「権力は快感」というビジョンなき菅政権が行き着く先は【浜矩子】

権力

新聞や雑誌の見出しで、「理念無き」「ビジョンが見えない」などと評されることが多い菅義偉首相の政治手腕。従来、やりたい政策があって権力を奪取するはずだが、菅首相の場合は順番が逆なのだろうか? 自署で「(思想家の)マキャベリの言葉を胸に歩んでいく」と書くほどの信奉者である菅首相の頭の中身を、エコノミストの浜矩子氏が探っていく。

マキャベリの信奉者だった菅首相

菅首相の政権運営が「理念なき」「ビジョンが見えない」と新聞や雑誌の見出しに踊るのは多くのジャーナリストや、彼を間近でみている官僚たちの一致した考察だからだ。実際、この人の頭の中に特定の理念やビジョンは無いのだろう。あるのは、徹底した実利主義と実益志向だ。いくら、菅首相による理念やビジョンの披歴を待っても、その時は決して来ない。この際、このように割り切ってしまった方がよさそうである。

ただ、ここで菅首相の頭の中身の追求を止めてしまうのは、早計に過ぎるだろう。奸佞なる者には、下心が付き物だ。何かを達成しようとしているから、悪知恵を巡らし、悪巧みをするのである。何を達成しようとしているのか。そのためにどんなことを企んでいるのか。やはり、これらのことを突き止める必要がある。

ここでも、まずはマキャベリ先生にお知恵を拝借することが得策だと思う。なぜなら、先生の語録の中には次のお言葉があるからだ。

「権力こそ、他の全てを決する基軸だ。権力を掌握した者はいつも正しい。権力無き者はいつも間違っているとみなされる」

ここにこそ、菅政権のエッセンスがある。権力を掌握した者は、永遠の正しさを独り占めできる。他の全ての者どもを不正者の立場に追い込むことができる。この権力という名の至高のものを手に入れる。これが菅首相の目指すところなのではないか。

権力の自己目的化が導く実益志向

何らかの理念を実現したいから、権力を掌握したいというわけではない。あるビジョンに基づいて世の中を動かしたいから権力が欲しいわけではない。権力そのものが欲しいという権力奪取願望が、常にふつふつと湧き上がっている。それが菅首相の頭の中の状態なのだと推察する。

実際に、官房長官当時の菅首相は、番記者から「権力の重み」を感じるかと聞かれ、「というか快感」とつぶやいたことがあるらしい。(毎日新聞「風知草:こわもての孤立」(2020年 12月21日)。同じ番記者は菅氏に「官房長官は楽しいですか」と聞いたこともあるそうだ。すると、彼は「楽しいに決まっているだろ。やりたいことができるんだから」(出所、同右)と答えたそうである。官房長官から首相に昇格した今、やりたいことができる楽しさは増していることだろう。

今のくだりを書いたところで、 「ん?」と思った。 「やりたいことができるから楽しい」とおっしゃるところをみると、菅首相にはやりたいことがあるわけだ。ということは、彼にも実は理念やビジョンがあるということになりはしないか。菅首相、理念無し男説に少々迷いが生じてしまった。どうしよう。だが、しばし考えて事なきを得た。やりたいことの有る無しと、理念の有る無しは次元が違う。理念がなくても、やりたいことは出てくるだろう。

人気を高める。税収を増やす。特定の産業を支援する。こうしたことは、およそ理念やビジョンに縁のない政治にとっても、やりたいことだ。さしあたって具体的にやりたいことがなくても、権力さえ掌握していれば、実際にやりたいことが出てきた時、すぐにそれを実現できる。この気分が楽しい。快感だ。そう感じているのかもしれない。

いずれにせよ、「権力こそ基軸」と言い放つマキャベリ信奉者においては、 やはり権力そのものが自己目的化していると考えるのが合理的だろう。思えば、だからこそ、菅首相は実利主義に徹し、もっぱら実益志向で動くのだろう。今この時、権力を保持し続けるためには、これをやっておくのが得策だ。権力基盤をさらに盤石なものにしていくためには、ここで、ああいうことをやってアピールしておくのが効果的だろう。

政治と道徳は無関係は本当か?

ところで、マキャベリ先生は次のような凄いことも言っている。

「政治と道徳はまるで無関係である」

道徳と理念の関係は微妙だ。道徳心無き者に理念がないとは限らない。極めて道徳心に欠ける人間が、 いかがわしい理念や危険な理念を抱いているということはあり得る。 菅首相の出身母体である自由民主党には、そういうタイプの政治家が少なくないかもしれない。さらに言えば、政治と道徳が全く無関係なら、全ての政治家が抱く理念は非道徳的だということになる。

これはマキャベリの教えのあまりにも極論的な解釈かもしれない。ただ、この言葉を発した時のマキャベリ先生は、ひょっとすると、特定の人物、あるいはその人物が集約的に体現していた政治姿勢を念頭においていたのかもしれない。筆者はそう推理する。

その特定の人物は、聖トマス・モアである。名前の上に「聖」の冠がついているのは、彼が当時のカトリック教会によって「列聖」され、聖人となったからである。聖人の称号は、殉教者や、世のため人のために命がけで尽くした高潔なる人々に与えられる。聖トマスは、かの空想国家小説『ユートピア』の作者だ。マキャベリ先生は1469年生 まれで没年が1527年だった。聖トマスの生誕は1478年で、1535年に没した。

二人は完璧な同時代人だったのである。

だが、二人の思想性は大いに異なっていた。聖トマスは 15~16世紀のイギリスで、ルネッサンスの旗手となり、権力に敢然と立ち向かった。ヘンリー8世がカトリック教会から離脱し、国王を頂点とする英国国教会を創設しようとした時に断固反対した。王宮の重鎮でありながら、真っ向から国王陛下を諭し、批判してはばからなかった。微塵の忖度も働かせなかった。その結果、反逆者として処刑されることになった。

かたや、「権力こそ基軸」とするマキャベリ先生。かたや権力に屈せず、反体制の狼煙を上げることが政治家の使命だと認識した聖トマス。実に対象的な二人だ。実際に、マキャベリ先生は聖トマスのような立ち居振る舞いを「丸腰の預言者」だと一蹴し、そんな軟弱なことでは何も達成できはしないと冷笑していたようである。いかに道徳的で高潔であっても、「狐の狡猾」と「獅子の剛腕」を我が物としていなければ何にもならない。そのような思いが、前出の「政治と道徳はまるで無関係」発言に凝集したのではないか。

権力が基軸の菅首相、実は「政治家」ではなかった?

聖トマスは、ヘンリー8世の圧倒的な権力と強権に果敢に立ち向かった。彼は確かに 丸腰だった。彼は、ひたすら言葉をもって横暴な権力者と闘った。怯むことなく、逃げることなくまさに、初めに言葉ありきだ。この人に守護されているのが、政治家たちなのである。つまり、政治家たるもの、反権力・反強権でなければいけないということだ。異を唱える者を排除する。そのような権力者とは真っ向から対峙する。その覚悟ある者の上に、聖トマスの加護がある。

これは、マキャベリ先生と菅首相にとって誠に不都合なことだ。何しろ、彼らには権力が基軸だ。菅首相は権力の確立と維持のために、常に最も役に立つことを実現し、実益をあげようとしている。反権力どころか、菅首相は絶対権力を掌握することに汲々としている。忖度なき者は、その「王宮」から立ち退かせる。異論ある者は強権的に公職から遠ざける。聖トマスの守護に値するために従うべき「業務記述書」 には全く従っていない。つまり、菅首相は実は政治家ではないのである。 

 

 

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PROFILE
浜矩子

1952年、東京都生まれ。一橋大学経済学部卒。三菱総合研究所初代英国駐在員事務所所長、同社政策・経済研究センター主席研究員などを経て、同志社大学大学院ビジネス研究科教授。エコノミスト。近著に『統合欧州の危うい「いま」』(詩想社新書)、『「共に生きる」ための経済学』(平凡社新書)、『「通貨」の正体』(集英社新書)などがある。