり返す。歯をやられたら歯をやり返す。つまり、やられた分だけしか報復してはいけないということです。

争っている当事者をそのままにしていたら、感情に任せてつい倍返しをしたくなる。そうなると憎しみがエスカレートするだけ。社会全体にとってもマイナスです。

法治国家はこの復讐のスパイラルを防ぐことに一つの意味があります。トラブルが起きたとき、当事者同士の怒りや憎しみに任せるのではなく、司法という社会の仕組みの中で罪を裁量し刑を定める。そうすることで報復の連鎖を食い止められます。

また、「復讐するは我にあり」という言葉をご存じでしょうか。新約聖書「ローマの信徒への手紙」12章19節に出てくる言葉です。一見すると復讐をすすめているかのように聞こえるかもしれませんが、まったくの逆です。

その意は「復讐は人間がするのではなく、神が行うもの。神の怒りに委ねよ」ということです。この場合の我とは、神が自らを指して言っているのです。人間同士が復讐し合ってはいけない。人間には人間に復讐する権利はないのです。

キリストは言います。「剣を収めよ。剣で滅ぼすものは剣で滅びる」。それどころか、続く20〜21節では「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」、そして「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはならない。善をもって悪に打ち勝て」と言っています。右の頬を打たれたら左の頬を出せと言ったキリストの教えにつながります。

法治国家である私たちの現実社会では、神の位置に法があります。犯罪は法が裁く。時代は違えど、個人的な復讐の感情だけで個々が勝手に仇を討つようになると、それは復讐の連鎖になってしまう。

「倍返し」という言葉は一時的な流行にすぎなかった。そう言える社会であってほしいものです。

 

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佐藤優

PROFILE
佐藤優

1960年東京都生まれ。85年、同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省。在ロシア日本国大使館勤務を経て、95年、同省国際情報局分析第一課主任分析官。2002年、背任及び偽計業務妨害容疑で逮捕。09年、背任及び偽計業務妨害の有罪確定で外務省を失職。13年、執行猶予期間を満了し、刑の言い渡しが効力を失う。捜査の内幕を描いた『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)が05年に出版されると大反響を呼ぶ。『自壊する帝国』(新潮社)で第38回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞

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