国会の創設を求めて運動
「百円札」を知らない世代が増えている。全体が茶系の紙幣で、印刷された肖像画は板垣退助。細面で目がギョロリと大きく、立派な髭をたくわえた、あの顔である。
板垣退助は天保八年(一八三七年)、土佐藩で馬廻役の子として生まれた。のちに同じ政治家となる後藤象二郎とは一つ違いの遊び友達である。
戊辰戦争では、板垣は東山道先鋒総督府参謀として抜群の戦功を挙げている。廃藩置県後、参議となるが、明治六年(一八七三年)、征韓論争に敗れて西郷隆盛と共に下野する。
このとき板垣は西郷に、「政治が一握りの人間によって動かされるのはおかしい。欧米のように選挙で選ばれた国民の代表が政治を行うべきだ。私はこれに一生をかける」と宣言したという。
明治十年、板垣は国会の創設を求めた「立志社建白」を天皇に提出するが、却下される。十四年、わが国最初の全国的政党である「自由党」を結成、総理に就任する。以来、板垣は民権運動のシンボル的な存在となる。
十五年四月六日、それは岐阜遊説中に起こった。演説を終えて帰ろうとした板垣は突然暴漢に襲撃される。板垣は胸など数カ所を刺され、重傷だった。
犯人は二十七歳の小学校教員相原某。相原は父母宛ての遺書で「勤皇の志止み難くして国賊板垣を誅す」と記していたが、それ以上のことは一切語らなかった。後年有名になる「板垣死すとも……」の言葉は随行の竹内綱らが党本部宛ての書簡に、板垣の言として引用したものだが、本当にそのとき板垣が吐いた言葉かどうか真偽は定まっていない。
政界引退後は社会福祉事業に携わる
板垣は傷が癒えると後藤象二郎らと欧州諸国を巡遊する旅に出る。この旅の費用は政府が三井財閥の陸軍省御用を三年間延長することを条件に、三井から出させたものだった。
のちに、このことが大問題に発展する。外遊から戻った板垣は自由党内部から金の出所について厳しい追及を受け、進退窮まった板垣は十七年、解党に踏み切る。二十年、五十一歳になった板垣は伯爵を授けられる。このため三年後に帝国議会が創設された際、板垣は衆議院議員になれなかった。
爵位を持つ者は貴族院議員になることが決まっていたからである。ただし、大臣になることは問題がなかった。国会創設に合わせて自由党を再結成し党首となった板垣は、日清戦争後の二十九年、第二次伊藤(博文)内閣で内務大臣の座につく。
三十一年、わが国初の政党内閣である憲政党・大隈(重信)内閣でも板垣は内務大臣を務める。憲政党は進歩党の大隈と自由党の板垣が協力して結成した政党だ。いわゆる隈板内閣である。
この内閣は内紛によって四カ月であっさり崩壊する。その後、板垣は内務大臣の職権で憲政党の看板を握るが、策士の伊藤博文に乗っ取られ、伊藤の政友会に吸収されてしまう。
ここに至り、失意の板垣は政界引退を表明する。六十四歳のときである。政界を退いたとはいえ、大物だけにしばらくは板垣の周りに生臭い噂が絶えなかった。自由党を再結成しようという動きに担がれかかったこともあったが、結局は頓挫した。
財産はほとんど残さず
四十年、七十一歳のときに「社会改良会」の総裁に就任。労働者の保護や盲人教育などの社会福祉事業に携わる。晩年は清貧の生活を続け、大正八年(一九一九年)、八十三歳で亡くなった。
板垣という人は清廉潔白な人柄で、金や名誉にはおよそ無頓着だった。たとえば明治二十年七月の新聞では板垣の財産について「猟犬三匹、家鴨 二十羽、猟銃二挺」と伝えている。
板垣が政界を上手に泳ぎきれなかった理由はそのあたりにありそうだ。この気質は息子にも受け継がれ、没後、子の鉾太郎は父の遺志を守って伯爵相続を辞退した。
歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。