中野駅も山手線の一部だった!? 日本一有名な路線に隠された真実

山手線

東京の中心部をぐるりと回って走っているのがJR東日本の山手線だ。外周り、内回りのどちらを走っても都心を34.5キロで一周でき、郊外に延びる私鉄沿線も山手線の駅から出発し、首都の交通の中心となる路線である。東京を走る電車で最も知られた路線といってもいい山手線だが、実際は一般的なイメージとはかけ離れた姿を持ち、謎多き一面を持つ路線であることをご存じだろうか。

【山手線の謎その1
本当は輪になっていない?

山手線は運転系統を表す名称としては環状の路線区間を指しているが、正確には環状線になっていない。本当の山手線の路線は、田端~新宿~品川という円の西側の区間だけで、残りの田端~東京間は東北本線、東京~品川間は東海道本線の支線なのだ。

さらに、その中の新宿~代々木間と東京~神田間は中央本線というとてもややこしい路線である。山手線というのは便宜上の名称であり、実態はつぎはぎの路線を走行していて、それを環状運転しているに過ぎない路線なのだ。

山手線

もともとは環状運転をするために建設された路線ではない山手線の路線の一部が完成したのは明治時代のことだった。その後、東京が都市として発展していくのにつれていくつもの路線ができ、東京の中心部をぐるりと回って走るコースが、求められた結果、1925年(対象14年)から現在のような環状線での運行になったのであった。

山手線はグルグルと回っているように思われるが、正式には起点は品川、終点は田端ということになっている。

【山手線の謎その2
かつては中野駅も含まれていた?

昔の山手線に、中野駅が含まれていたと聞くと、「どうやったら中野駅を通過できるのか」と首をかしげられる方も多いだろう。

中野駅は新宿駅の西側に飛び出しているため、現在の山手線で見ると、山手線の外側にある。山手線の支線として、新宿~中野間の運行があったのかと思いたくもなるが、実際はそうではない。昔の山手線が現在の環状線とは異なる形での運行だったのだ。

では、どのような形での運行だったのか?中野駅を山手線が通るようになったのは、山手線が環状線になる6年前の1919年(大正8年)のことである。その当時の山手線は「のノ字運転」といわれるイレギュラーな路線形態だった。新宿の西にある中野駅から東に向かって新宿駅を通り、お茶の水から南下して東京、品川と向かい、今度は西から北へ、路線がぐるりと回って渋谷、再び新宿を経由して池袋に北上し、そのまま東へ曲がって田端を通り、上野を終点とした。

地図上で当時の山手線の路線をみると、なんとなく「の」という字を描いているようにみえる。そこで、「のノ字運転」という言葉が生まれたのである。

「のノ字運転」の山手線、現在でいえば中央線と山手線がミックスしたような路線となるが、実のところ、「のノ字運転」が始まったきっかけは、中央線が東京駅に乗り入れるようになったことが大きく影響している。

中央線が東京駅に乗り入れるようになると、郊外から都心部への交通手段が確保され、通勤ができるようになった。とはいえ、中央線で東京駅まで出てきたものの、そこから職場に迎えるようにするには、さらに中心部の交通網を充実させる必要があった。とはいえ、鉄道施設は大事業で、新たな路線を建設するとなると莫大な予算と時間がかかる。

そこで目を付けたのが、既存の路線をつなぎ合わせて都心部の交通網を効率的にするアイデアだった。中野~神田までの「中央線」(東京駅まで乗り入れているが、中央線としては神田まで)、神田から東京までの「東北線」、品川から田端までの「山手線」、田端から上野までの「東北線」をつないだのだ。つまり、現在のつぎはぎで出来た山手線の原型でもある。

このアイデアのおかげで、乗客は路線が違うからということで、乗り換えをしなくてもよくなり、利便性は大幅に向上した。乗客からの評判も上々だった。

すべての電車が「のノ字運転」をしていたわけでなく、乗客数に応じて中野~池袋、中野~品川、品川~田端といった部分的な運行が行われた。「のノ字運転」が忠実に行われたのは、片道107回の運行のうち83回だったので、7割強だったということになる。

環状線にするためには、「のノ字」路線に、上野~東京間を加えるだけで良かったが、当時はまだ池袋~上野、神田方面への乗客はそこまで多くはなく、急を要する必要もなかったのであろう。

【山手線の謎その3
「やまて線」が正しい呼び方だった時代があった?

江戸時代に「ご府内」と呼ばれた江戸の中心地を取り囲むように敷かれたのが山手線だ。「山手線の内側に家を持ちたい」などとあこがれを意味する形容詞として「山手線の内側」が使われることも多く、現在でも首都・東京の中心部は山手線の内側という意識が根強い。

山手線は今、「やまのて線」と呼ばれている。これは由緒ある呼び方で、山手線のベースになった明治時代に創設された品川線に始まるものだ。品川から渋谷、新宿を遠って赤羽まで走っていたこの路線は沿線のほとんどが田園地帯だった。

当時は武蔵野台地の東端にあたる「淀橋台」「本郷台」に位置する「山の手」と呼ばれる地帯だった。このため地元の人たちが「やまのて線」と呼ぶようになったという歴史がある。一方で上野の山の東側に広がる低地は「下町」と呼ばれ、線路がこの2つの地域の境目となる役割も果たしていた。

ところが、第二次世界大戦後のGHQ占領下での1945年(昭和20年)、路線名のローマ字表記を求められた当時の国鉄が表記を「YAMATE」としてしまい、山手線を「やまて線」と呼ぶことになってしまう。

そもそも国鉄内部では「やまのて」を縮めて「やまて」と呼ぶことが国鉄内部では用語として浸透していて、ローマ字表記の誤りは当時の担当社のミスともいわれているが、それも仕方がないことだったのかもしれない。

それ以降、戦後はずっと「やまて線」と呼ばれ続けていたが、東京23区が東京市と呼ばれていたころから、東京に住み続けていた人たちや文化人からは、呼びの乱れが指摘され続けてきた。1835年(明治18年)に創業した日本鉄道の品川線は地元の人たちの呼び名に従って、1901年(明治34年)に山手線を正式名称に改称し、「やまのて線」と呼んでいたというのが文化人たちの指摘の理由だった。

こうした動きもあり、1971年(昭和46年)に国鉄が全国の路線の駅名や呼び方の統一を図った際、「やまのて線」という明治時代からの呼び方が復活することになった。

【山手線の謎その4
当初は建築資材を運ぶ路線だった?

山手線のベースとなった品川線は、1885年(明治18年)、当時、日本最大の私鉄として知られた日本鉄道が開通した。同社は東日本を中心に路線を延ばしたが、横浜港に陸揚げされた鉄道の資材を運ぶための路線が必要となった。そのために敷設されたのが品川線だった。新橋から赤羽に達し、ここで上野~熊谷間の路線に接続。鉄道資材はこの路線を通って北へと運ばれていったのである。

品川線が運んだのは建築資材だけではなかった。当時の日本の代表的な輸出品だった生糸などが、品川線を経由して群馬県の高崎方面から横浜港に運ばれていった。品川線は日本経済を支える輸出ルートの一端を担っていたといえるだろう。

現在は通勤通学で大勢の乗客を運ぶ山手線は、日本の経済を支え、国民の生活を守る役割を担っているが、明治時代には貨物輸送を第一の目的に建設され、日本の国土の開発や貿易を支えていたのである。

 

PROFILE
櫻田純

1959年東京都出身。子供時代に東海道新幹線開業、蒸気機関車廃止、路面電車廃止など鉄道激変期を経験する。神奈川県立瀬谷高校、学習院大学では鉄道研究会の代表を務める。現在は民間企業の管理部門に勤務する傍ら、趣味で国鉄時代の鉄道車両を模型で再現している。主な著書に『カラー版「乗り鉄」バイブル』(中経出版)、『最新 歴史でひも解く鉄道の謎』(東京書籍)などがある。

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