“ハラキリ”を世界に広める契機となった幕末の「泉州堺事件」とは

切腹前

明治新政府がスタートしたのは慶応三年だが、実はこの年、当時の日本政府を大いに悩ませた、ある外交問題が起きていたことはあまり知られていない。土佐藩兵とフランス人水兵が銃撃戦を繰り広げた、いわゆる「泉州堺事件」だ。仏兵を銃撃したとされる土佐藩兵二十人は切腹となったが、切腹は十一人までで中止となり、残り九人は助命されている。いったい何があったのか。そして、生き残った九人の土佐藩兵たちはその後どうなったのか――。

内戦の混乱で日本側に伝わらず

慶応四年一月二日(一八六八年一月二十六日)、鳥羽伏見において薩摩・長州藩の兵と旧幕府軍が激突する。それこそが、翌明治二年五月十八日(一八六九年六月二十七日)に箱館戦争が終結するまで約一年五カ月間にわたって続いた「菊」と「葵」の戦い――戊辰戦争の始まりだった。

この鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に大勝した薩摩・長州軍は天皇から錦旗を与えられ、晴れて「官軍」となり、旧幕府軍は天皇に反逆する「賊軍」と成り果てる。それから一カ月後の二月三日、「征討の大号令」が発せられ、同月十五日には大総督府参謀となった西郷隆盛率いる東征軍が江戸へ向けて進発した。

事件はまさにその二月十五日(一八六八年三月八日)に泉州堺で起こった。夕刻になり、たまたま堺港沖に停泊していた仏海軍の軍艦「デュプレクス」から、端艇に分乗して数十人の水兵が上陸してきたのである。

実は、同艦の艦長プティ・トゥアールは事前に日本側に書簡で上陸許可を求めていたのだが、鳥羽・伏見の戦いの直後の混乱で日本側にそのことがうまく伝わっていなかったのだった。一部の水兵たちは、町内を闊歩しながら傍若無人に神社仏閣や民家に立ち入ったり、若い女性を見ると取り囲んでからかったりしたという。

切腹に臨む二十人をくじで選ぶ

このとき、朝廷から町の警備を要請されていたのが土佐藩で、彼らは押っ取り刀で駆け付けると、水兵たちを必死に身振り手振りで港に戻そうとした。ところが、水兵たちはそれに逆らい、土佐藩兵を愚弄する態度に出る始末。

そのうち一人が土佐藩の隊旗(錦旗説も)を奪って逃走を図ったことから、土佐藩兵が発砲。これがきっかけで銃撃戦となったが、多勢に無勢でフランス兵たちはたちまち港へと追い立てられる。

こうして仏兵側に死者十一人を含む十六人(二十二人説も)の死傷者を出して事件は終息した。事件から四日後の二月十九日になり、駐日フランス公使ロッシュから、犯人の処罰などを求める抗議文が明治政府に届く。

そもそも事件の原因は、日本側の許可も出ていないのに町をうろつき、町民や土佐藩兵らに乱暴狼藉を働いた仏兵側にあるのだが、当時の日本とフランスの国力の差は歴然で、しかも内戦のさなかにあったことから、明治政府は涙をのんでロッシュの要求を受け容れてしまう。

こうして仏兵を銃撃したとされる土佐藩兵の中から犯人探しが始まった。フランス側との事前の話し合いで処刑は二十人と決められていたため、隊長二人と小頭二人の責任者四人を除いた十六人を選ぶため、発砲を認めた二十五人でくじ引きが行われ、その十六人を決めたという。大半が足軽など下級武士だった。

“ハラキリ”に驚愕するフランス人たち

二月二十三日、堺の妙国寺において日仏両国の関係者が立ち会うなか、土佐藩士二十人の処刑が執り行われた。

藩士たちはひとりずつ名前を呼ばれると作法通りに割腹して果てた。彼らの表情や態度からは取り乱したり怯えたりする様子は微塵も見受けられなかった。これは、切腹という武士にとって名誉の死を与えられたことに対し一定の満足感があったことに加え、「ここで怯懦な振る舞いを見せては日本の侍の面目が立たない」と考え、自分を固く戒めていたからにほかならない。

ひとり、またひとり……と凄惨極まりない藩士たちの割腹や介錯人による斬首を見せられ、驚いたのはフランス人たちだった。たちまち顔色が青ざめ、嘔吐する者が続出。なかにはその場で失神してしまう者までいたという。

死んでいく藩士の中には、傷口から露出した自らの腸(はらわた)をズルズルと引きずりだし、そのままフランス人に投げつける豪の者まで出るに及んで、とうとう我慢が限界を超えたのか、フランス側から「処刑中止」の声が日本側にかかる。

それは丁度、十二番目の橋詰愛平が自らの腹に短刀を突き立てようとしたときだった。

国のために戦った結果が流罪とは……

仏側の言い分はこうである。「事件における当方の被害者は十一人。それと同じ数だけ処刑がなされた以上、もはや十分である」と、威厳と鷹揚さを見せつつ述べたが、本心はこの場から一刻も早く逃げ出したかったのだ。それが証拠にフランス人たちは、切腹を懇願する橋詰愛平の声を無視し、挨拶もそこそこにその場を立ち去ったという。

このときのフランス人たちによって、東洋の島国日本には、「ハラキリ」という固有の自害方法が存在することが世界に広まったと言われている。

さて、すんでのところで命が助かった九人の土佐藩士たちだが、その後どうなったのだろうか。生き残った橋詰らは切腹を覚悟していただけに、きっと屋根に上って梯子を外されたような心持ちだったに違いない。

特に橋詰の場合、自分が助かったことが赦せなかったらしく、二日後に舌をかんで自害を遂げようとしたが、発見が早く助かっている。その後、橋詰ら九人は土佐の四万十川沿いの入田という村に流罪と決まる。

このとき九人の面々は土佐藩に対し、「国のために異人と戦ったのに、流罪とは納得がいかない」と一様に主張したが、藩重役から「朝廷のお達しだから、どうにもならない。そんなに長くはならないはずだから、しばらく辛抱してくれ」と懇願され、渋々従ったという。

「攘夷浪士たちとは一緒にしてほしくない」

九人は入田に入るとき、袴帯刀から駕籠まで用意された。しかも、村では尊敬のまなざしで人々から迎えられ、庄屋である宇賀佑之進預かりという厚遇を受ける。彼らは村人に学問や剣術を教えるなどしておだやかな日々を過ごしたと伝わる。

そのうち明治の改元に伴う恩赦があり、入田滞在中に一人(名は川谷銀太郎、享年二十六)が病死したものの、自由の身となった残り八人はそれぞれ元気に自分の故郷に帰った。

結局、彼らが入田に滞在したのはわずか半年ほどであった。八人のうち横田辰五郎という者がのちに絵入りの詳細な記録を残していた。割腹して死んでいった仲間や自分たち生き残った者たちの名誉を回復することが狙いだった。

その記録の中で横田は、「堺の治安を守るため自分たちは警備兵として任務を果たしたに過ぎない」と強く主張していた。当時はやっていた、過激な攘夷浪士たちと一緒にしてほしくないという思いがあったからに違いない。

また、一度は舌をかんで死のうとした橋詰愛平の場合、割腹して亡くなった十一人の墓が妙国寺北隣の宝珠院という寺に建てられると、明治十年(一八七七年)に亡くなるまでその墓守を続けたという。

仲間十一人が割腹したとき、橋詰は四十代だった。死んだ十一人はすべて橋詰よりも年下の二十~三十代で、「若い者を死なせてしまった」と橋詰は死ぬまで後悔していたそうである。

 

 

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