国民の約六%が突然リストラに
平安時代に発生し、はじめは貴族(公家)の用心棒的な存在に過ぎなかったものが、いつしかその武力にものを言わせて貴族から政権を奪い、以来七百年近くも日本史上に君臨した存在──それが武士である。
明治維新を迎えた時点で、一体、全国にどれだけの武士(士族)がいたかご存じだろうか。明治五年(一八七二年)初頭に編製された「壬申戸籍」によると、卒族と呼ばれた中間などの武家奉公人を含まない士族の人口は全国に二十五万九千戸、百二十八万二千二百人(家族を含む)を数えた。
卒族の十六万六千九百戸、六十五万九千百人を足すと、ざっと百九十四万人となる。これは当時の日本の総人口(三千三百十一万人)の約六%を占める。
江戸幕府の解体によって、この百九十四万人もの人々が、突然生計の途を断たれてしまったのだ。まさに、日本史上最大の人員削減政策であった。農民たちから米を横取りするだけでなんら生産活動に従事しなかった彼らは、さっそくあしたからの生活に困ることになった。
そんな時代の転換期を、士族たちはどうやって乗り切ったのだろうか。静岡県で荒地の開墾事業を成功させた旧幕臣たちの例を見ていくことにしよう。
旧幕臣の半分が慶喜に随って静岡へ
幕府の解体でもっとも大きな被害を蒙ったのは、やはり屋台骨が大きいだけに徳川家に仕えていた旧幕臣たちだった。当時、旧幕臣の数は旗本六千弱と、将軍に御目見がかなわない御家人二万六千を合わせて三万人強いた。
彼らの旧主である徳川慶喜は、このたびの幕府の解体で新政府の命令により八百万石から七十万石にまで減らされ、同時に徳川家ゆかりの駿府(静岡)への移封を命じられている。とてものこと、この財力で三万人を養うことは無理だった。
そこで徳川家では駿府へ移る前に、家臣に対して新政府に官吏として出仕することや、徳川家に御暇願を出し一介の庶民となって農業や商業につくことを提案した。
ところが、急激な変化を好まない旧弊な考えの持ち主が多く、半分近い一万四千もの家臣が慶喜に随って駿府についていくことを望んだため、慶喜をがっかりさせたという。
しかし、駿府へ行けばなんとかなると希望的観測を持っていた旧幕臣たちの期待は見事に裏切られてしまう。徳川家から頂戴する禄はほんの雀の涙だったため、その日食べるものにも困るありさまだった。
そこで仕方なく、一部の士族たちが始めたのが、開墾・干拓事業であった。
不毛の大地を茶園に造成
静岡県中西部の大井川流域に牧之原と呼ばれる洪積台地がある。江戸から移ってきた士族たちはここに約千五百町歩(千五百ヘクタール=東京ドーム三百二十個分)もの広大な土地を新政府から与えられている。
そこは扇状地だけに石ころが多い荒地だったが、ほかに生計のアテがない士族たちは刀を鋤や鍬に持ちかえてつらい開墾作業に従事した。米作には適さなかったが、水はけがよい赤土で弱酸性、気候も温暖で、茶樹栽培にはうってつけだった。
明治二年(一八六九年)から開墾作業をスタートし、その二年後に茶園が造成され、明治六年から収穫──茶摘みが始まったという。
こうして、いちやく静岡は日本有数の「茶処」となった。このときの旧幕臣たちの血のにじむような努力がなければ、国内屈指のお茶ブランド「静岡茶」は生まれていなかったかもしれないのだ。
この旧幕臣による静岡・牧之原のほか、士族が中心になって行った開墾事業としては、庄内(山形)藩士族による鶴岡・松ケ丘の開墾、福島県士族による安積原野(現在の郡山市)の開墾、栃木県の士族結社による那須野が原の開墾などがある。
慣れない重労働に悲鳴を上げる
新政府の幹部たちはこうした開墾・干拓事業を奨励することで失業士族を救済しようと考えたわけである。ところが、牧之原の例などは別にして、そのほとんどが失敗に終わっていた。
それはそうだ、明治維新を迎えるまでに条件のよい場所は豪商や豪農の財力によってほとんど開墾されており、耕作に適さない極度の荒れ地ばかりが残されていたからだ。
しかも、士族たちは慣れない重労働に悲鳴を上げ、せっかく政府から交付された土地を商人や農民に安く売り払い、転業する者が続出した。金融業者に容易に土地をだまし取られる例も珍しくなかったという。江戸時代という泰平の世を安閑と過ごしてきたツケがここにきて回ってきたのである。
しかし、これには明るい面も存在する。この明治維新というのは封建制社会から資本主義社会へと移行する過渡期に当たる。
こうした農地の開墾によって、従来はどれだけ主君に対し忠勤に励んでも親代々から俸給が変わらなかった士族の胸の中に「働いた分だけ収入が増える」という資本主義社会の基礎が醸成されていったことは間違いないだろう。
歴史の闇には、まだまだ未知の事実が隠されたままになっている。その奥深くうずもれたロマンを発掘し、現代に蘇らせることを使命としている研究グループ。