日本史における最大の裏切り者・小早川秀秋の意外な実力と実像

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小早川秀秋(1577?~1602年、享年26)――安土桃山時代の大名。豊臣秀吉の正室高台院の甥。関ヶ原では史上最大の裏切り劇を演じた。関ヶ原後、備前岡山城主になるが、すぐに謎の若死にを遂げる。

家康に天下を取らせた男

戦国期を代表する「裏切り者」といえば、誰しも小早川秀秋の名をいの一番にあげるだろう。一時は豊臣家の跡継ぎ候補にもなりながら、天下分け目の関ヶ原の戦いでは豊臣方を裏切り、敵方の徳川家康に勝利をもたらした秀秋。

彼の裏切りがなければ、のちの徳川の世は訪れなかったか、あるいは訪れたとしても、あれほどすんなりとは家康の手に天下の覇権が移らなかったはずである。

そんな秀秋は、関ヶ原の二年後にわずか二十六歳で早世した。その死因については、『備前軍記』などによれば、ある日鷹狩りに出かけ、無礼討ちにしようとした農夫に反撃され股間(睾丸)を蹴られて悶死した、小姓を手討ちにしようとして逆に返り討ちにあった、裏切り者といわれ続けたために酒におぼれて体を壊した、あるいは関ヶ原で死んだかつての味方にあの世から呪い殺された──など様々な説があり、確かなことは不明だ。

この記事では秀秋の実像に迫りつつ、関ヶ原から亡くなるまでの〝晩年〟をどう生きたかについて述べてみたい。

三成への憎しみと家康に対する恩義

小早川秀秋は天正五年(一五七七年)の生まれ(天正十年説もあり)で、関ヶ原のときは二十四歳、死亡したのは二年後の慶長七年(一六〇二年)のことである。豊臣秀吉の妻北政所の兄木下家定の子で、天正十三年に義理の叔父である秀吉の養子となり、元服後、羽柴秀俊を名乗る。

このころから、秀秋同様秀吉の養子となっていた豊臣秀次に次ぐ豊臣家の有力な後継者候補と周囲からみられたが、文禄二年(一五九三年)、秀吉に実子秀頼が誕生すると運命が急転。翌年、秀吉の命により小早川隆景(毛利元就の三男)と養子縁組をさせられ、小早川秀秋となった。

文禄四年、隆景の隠居により、その所領であった筑前(福岡)・名島城主となり、三十万七千石を相続する。

慶長二年、二十一歳になった秀秋は日本軍の総大将として朝鮮出兵に参加。秀秋にとっては初陣である。このときの蔚山城の戦いで秀秋は、敵軍に包囲され全滅の危機に瀕していた加藤清正の軍勢を救うため、自ら槍を引っ提げて敵の包囲網を蹴散らし、敵将を生け捕りにするという華々しい活躍をみせている。

のちにこのことを伝え聞いた秀吉から「大将のすることではない」と秀秋は厳しく叱責されたそうだが、後世の小説やドラマでよく知られた「臆病者」というイメージからは程遠い勇猛果敢さだ。

ところで、これまで通説とされてきた天正十年誕生説をとった場合、この朝鮮出兵の際は十六歳ということになり、これでは若すぎる。

慶長三年八月に秀吉が亡くなると、秀秋は筑前に戻り、朝鮮の役で疲弊した領国を立て直すために「年貢の免除」など農村の復興に務めている。

そして運命の関ヶ原合戦(慶長五年=一六〇〇年)。秀秋は一万五千余の大軍勢を率いて西軍(豊臣方)に参加した。このときの秀秋の心はすでに西軍から離れており、九分九厘、東軍(徳川方)に味方する腹積もりだったとみられている。

なぜなら秀秋には、秀頼が誕生して以来、叔父秀吉から疎んじられてきたという実感があり、もうひとつ、家康に大きな「借り」があったことも見逃せない。

それは朝鮮の役に遡る。蔚山城での活躍を評して石田三成が「大将の器に非ず」と秀吉に言上した。そのため秀秋は秀吉の怒りを買い領国筑前を召し上げられ越前(福井)への大減封の国替えを命じられてしまう。

なにもかも三成の讒言(人を陥れるために事実を曲げて目上の人に報告すること)によるものだと思い込んだ秀秋は、のちに伏見城で三成と出会った際、怒りにまかせて三成を斬ろうとさえした。

それを制したのが、たまたまその場に居合わせた家康である。このとき家康のとりなしがなければ、秀秋の運命はもっと悲惨なものになっていたはずである。これが「借り」の一つ。

さらにまた、秀吉が病死したためにその国替えはなされなかったが、のちに家康が五大老の名において、筑前は元通り秀秋のものであると宛行状を出したことで、秀秋は家康に二つめの「借り」をつくってしまったのである。

つまり、三成は自分を讒言によって追い落とそうとした憎い男であり、一方の家康は自分の窮地を二度も救ってくれた大恩人であったわけだ。

このときの秀秋の心情を思えば、関ヶ原での寝返りは全面的に味方を裏切る卑怯な行為であるとは言い切れないように思えるが、いかがだろう。

城下町や農地の整備で岡山の礎を築く

関ヶ原の戦いが終結後、秀秋の軍勢はただちに三成の父石田正継が守備する佐和山城を攻めている。堅城をうたわれた佐和山城だったが、秀秋軍はこれに猛攻撃を仕掛け、わずか半日で陥落させている。城攻めにおいても秀秋は凡将でなかったという証明だ。

こうした活躍もあり、戦後の論功行賞において秀秋は旧宇喜多秀家領の岡山藩五十五万石に加増・移封された。

岡山に入った秀秋は、居城の岡山城を改築するとともに、領内の総検地の実施、寺社の復興、農地整備など急速な近代化を推進した。文字通り、岡山の礎を築いたといっても過言ではないのだ。

最も有名なのは「二十日堀」で、従来の岡山城の外堀の外側に、新たに二倍の幅を持つ総延長約二・五キロメートルの堀をつくって城下町の拡大を図った。この工事には領内から多くの人々を動員し、わずか二十日間で完成させたという。

岡山城

小早川秀秋といえば、その没後、「裏切り者」「日和見」「臆病で暗愚」……など様々なマイナスイメージで語れられてきたが、そうしたイメージと、かつての領国筑前やこの岡山でみせた数々の見事な政治手腕とはどうしても相容れないものがある。この齟齬は一体なぜ生まれたのだろうか。

江戸の世になり、豊臣恩顧の大名たちが軒並み冷遇されたり、家を取り潰されたりしたことからもわかるように、ときの権力者がかつて自分が服従した為政者を殊更悪く言い立てるのは世の常だ。

現在の為政者である徳川が喜ぶように豊臣の縁につながる秀秋を悪者に仕立てたということは十分考えられる。若くして急死し、その死の真相が謎に包まれていることもあって余計に話に尾ひれが付いてしまった。

 

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歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

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