元結不動(もっといふどう)密蔵院 住職
ストレスをうまく発散できる人、できない人の違いとは
ある人にとっては常識でも、ある人にとっては常識ではないことが世の中にはたくさんあります。「坊主の常識、世間の非常識」だけでなく、「男の常識、女の非常識」など、ちょっと探せば街中の郵便ポストの数くらいはあるでしょう。
それほど、同じ状況に遭遇しても、人の対応はさまざまです。切羽詰まった、あるいは緊張を強いられる状況でも上手にストレスを発散できる人もいれば、発散できない人もいます。
上手に発散している人の中には、それまでの経験で「こういうときは、こうすればストレスがやわらぐ」と知っていて、意識的に発散している人がいます。あるいは、意識して発散しているうちにそれが染みついて、意識しないのに発散できている人もいます。
ストレスを受けるような状況の中で、上手に発散している人の発散方法をいくつかご紹介しましょう。
心をリフレッシュするために深呼吸する人、歯磨きをする人、ストレッチをして体だけでなく心までほぐそうとする人もいます。
これは日常の中で使っている心や体のリフレッシュ法の条件反射を利用して、ストレスがかかる状況の中でもそれを使って上手に発散する方法でしょう。いわゆるルーティーンの活用です。
仕事のプレゼンテーションなど、人前で話さなくてはいけないとき、緊張して乾く唇を蛇のように何度も嘗める私のような人もいます。そんなときの緊張をやわらげるために昔から言われている方法に、「聞いている人の頭をカボチャだと思え」があります。
あるとき、ドキドキしている私の横で、先輩が「君のドキドキは、心の応援団が手拍子して応援している音だよ」と言ってくれて、ドキドキが勇気に変わったことがありました。
ドキドキを心の応援団が出している音と思えるようになってから数年たったある日、「あなたは人前で緊張しないで話ができるようですが、コツはなんですか」と聞かれました。私はすぐに、
「人前で話すときはいつだって緊張していますよ。緊張していなければ相手に失礼です」
と答えました。
緊張をいけないものとしないで、そのまま楽しむ──これもまた、私の緊張を力に変える方法です。
他にも、ストレスがかかるのは楽な状態ではありませんから、せめて楽しむ算段はないかと考えることがあります。「ラク」と「タノシイ」は同じ漢字(楽)ですが、楽でなくても楽しむことはできると思うのです。
上手に発散できる人は、ストレスをとり除いたり、ストレスを別の力に変えたり、ストレスをストレスとして受け入れるなど、たくさんの方法を知っていて、その時々に応じて方法を変えたり、試したりしていて、自分なりの成功法にたどり着いています。
あなたが発散上手ならば、問題はありません。しかし、周囲に発散が下手な人がいたら、「こんなふうに考えて、こうするといいかもね」とアドバイスしてあげてはいかがでしょうか。
「苦」への対応はそれほど難しくない
私たちが日々抱く、「ちぇっ」「嘘でしょ」「何でだよ!」などのネガティブでマイナスの感情を総称して、仏教では「苦」と言います。
苦の定義は「自分の都合通りにならないこと」です。この定義に反論の余地はないように思われます。
私たちは、物事が自分の思い通りになっていればイライラもしないし、文句も言わなくてすみます。ですから、ネガティブでマイナスの感情が起きるのは、いつだって自分の都合が
仏教は、この苦から解放されることに特化したコンテンツと言っていいでしょう。いつでも、どんなことが起こっても苦から離れ、心おだやかでいるための教えが、2500年説き続けられてきたのです。
洋の東西を問わず、昔から苦をなくすための方法は二つあります。
一つは西洋的な考え方で「努力して都合を叶える」方法。
私たちの家にある掃除機、冷蔵庫、洗濯機、エアコンなどの家電製品などの発明品は、ことごとく私たちの都合を叶えるために作られました。おかげで暮らしの中の苦が少なくなり、楽になりました。
苦をなくすもう一つの方法は、インドや東南アジアの文化圏の「都合そのものを少なくする」という方法です。
仏教の考え方もこれに当たります。この方法を消極的だとして嫌がる人がいますが、心おだやかな人になるという目標のためには、あなどれない方法です。
昼時にレストランに入ったらお客さんが満員でウンザリ顔になったら、「まあ、昼時に来る私がいけないのだ」と納得すれば、混んでいるのは仕方がないと、キレイに諦めることができて、苦は減ります。
天気予報でにわか雨の予報が出ていたのに高を
何十年も生きているのですから、苦への対応は早めに身につけておきたいものです。その対応策は、それほど難しいことではありません。
イラッとしたり、不安になったり、頭にきたなど、どうにかしたい問題が持ち上がったら(仕事でも、家庭内でも、趣味でもどんなものでもかまいません)、まず、自分はその状況をどうしたいのかという自分の都合を考えます。
そのうえで、
1)自分の努力だけで、どうにかなるか
2)自分の努力だけでは、どうすることもできないか
3)自分の努力だけではどうしようもないけれど、自分が努力すればどうにかなる可能性があるか
を、判断します。
たとえば、バスに乗ろうとバス停に行ったところ、走り去っていくバスの後ろ姿が見えて眉間にシワが寄ったら、まず「私はあのバスに乗りたかったのだ」と自分の都合を明確にします。
次にやることは、自分の都合は自分の努力で叶うものなのか、自分の努力だけでは叶わないのかを判断することです。これからダッシュでバスを追いかければ次のバス停で乗れるか、バス会社に電話して自分のために臨時のバスをすぐに出してもらえるかなど。
自分の努力だけでどうにかなるなら、努力すればいいでしょう。欲しいものがあれば、お金をためるという自分の努力だけで願いは叶います。
しかし、自分の努力だけではどうしようもないなら、さっさと諦めたほうがいい。
自分の努力だけでどうにもならないことにイライラしても、意味はありません。
私は日常の中で「こうしたい」「こうなればいいのに」と思ったとき、この三つの判断に分けて乗り越えることにしています。まがりなりにも、この方法で乗り越えられなかったことは一度もないので、私にとっては正攻法と言えるでしょうし、多くの人にも通用する方法だと思っています。
自分の理想と異なる現実に出合って、三日以上モヤモヤしているのは馬鹿げています。
とっとと対応を決めて取りかかるに越したことはありません。やったことが上手くいかなかったらまた、そこで考えればいいのです。
同じ問題にいつまでも不平を言い続け、悩んでいられるほど、人生は長くありません。
「言うは易し、行うは難し」ですが、この簡単な手順を知って、少しでも実践すれば、心の風通しがよくなり、イライラの種が
イライラの種を発散させるために最も大切なのは、「私は今、イライラしている」「マイナスでネガティブな感情を持っている」と自覚することです。
この気づきがなければ、苦から解放されるのは至難の業でしょう。イライラしても、それに気づき、三つの判断に分けて手段を講じればいいのです。
1958年、東京都江戸川区小岩生まれ。元結不動密蔵院住職。真言宗豊山派布教研究所研究員。豊山流大師講(ご詠歌)詠匠。大正大学を卒業後、英語教師を経て、25歳で明治以来住職不在だった密蔵院に入る。仏教を日常の中でどう活かすのかを模索し続け、写仏の会、読経の会、法話の会など、さまざまな活動をしている。著書に『気にしない練習』(知的生きかた文庫)、『いちいち不機嫌にならない生き方』(青春新書プレイブックス)などがある。