千代田区神田駿河台にある「ニコライ堂」は正教会の大聖堂。信徒である杉原千畝はここで教鞭をとっていた
日本政府の命令に背いてビザを発給
日露戦争で名をはせた日本の軍人に乃木希典と東郷平八郎がいる。乃木は難攻不落を誇った旅順攻囲戦の指揮で知られ、東郷は当時世界最強艦隊をうたわれたロシア帝国海軍バルチック艦隊を撃破した。
当時、ロシアから虐げられていた周辺国のフィンランドやポーランド、トルコなどでは今日でもこの二人は日本の英雄として教科書にも記載されるほど国民の多くから敬愛されている。
一方、トルコと同じ西アジアにあるイスラエルでも、ある一人の日本人が国民の敬愛を集めている。その人物こそ、第二次世界大戦で大勢のユダヤ人の命を救った杉原千畝である。
のちに杉原はイスラエル政府から、日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を贈られている。さらに、同賞のゴールデンプレート(ユダヤ民族で世界に偉大な貢献をした人物もしくはユダヤ人が忘れてはならない恩恵を与えてくれた人物の名を刻んだプレート)に、あのモーゼやメンデルスゾーン、アインシュタインらと並んで名を刻まれるという栄誉に浴しているのだ。
肝心の日本での知名度はもうひとつだが、杉原千畝とは第二次世界大戦が始まった当時、バルト海沿岸のリトアニアの日本領事館に領事代理として赴任していた外交官である。
杉原はナチス・ドイツのユダヤ人狩りから逃れてきたポーランド難民を救うため、日本政府の命令を無視して大量に日本通過ビザ(入国査証)を発給し、難民を日本経由で米国本土などへ逃したのである。
一体、杉原はなぜ日本政府の命令に背いてまで、縁もゆかりもないポーランド難民を救ったのだろうか。さらに、終戦後に杉原の身に待ち受けていた波瀾の後半生についても以下で詳述してみたい。
大学を中退してハルビンに渡る
杉原千畝は明治三十三年(一九〇〇年)一月一日、岐阜県八百津町に生まれた。学業が優秀で、父の好水は医者になることを期待したが、千畝はそれが嫌で、入学試験の当日、母が作ってくれた弁当だけを食べて受験せずに帰宅してしまう。その後、怒った父から千畝は勘当を言い渡されている。のちに外務省の意向に背いてまで己の意志を押し通した千畝らしい逸話である。
その後、語学が堪能だった千畝は英語の教師を目指し、早稲田大学高等師範部英語科予科に入学する。二年生になって大学の図書館で外務省の官費留学生の募集広告を見たことが人生の転機となった。これなら海外で語学が身につくうえに、のちに外交官に採用されるというのも魅力だった。
この試験に見事パスした千畝は大学を中退し、大正八年(一九一九年)十月、ロシア語留学生としてハルビンに渡る。十三年には正式に外務省に奉職。そして、満州とフィンランドで勤務した後、リトアニア日本領事館領事代理に任命されたのが昭和十四年(一九三九年)、三十九歳のときだった。
約六千人の難民にビザを発給する
昭和十五年七月二十七日の早朝、リトアニアの首都カウナスにある日本領事館の建物は、ナチス・ドイツによってポーランドを追われてきた大勢のユダヤ系難民に取り巻かれていた。彼らは生きるためシベリアを通過して日本経由で米国へ行くことを望んだのである。
杉原はすぐに日本の外務省に大量ビザ発給を認めるよう打電したが、外務省は日独伊防共協定を盾にその申し出を拒絶する。杉原は一晩悩んだ末に、訓令違反のビザ発給を決断するに至る。
のちに杉原はこのときの気持ちを聞かれ、
「わたしは目に涙をためて懇願する彼らに同情せずにはいられなかった。この人々をどうして見捨てることができようか。見捨てればわたしは神に背く」
と純粋に人道的、博愛的精神からユダヤ系難民を救ったと説明している。
領事館の門が開いた瞬間、建物を取り巻く群衆は狂喜し、大歓声を上げたという。この領事館はあと一カ月ほどで閉鎖が決まっていたが、杉原はその日から出国直前まで難民たちに「命のビザ」を書き続けた。用紙が足りなくなるとありあわせの紙を利用してまで書き続けたという。
最終的に杉原は約六千人の難民にビザを発給した。難民たちは杉原に心からの感謝の言葉を述べると、シベリア鉄道で大陸を横断していった。そして、ウラジオストクに到着すると船で日本に渡り、米国本土などへと旅立っていったのである。
映画『シンドラーのリスト』で、オスカー・シンドラーが助けたユダヤ人は約千二百人といわれている。それも、自身の軍需工場で働く労働者が中心だった。その点、杉原は縁もゆかりもないユダヤ人を六千人も救ったのだ。われわれは同胞としてこの人道・博愛主義者の杉原千畝をもっと誇ってよいはずである。
外務省に復職するもすぐ解雇される
リトアニアがソ連に併合された後、杉原はドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアの各日本領事館に勤務する。そして、第二次世界大戦が終結してルーマニアで抑留生活を送った後、昭和二十二年四月、ようやく帰国することができた。
杉原はすぐに外務省に復職したが、二カ月ほどたって当時の事務次官から呼び出しを受ける。それは寝耳に水の解雇通告だった。リトアニア時代、独断で大量にビザを発給した責任をとらされたのだ。上意下達を旨とする役人社会にあって、それに従わない杉原は「異分子」でしかなかったのである。
その後の杉原だが、妻と三人の子を抱え、占領下の混乱の中で必死に生き抜いた。職探しに困り果て、コメの担ぎ屋になろうと考えたこともあったという。しかし、彼の卓越した語学力がその窮状を救った。
東京PX(進駐軍向けの商業施設)の日本総支配人を皮切りに貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務。昭和三十五年からは「川上貿易」モスクワ事務所長として、再びソ連の地を踏んだ。その五年後には「国際交易」のモスクワ支店代表となる。
こうして杉原は忙しくも平穏な日々を過ごすことになる。「命のビザ」の逸話も歴史の中に人知れず埋もれていくはずだった。しかし、その平穏が一本の電話によって突然破られることになる。
それは杉原六十八歳のときで、イスラエル大使館に勤務するニシュリ参事官からの電話だった。同参事官は杉原に面会すると、ぼろぼろになった「杉原ビザ」を見せながら、
「あなたはわたしのことを忘れたでしょうが、わたしたちは片時もあなたのことを忘れたことはありません。あなたに感謝の気持ちを伝えたくて、この二十八年間ずっとあなたのことを探し続けていました」
あふれる涙をぬぐおうともせず、そう告白したのである。
外務省が正式に陳謝
翌年、杉原はイスラエルに招待され、バルハフティック宗教大臣から丁重なる歓迎を受ける。かつてリトアニアの領事館で出会った難民側の代表を務めていた人物である。同大臣は、あのときのビザ発給が杉原の独断であったことをこのとき初めて知り、しかもそれが原因で外務省を退官させられたことを杉原から聞くと、大いに驚き、かつ心からの同情の言葉を述べたという。
その後の杉原だが、七十五歳で「国際交易」を退職しモスクワから日本に帰国する。昭和六十年、八十五歳のときにイスラエル政府から「ヤド・バシェム賞」を受賞し、その翌年の七月三十一日、杉原は鎌倉市内の病院で静かに自らの人生の幕を引いたのである。享年八十六。
後日談として、平成十二年(二〇〇〇年)に当時の河野洋平外務大臣が、「外務省として杉原氏にご無礼があったことをお詫びしたい」と語ったことに触れておかねばなるまい。あれから半世紀が過ぎ、杉原千畝の名誉はようやく回復したのである。
歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。