武田勝頼は織田信長に敗れた後もなぜ版図を拡大できたのか

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徳川家康が建立した景徳院(甲州市田野地区)の境内には、武田勝頼の墓がある。
甲斐の武田信玄といえば戦国期を代表する武将だが、その偉大な信玄の跡を継いだのが息子の武田勝頼だ。後世の史家の多くはこの勝頼に対し、「無能な後継者」「背伸びしすぎた凡将」……などなどマイナス評価を与えてきたが、実際は近代になり、勝頼への評価は少しずつ変わりつつある。

三人の兄たちがいなくなり後継者に

武田勝頼は信玄と、その側室である諏訪御料人との間で信玄の四男として誕生した。諏訪御料人の実家である諏訪氏は信濃の名門一族で、武田とのそれまでの敵対関係を解消するため信玄が側室として迎え入れたのだった。

勝頼の誕生は父信玄から期待されたものでなかったことは、その名前からよくわかる。勝頼の上の、信玄の正室から生まれた三人の兄たち(義信、信親、信之)はいずれも父の名前から「信」の一字を頂戴していた(いわゆる偏諱を賜っていた)のに対し、側室の子の勝頼にはそれがなかった。

ところが、嫡男は信玄に対し謀叛を企てたという理由で粛清され、二男は若くして僧籍に入っており、三男は夭折していた。そのため、まるで期待されていなかった勝頼に突如スポットライトが当たってしまう。

それは、永禄十年(一五六七年)のことで、嫡男義信の自害により勝頼が実質的な後継者に指名される。家中には諏訪氏をよく思わない勢力も多く、勝頼の前途多難さを暗示させた。その後、正式に家督を相続したのは元亀四年(一五七三年)の信玄の急死後で、勝頼二十八歳のときであった。

信玄が亡くなると、頭上の巨大な重しが取り除かれたことでそれまで守勢に回っていた織田信長と徳川家康の逆襲が始まった。勝頼はその攻撃を跳ね返すため積極的に外征に打って出る。いよいよ勝頼の真価が問われるときが来たのだ。

最大版図を築き上げる

勝頼は天正二年(一五七四年)二月、美濃へ侵攻して織田方に属していた明知城を攻略する。その勢いのまま同年六月には徳川方についていた遠江の高天神城を落城させた。

とりわけ、高天神城は戦国最強をうたわれた父信玄さえも落とせなかった難攻不落の要塞だっただけに、それを陥落させたことで勝頼は有頂天となり、以来、家臣の忠告を聞かなくなったと『甲陽軍鑑』に記録されている。

翌天正三年、勝ちに驕った勝頼は、徳川方に奪われていた三河の長篠城を攻める。これが武田の運命を変える合戦となった。ご存じのように織田・徳川の連合軍によって武田軍は信玄以来の有力武将を数多戦死させ歴史的大敗を喫したのである。

ここで武田の命運も尽きたかのように思われたが、どっこい勝頼はしぶとかった。その後も勝頼は検地の断行などで内政の充実に努める一方、軍事面も怠らず、結局、天正七年(一五七九年)ごろには父信玄の時代をしのぐ最大版図を築き上げたのである。

ところが、快進撃も長続きしなかった。上杉謙信亡きあとの上杉家での後継者争い、すなわち「御館の乱」に巻き込まれたことがきっかけだった。これは謙信の甥で養子の上杉景勝と、相模の北条から入った養子・上杉景虎(北条氏政の実弟)との争いだが、勝頼が景勝を支援したことから、北条氏政は激怒。それまでの武田との同盟(甲相同盟)を一方的に破棄してしまう。こうして北条という強力な同盟者を失ったツケはすぐに勝頼に回ってきた。

勝頼の先見の明が曇った?

ここで疑問なのは、なぜ勝頼は同盟関係にあった北条を裏切るような真似をしたかということだ。勝頼が二十四歳のとき、いったん甲相同盟は破たんするが、その二年後に復活。天正五年、三十二歳のときには同盟強化のため氏政の妹・桂林院を自らの継室(後妻)に迎えているほどで、両国の絆は強固だったはずだ。それなのになぜ……。

この疑問に対する明確な答えはまだ出ていない。一説に、勝頼の先見の明が曇ったことと、上杉景勝方に武田がうまく利用されたからだと言われている。なぜそう言えるのか、その理由を簡単に述べてみたい。

景勝と景虎の養子二人による跡目争いが激化すると、それを心配した北条氏政は勝頼のもとへ使者を送り、景虎への支援を要請した。勝頼はその要請にこたえる形で隣国越後に出陣する。

この時点で勝頼は積極的に景虎を支援して他国の内乱に首を突っ込む気持ちは毛頭なかったらしい。もしも越後で戦闘が激化すれば、留守にした領土を織田や徳川にすかさず侵略されることは火を見るよりも明らかだった。さらにまた、景虎が後継者となって越後を掌握した場合、わが領土の北からも東からも「北条の目」を意識させられることになり、勝頼にはそれが耐えられなかったのだ。

景勝の参謀役、直江兼続の入れ知恵か

そこで勝頼は、争いに加わるのではなく、養子二人の仲裁役を買って出た。これが功を奏し、内乱はいったん収まる。このとき景勝方は勝頼に対し密かに、黄金と領土の割譲を条件に支援要請をしたとされている。

争いが一段落してほっと安堵したのもつかの間、徳川軍が駿河にある武田方の領土に進攻したとの急報に接し、勝頼はあわてて越後を引き揚げることに。すると、景勝と景虎は待ってましたと争いを再開してしまったのである。

このとき景勝は、「勝頼との取り引きが成功し、武田はわが方の味方になってくれた」と国の内外に向けて喧伝したと言われている。おそらく、景勝の参謀役であった直江兼続あたりの入れ知恵であろう。

これを真に受けたのが、相模の北条氏政だった。弟景虎の支援を要請したはずなのに、それを裏切って弟とは敵対関係にある景勝の味方をするとは何事か、と怒り、勝頼に対し一方的に甲相同盟の破棄を通告してきたのだった。

こうして、はからずも北条を裏切ることになった勝頼。北条という強力な同盟相手を失ってしまったことで、それを好機とみて、徳川家康が高天神城の奪還に乗り出す。天正八年(一五八〇年)十月のことだ。

高天神城を見殺しにする

このとき、なぜか勝頼は高天神城に救援軍を派遣することはなかった。高天神城の堅城さを過信していたからとも財政難だったからとも言われているが、もうひとつ、出陣の隙を衝いて北条に攻め込まれるのが怖くて兵を出せなかったから、という説も有力視されている。
結局、高天神城を守備していた武田方の兵は全滅する。徳川や織田はこれを千載一遇の好機ととらえ、「勝頼が味方を見殺しにした。武田にはもはや援軍を送る力もないのだ」と大いに世間に触れ回った。

戦国最強をうたわれた武田軍団の威勢と勝頼の名声はこうして地に堕ちた。このときを境に、武田家中の有力武将が勝頼を見限り、どんどん離れていったと言われている。

その後、織田軍に追い詰められた勝頼は、天目山において妻子とともに自害を遂げた。それは、第二次高天神城の戦いが終結してわずか一年後の天正十年(一五八二年)三月のことだった。

あのとき、北条氏政に要請されたとおり景虎の支援をしていたなら、北条との結束はより強固なものとなり、こうもあっさりと武田は滅亡していなかったに違いない。勝頼こそは天運に見放された武将だったのである。

 

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