天皇になろうとした道鏡、それを阻んだ和気清麻呂の意外な「その後」

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栃木県下野市には、復元された下野薬師寺の回廊がある。宇佐八幡宮神託事件の主役である道鏡は、この寺院に左遷された。
和気清麻呂(733~799年、享年67)奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。皇位を狙った妖僧・道鏡の思惑を阻止したことで流罪となる。のちに赦され、実務官僚として重用された。

女帝の病を祈祷で治す

日本の歴史上、政治に影響を与えた僧侶も数多いるが、奈良時代後期に登場した弓削道鏡は、その最右翼であろう。なにしろ、一介の僧侶の身でありながら天皇に成ろうとしたのだ。これほど大胆不敵な暴挙は、後にも先にも例がなかった。

怪僧とも妖僧とも言われた道鏡は最初、病気を癒す祈祷僧にすぎなかった。たまたま近江(滋賀県)の保良宮において、女帝孝謙上皇(のちの称徳天皇と同一人物、上皇は天皇譲位後の尊称)の病を祈祷によって回復させたことから運が開け、女帝の寵愛を一身に受けることになった。

その後、女帝のあと押しで僧侶としては最高位の法王の地位にまで昇った道鏡は、最終的にはこともあろうに天皇の地位を望んだが、それは宇佐八幡宮の神託で拒否され、ついに失脚してしまう。

そんな「天皇に成ろうとした男」道鏡は失脚後、一体どんな人生を歩んだのであろうか。道鏡の天皇即位を、身を挺して阻止した和気清麻呂の知られざる晩年とあわせて紹介してみたい。

異例の超スピード出世

道鏡は河内国(大阪府)の豪族弓削氏の出身で、奈良時代が始まった八世紀初頭に生誕したと考えられている。父母の名は不明だ。名前からもわかるように、弓を作る一族の末である。

道鏡の出家した時期はわからないが、最初に法相宗(南都六宗の一つ)を学んだらしい。しかし、大人しく寺にこもって教学を身につけるというよりも、もっぱら深山幽谷に分け入って道なき道を走ったり滝にうたれたり──といった修験者に近い難行苦行に明け暮れたようである。

孝謙上皇に病気見舞いを行ったのは天平宝字六年(七六二年)四月のことで、ときに上皇は未婚の四十五歳。対する道鏡は確かな生年は未詳だが五十代半ばとみられている。当時としては二人とも老境に差し掛かった年齢と言ってよい。

後世、二人の間に恋愛感情があったとも言われているが、年齢を考えると疑わしい。上皇にすれば、自分の病を治してくれたことで道鏡への信任を厚くし、さらにまた、相手が部外者だからこそ安心して政治に関しての悩み事を打ち明けていたのだろう。そうした仲のよさを周囲が勘ぐったというのが本当のところではないだろうか。

このころ中央政界では、左大臣藤原の武智麻呂の次男仲麻呂(恵美押勝とも)が幅を利かせていた。仲麻呂は、孝謙上皇が氏素性もはっきりしない祈祷僧を寵愛することを心配し、ときの淳仁天皇を通じて上皇に道鏡を遠ざけるよう諌めさせたという。しかし、上皇はこれに猛反発したため、仲麻呂は七六四年、道鏡の排除を名目に兵を挙げたのである。

ところが、孝謙上皇の命を受けた仲麻呂追討軍(大将は吉備真備)は精強で、たちまち仲麻呂軍を琵琶湖西岸の三尾に追いつめ、仲麻呂以下その一族をことごとく捕えて処刑したのだった。

この藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱とも)が終息すると、上皇は称徳天皇として復位(重祚)し、道鏡を大臣禅師に任じている。左大臣に相当する高位だった。その後道鏡は翌七六五年には太政大臣禅師となり、天皇の臣下で最高の地位につくと、翌年には法王となって天皇に準じる立場となった。孝謙上皇と知り合ってからわずか四年目という、まさに超異例のスピード出世だった。

清麻呂を抱き込む道鏡

七六九年、九州の神社を統轄する阿曽麻呂という者から、「道鏡を皇位につかせれば、天下は太平になるだろう」という宇佐八幡宮の神託があったと、朝廷に報告がもたらされた。

『続日本紀』によれば、阿曽麻呂が道鏡に媚びて神託をでっちあげたものだったという。当時、宇佐八幡宮は九州一円は言うに及ばず、その神威は全国にとどろいていた。

喜んだ称徳帝は、神託を確かめるため、儒学者で清廉潔白の人柄で知られていた和気清麻呂を宇佐へ派遣することにした。道鏡は清麻呂が使者に決まると高価な贈り物をし、「帰京したら高い官位を与えよう」と清麻呂の耳元でささやいたという。

ところが、宇佐から清麻呂が持ち帰った神託は称徳帝と道鏡の二人には意外なものだった。「わが国は開闢以来、君臣が定まっている。臣下を君とすることはできない。天皇には天皇の血筋の者を立て、無道の者は速やかに除くがよい」という内容だったからだ。

これを聞いて称徳帝と、「無道の者」道鏡は激怒した。二人は「清麻呂が嘘をついた」と決めつけ、清麻呂の官位をはく奪し、あまつさえ別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて、大隅国(鹿児島県)へ流してしまったのである。

その後、称徳帝は二度と道鏡を皇位につけようとはしなかった。内容はどうあれ正式に下った神託に対し、それを覆すことはさすがにはばかられたのであろう。

この神託事件があった翌年(七七〇年)の八月、称徳帝が五十三歳で崩御した。すると、藤原百川らが白壁王(のちの光仁天皇)を立てて皇太子とし、喪に服していた道鏡を、下野国(栃木県)の薬師寺別当(別当は寺務を管理する役目)に左遷した。

そして、その二年後、一代の怪僧弓削道鏡はこの下野国で亡くなった。葬られたときは庶民の扱いだったという。

道鏡の呪いを畏れる

ここで注目したいのが、道鏡の都落ちはあくまで「左遷」であって、罪人としての島流し的な「配流」とは違うということだ。『続日本紀』にも「発遣(派遣と同義)」という表現が使われており、配流でなかったことがうかがえる。

そもそも下野薬師寺という寺は当時、奈良の東大寺や筑紫(福岡県)の観世音寺などと肩を並べるほどの格式の高い名刹であった。東国における仏教施策の一翼を担う重要な寺院として位置づけられていたのである。

罪人がそんな名刹に送り込まれるわけがない。本当に配流であれば、もっと田舎の名もない荒れ寺に送られたはずである。

この地で道鏡は比較的自由に暮らしていたらしく、薬師寺の近くで河内という郷里の名を付けて住んでいた。道鏡のあとを慕って称徳帝の女官たちも集団で移住して来たという。

道鏡はまた、いくつかの寺を創建することにも熱心に取り組んでおり、今日残っている寺では小山市宮本町の持宝寺(新義真言宗)が道鏡の開山によるものだという。同寺には、道鏡と孝謙天皇によって創建されたことを記した梵鐘が伝わっている。

ところで気になるのは、天皇の地位を簒奪しようとしたほどの極悪人が、なぜ殺されることもなく、「左遷」という軽いお咎めで済んだかということだ。それについては推測の域を出ないが、道鏡による復讐を中央の貴族たちが畏おそれたからではないかとみられている。

道鏡の供養を盛大に執り行う

なにしろ道鏡は密教占星術「宿曜道」の大家で呪術を得意としただけに、藤原一族など中央の貴族たちは、へたに道鏡の恨みを買って呪い殺されでもしたらたまらないと考えたのだ。

こうした感覚は現代人には納得できないかもしれないが、この当時、中国から伝わった道教の影響で、困ったときや良くないことが起こったり、病気になったりしたときに、それを払いのける術として呪術が大流行していた。

それは今日、平城京跡から呪術に使われたと思われるたくさんの呪いの人形が出土していることでも明らかだ。なかには、目や心臓部に釘が打たれた人形までみつかっている。誰かを呪い殺そうとしたなによりの証拠と言えよう。

そのためか、道鏡の死を伝え聞くと中央の貴族たちはようやく厄介払いができたといったんは胸をなでおろしたものの、道鏡なら死んでもあの世からわれわれを呪い殺すくらい朝飯前だ、と誰かが言い出したため、あわてた貴族たちは道鏡の供養を盛大に執り行うよう命じている。

それは道鏡が亡くなって九年目のことだった。きっと道鏡は、あの世から貴族たちのこうした狼ろう狽ばいぶりを見ていて、少しは腹の虫がおさまったに違いない。

和気清麻呂は平安京遷都の推進者に

さて一方の道鏡の皇位簒奪を阻止した「正義の人」、和気清麻呂のその後についてもふれておこう。

道鏡が失脚後、清麻呂は光仁天皇のはからいで都に戻され従五位下に復位し、名誉を回復した。そして、播磨(兵庫県)や豊前(福岡県)の国司(地方官)を歴任した後、新しく即位した桓武天皇の下で有能な実務官僚として律令政治の立て直しなどに尽力する。

清麻呂の晩年の功績で最も大きいのが、「鳴くよウグイス」で知られる平安京の建設に中心的人物としてかかわったことだ。

桓武帝は七八一年に即位後、地理的不利を内包していた奈良の平城京に見切りをつけ、平城京の北方約四十キロメートルにある長岡の地に新しい都を建設しようとしていた。ところが、洪水の被害や日照りによる飢饉、疫病の大流行、皇后ら桓武帝の近親者の相次ぐ急死……などにより新都建設は途中でストップしていたのである。

この状況を憂慮した清麻呂は、ある日のこと、狩猟にことよせて桓武帝を京都・東山にお連れし、京都盆地を一緒に見下ろしながら、「ここなら唐の長安や洛陽にも負けないすばらしい新都を建設できることでしょう」と述べた。

清麻呂、正一位にのぼる

桓武帝は清麻呂のこの意見に動かされ、即座に長岡京の建設を中止し、葛野方面(京都市)への再遷都を命じた。そして、その新都づくりの最高責任者(造宮大夫)に抜擢された清麻呂は、鴨川の流れを変える土木工事を行うなど、いくつもの治山・治水事業を推進し、その後の京阪神地区発展の礎を築くことになる。

七九九年、天皇に成ろうとした男の野望を砕き、晩年はありあまる才能で平安遷都実現の推進者となった古代史の英雄は六十七歳でこの世を去った。時代は下って、明治三十一年(一八九八年)、ときの明治帝が、皇室にとっては大恩人にあたるこの清麻呂に対し、薨後千百年を記念して正一位の位階を追贈している。

 

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歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。

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